道をさらに進むと、周囲の雰囲気が突然一変した。木々のざわめきや土の匂いは消え、代わりに重い鉄の冷たい感触と、微かな機械音が絶え間なく耳に届く。開けた場所に出ると、そこはまるで巨大な機械室のような空間だった。天井には太い配線や金属パイプが網の目のように張り巡らされ、壁は錆びもない灰色の鉄板で覆われている。至る所に無数のダイヤル、発光する計器類、ゆっくりと回転する歯車やベルトが並び、低い振動が床から足元へと伝わってくる。
「ここは……何なんだ? 幻想郷にこんな場所があったなんて聞いたことがないぞ」魔理沙が箒を下ろし、辺りを警戒しながら声を上げる。霊夢も手にした御幣を少し構え、眉をひそめて周囲を観察する。
「魔力の流れが妙に歪んでいる。普通の機械とは違う、幻想の力がこの設備に干渉し、また逆にこの機械が幻想の領域自体に影響を与えているようだ」妖夢が壁のパネルに指を近づけ、流れる光の筋を見つめながら冷静に分析する。妖夢は刀の柄に手を置き、「空間の継ぎ目がこの辺りに集中しています。まるで記憶や意識の境界を無理やり繋ぎ合わせているような……」と囁く。慧ノ子と孫美天も息を飲み、この奇妙な光景に言葉を失う。伊万里の計画の核心が、この「幻想干渉領域」に隠されていることは誰の目にも明らかだった。低い機械音が一度大きくうなり、壁の奥から淡い紫の光が漏れ出す。次なる扉が、ゆっくりと開き始めていた——重い金属扉が軋むような音を立てて全開すると、機械音の合間に新たな足音が響き始める。奥の通路から姿を現したのは、道具袋を肩にかけた里香と、無表情な瞳でこちらを見据える明羅だった。里香は手袋をはめた手で額の汗を拭き、肩をすくめながら軽口を叩く。
「おやおや、まさかこんな奥深くまで追ってくるとはね。思ったよりしつこいじゃないか」隣に立つ明羅は、冷たい視線を霊夢たち全員に順番に送り、淡々と事実を告げる。
「侵入者ですね。ここは立ち入り禁止区域。引き返すか、それとも排除されるか、どちらかを選んでいただきます」歯車の回転音が一際高まり、二人の背後の計器類が赤く点滅し始める。里香はすでに懐から小型の動力装置を取り出し、明羅は体の周囲に微かな魔力の障壁を張り巡らせる。守り手が、ついにその姿を現した。霊夢は御幣をきりりと構え、迷いのない声で言い放つ。
「生憎だけど、その二つの選択肢を選ぶことはないわよ。通してもらう以外に、こちらの選択肢はないの」里香は肩の道具袋をずらし、くるりと後ろを向きながら、場に響くようなはっきりした声で呼びかける。
「ならば仕方ありません。岡崎夢美さん、朝倉理香子さん、侵入者がここまでやって来ましたよ〜!」声が機械室の壁に反響すると同時に、周囲のパイプが一斉に振動し、計器のランプが赤から青へと次々に切り替わる。低い駆動音が膨らみ、さらに奥の扉の向こうから、新たな気配と金属音が近づいてくるのを感じた。明羅は無表情のまま一歩前に出て、これから起きる事態に備えるように体勢を低くする。幻想と機械が交わるこの領域で、次の戦いの幕が上がろうとしていた。奥の暗がりから、白衣をなびかせた夢美と理香子が姿を現す。歯車の軋む音を背に、二人は揃ってはっきりと声を