【幻想郷の基本】
夜明けが近づく前に少し眠った伊万里は、鳥の鳴き声で目を覚ます。博麗神社の空き部屋は小さいながらも清潔で、壁には古びた掛け軸が一枚掛かっている。昨夜の記憶が一気に蘇り——外の世界を離れ、幻想郷に来て、霊夢に宿泊を許されたこと。手元にはまだ食べ残したおにぎりの皮が残っていて、現実味が湧いてくる。
「おー、起きたのね。早く起きないと朝ごはんがないよ」
戸口から霊夢の声が響く。伊万里は慌てて布団を畳み、バックパックから替えのシャツを取り出す——気が散りやすいので、昨夜から替えの服は手の届く場所に置いておいた。縁側に出ると、霊夢は釜で何かを煮込んでいる。煙が立ち上がり、大豆とネギの香りがする。伊万里は隣に座り、周囲を見回す。夜の時とは違い、幻想郷の朝は緑豊かな風景に包まれていて、森の向こうには霧がかかった山々が見える。
「おはようございます! 今日から掃除を… あ、朝ごはん、何か手伝いますか?」
「大丈夫、もうすぐできるわ。さて——」霊夢は杓子で釜をかき混ぜながら、伊万里の方を柔らかく見つめる。
「君は外の世界から来たから、幻想郷のことはほとんど知らないでしょ? ゲームに描かれてるのは一面だけなのよ。今日は基本的なことを教えてあげるね。まず第一って…」
彼女は釜から汁をすくい、茶碗に注ぐ。大豆と昆布の吸い物が完成した。
「… ここは『外の世界から隠された世界』だってこと。人間が普通に住んでる世界とは繋がっていないの。鳥居や隙間、その他いくつかの扉以外は、出入りできないんだよ」
伊万里は吸い物を口につけながら頷く。ゲームでもそうだったが、実際に聞くと「ここが真に別の世界だ」という実感が強まる。
「第二は… ここには人間だけじゃないの。妖怪、魔法使い、仙人、鬼… そういう存在が普通に住んでるのよ。君が昨夜心配してたように、危ないヤツもいるけど、大抵は人間と喧嘩するほど暇じゃないの。ただし、自分から挑発すると怪我するから注意してね」
「妖… 妖怪が普通に住んでるんですか…」伊万里は森の方向を見つめ、少し緊張する。昨夜は暗かったから何も見えなかったが、今も木の陰に誰かが隠れているような気がする——気が散りやすいせいか、目が自然に動いてしまう。
「第三は… ここには『規則』があるの。博麗神社の巫女、つまり私が『幻想郷の秩序を守る』役割をしてるの。何か大きな事件が起きたら、私が解決するのよ。君もここに住むなら、その規則を守る必要があるわ」霊夢はおにぎりを焼き直して手渡す。伊万里は受け取ると、突然頭にイメージが浮かぶ——「このおにぎりが、少しだけより美味しくなるように」と思った瞬間、焼き海苔がカリッと音を立て、香りが一層強くなった。
「わっ… また能力が…」
「おお、これは便利だね! 美味しくなっちゃったよ」霊夢はかじって驚いたように目を見開き、頬が少し浮かび上がる。伊万里は恥ずかしそうに笑う。
「それで第四… 君の能力も、ここでは普通に使って良いのよ。外の世界では『変わってる』って言われたかもしれないけど、ここではそういう『特別な力』を持つのは当たり前なの。何か役に立てるように使えば良いわ」朝ごはんを食べ終わらせると、霊夢は伊万里を神社の裏に連れて行く。そこには雑巾や箒、バケツが置いてあった。
「さて、約束通り掃除だね。まずは本殿周りを掃いて、それから賽銭箱を拭いてね。掃除をしながら、周りの風景を見て覚えるんだ。幻想郷の基本は『見て、聞いて、体で感じる』ことよ」
伊万里は箒を手に取り、掃き始める。気が散りやすいので、一つの場所に集中するのが難しい——時折森の鳥の声に気を取られたり、空を飛ぶ不思議な蝶に目を奪われたりする。だけど、霊夢が隣で本殿の柱を柔らかく拭いている姿を見ると、少しずつ集中できるようになる。
「あ、あの蝶… ゲームにはないような形をしてるんですね…」
「あれは『妖蝶』だよ。春になるとたくさん出てくるの。毒はないけど、近づきすぎると粉を撒かれて鼻水が止まらなくなるから注意してね」伊万里は妖蝶を遠くから眺め、心の中にその姿を描く。その時、掃いていた地面に小さな花が咲き始める——頭の中で「掃いた場所に美しい花が咲いたら良いな」と思ったのがきっかけだ。
「へえ、君は掃除しながらも花を咲かせるんだね。それじゃあ神社が毎日きれいになるわ」霊夢の柔らかな笑い声が聞こえて、伊万里は初めて「ここで自分が役に立てる」と思える。幻想郷の基本を学ぶ朝——それは単なる知識を得るだけでなく、自分がこの世界に溶け込んでいく第一歩だった。
「霊夢さん… 今日は他に何か教えてくれますか? 例えば、この近くに住んでる人や妖怪のこととか…」箒を休めて尋ねると、霊夢は柱にもたれて少し考え込むように目を細める。
「まあ、掃除が終わったら… 隣の魔法使いの家まで行ってみるかしら。あの子は外の世界のモノに興味があるから、君の持ってるパソコンや技術書を見て喜ぶと思うわ。それが第二のレッスンだね」森の風が吹き抜け、妖蝶が花の上を舞う。伊万里は箒を持ち上げ、再び掃き始める——今度は、少しだけ期待を込めて。伊万里が本殿周りの掃除を終える頃、太陽は森の上まで昇っていた。妖蝶たちは神社の境内にまで舞い込み、光の花と一緒に輝いている。霊夢は賽銭箱を拭き終え、伊万里の仕事を見て頷く。
「うん、よくできたわ。これで境内はキレイになったね。さあ、次は魔法使いの家へ行こうかしら」
「はい! あの魔法使いさんって… 魔理沙さんですか? ゲームに出てくるアリスさんじゃないんですか?」
気が散りやすいせいで、二つの名前が同時に口から出てしまう。霊夢はほんのり笑い、
「アリスは魔法の森の奥に住んでるのよ。今から行くのは、神社のすぐ隣、森の入口近くに住んでる魔理沙だけど、彼女も外の世界のモノには興味津々だからね」
二人は鳥居を抜け、森の小道を歩き始める。地面には露が残っていて、草花たちが朝露を浴びて輝いている。伊万里は目が四方八方に動き、時々木の上に止まっている不思議な鳥に気を取られる。
「あの鳥… 羽が青と金で光ってるんですね! 外の世界にはないです」
「あれは『金羽の鳥』だよ。幸運を呼ぶと言われてるけど、近づくとすぐ逃げちゃうの。君の気が散るのを見てると、絶対に捕まえられないわ」
霊夢のジョークに伊万里は恥ずかしそうに笑い、視線を前に戻す。その時、小道の先に赤い屋根の家が見えてきた——煙突からは薄い煙が立ち上がっていて、何かを焼いているようだ。
「まあ、着いたわ。これが魔理沙の家、『霧雨魔法店』だよ」霊夢が戸をノックすると、すぐに中からキラキラした声が聞こえてくる。
「誰だ~? 霊夢かな? 入っていいよ~!」戸を開けると、金髪の魔法使いが机に向かって何かを作っていた。パッと頭を上げると、緑の瞳が伊万里の方に向かい、パッと輝く。
「わっ、これが外の世界から来た子か! おお、すごいな! 名前はなんだい?」
「八… 八方伊万里です! よろしくお願いします!」
伊万里は慌てて頭を下げると、魔理沙が机から飛び降りて近くに来る。手には小さな金属の部品が握っていて、油汚れがついている。
「へえ、伊万里か。私は霧雨魔理沙、幻想郷一の魔法使いだよ! さあさあ、外の世界のモノを見せてくれ! 霊夢が『パソコンや技術書を持ってる』って言ってたよ」
「魔理沙、慌てないでよ。伊万里も緊張してるの」
霊夢が制止すると、魔理沙はフンと鼻を鳴らすが、目は伊万里のバックパックから離れない。伊万里はバックパックを取り出し、ノートパソコンと技術書を机に置く。
「これがパソコンです… 電気で動いて、情報を入れたり取り出したりできるんです。ただ、幻想郷には電気がないから… 動かせないです…」
「電気? そんなのは問題なんだぜ! 私が魔法で代用すればいいんだから!」
魔理沙は指先に小さな光を浮かべ、パソコンの電源ボタンに近づける。すると、パソコンの画面がピカッと光り、起動した音が聞こえた。
「わっ… 動いちゃいました!」
伊万里は驚いて画面を見つめると、デスクトップに東方Projectの壁紙が表示されている。魔理沙は頬杖をついて画面を見つめ、目がキラキラ輝く。
「すごい… これが外の世界の『情報機械』か! 壁紙に描かれてるのは幻想郷のキャラだろ? 外の世界でも私たちが知られてるんだね!」
「はい… ゲームになっていて、たくさんの人がプレイしています。俺も輝針城まで一つ一つ丁寧にプレイしました… 弾幕のパターンを全部記憶してるんです」
「へえ、全部記憶してるの? すごい記憶力だな! でも、気が散りやすそうなのにどうやって記憶したんだ?」魔理沙の問いに伊万里は少し照れて、「弾幕のリズムやパターンには… 集中できるんです。心が自然についていって、あっという間に記憶しちゃうんです」その時、机の上の技術書が風に吹かれてページがめくれる。魔理沙はそれを見て目を見開き、「わっ、これは物づくりの本か! 外の世界の技術が書かれてるの? これを見れば、私の魔法と組み合わせて新しい道具が作れそうだな!」
霊夢は隣で笑いながら見守っている。伊万里は魔理沙の喜ぶ姿を見て、心から嬉しくなる。外の世界では「不注意だ」「変わってる」と言われていた自分の特徴も、ここでは誰かの役に立つ可能性があるのだ。
「伊万里、これからもよく来てくれよ! 私と一緒に新しい道具を作ろうじゃないか!」
「はい! 願いです!」森の風が窓から吹き込み、技術書のページがさらにめくれる。幻想郷の基本を学ぶ日は、こうして新しい友達との約束で彩られていくのだった。技術書のページがめくれ続け、外の世界の機械設計図が一つ一つ現れる。魔理沙は指で図面をなでるように見つめ、口から小さな溜め息が漏れる。
「ほー、これは外の世界の『小型エンジン』の設計図か! 原理はわかるけど、部品の作り方がちょっと違うな… でも魔法で調整すれば、幻想郷でも動かせそうだよ」
「それって… 何に使えますか?」
伊万里が尋ねると、魔理沙は突然目を輝かせて立ち上がる。
「当然、飛行機だよ! 私が今作ってるのは新しいブロムステッドだけど、外の世界の技術を組み合わせれば、もっと速くて安定した飛び方ができるんだ! 伊万里、君も一緒に作るか? 図面の読み方を教えてくれれば、私が魔法で部品を作るから!」
「え? 俺が… 真剣ですか?」
「当然だ! 君はこの図面を見た瞬間、何か考えてるようじゃないか。気が散りやすいけど、物づくりには集中できるんだろ?」魔理沙の言葉に伊万里は驚いた——自分が図面を見て「ここを少し変えたらより良くなるのに」と思っていたのを、彼女は見抜いていたのだ。
「… はい! 少し考えてたんです! この部分のギア比を変えれば、動力ロスが減って…」伊万里は自然に図面の前に座り、指で箇所を指しながら説明し始める。気が散ることはなく、心が一つになって設計図の細部に集中する。霊夢は縁側に座って茶を入れながら、二人の姿を見守っていた。
「へえ、そうなんだ。君、意外と物づくりに詳しいわね」
「うん! 外の世界では技術書を読むのが趣味だったんです… でも仕事では集中できなくて…」言いかけて声が小さくなるが、魔理沙は気にしないように手を振る。
「そんなことはどうでもいい! ここは幻想郷だから、趣味が仕事になってもおかしくないよ。さあ、早速部品を作ろうか!」魔理沙は指先に強い光を浮かべ、金属の塊を机の上に置く。光が塊に包み込まれると、徐々に図面通りのギアの形に変化していく。伊万里は目を見開いて見つめ、心の中で「もう少し滑らかに…」と思う瞬間、能力が発動して光が柔らかく輝き、ギアの表面が鏡のように磨かれた。
「わっ、これは君の能力か! 表面が完全に平らになっちゃった! 動きが格段にスムーズになるよ!」
魔理沙の喜びが伝わって、伊万里は初めて自分の能力を「力」として認めることができた。外の世界では「不意図な変化を起こす厄介な力」と思われていたのに、ここではそれが最適な形で活かせるのだ。二人で部品を作り続けると、太陽が西の空に沈む頃には小型エンジンの原型が完成した。魔理沙はエンジンに魔法を込めると、ブンッと音がして回り始める——静かで、しかも強い動力が伝わってくる。
「すごい… 動いてるんです…」
「当然だ! 私と伊万里のコンビだからな! これをブロムステッドに付ければ、次の日の丸太峠レースで絶対に一着だ!」
「丸太峠レース? ゲームに出てくるあのレースですか?」
「うん! 幻想郷の人たちが毎回楽しんでるイベントだよ。伊万里も参加しようか? 自分で作ったエンジンのブロムステッドで飛ぶのは、外の世界ではできないでしょ?」伊万里はエンジンの音を聞きながら、頷く。外の世界では何もできないと思っていた自分が、ここで新しい道具を作り、イベントに参加することになるなんて——夢のようだ。
「さあ、そろそろ神社に戻ろうかしら。夕食を作らないと、お腹が空いて泣くわよ」霊夢の声で二人ははじめて時間を忘れていたことに気づく。魔理沙はエンジンを止めて大事そうに箱に入れ、伊万里に手渡す。
「これは君に持っていってね。明日、また来て一緒にブロムステッドに付けよう! 約束だよ!」
「はい! 明日絶対に来ます!」二人は霧雨魔法店を出て、森の小道を帰る道を歩く。夕暮れの光が森をオレンジ色に染め、金羽の鳥が二人の上を飛んでいく。伊万里はエンジンの箱を抱え、心から笑顔がこぼれる。
「霊夢さん… 今日はありがとうございます。幻想郷のこと、魔理沙さんに会えること… 全部、嬉しいです」
「うん、よかったわ。君もだんだん幻想郷に溶け込んできたね。明日からも、ここで自分らしく生きていけば良いのよ」夕暮れの中、二人の足音が森に響く。伊万里は抱えた箱を少し締め付け、明日の約束と、幻想郷での新しい日々への期待を胸に刻む。
——これが、少年の「幻想郷の基本」を学ぶ一日の終わりだった。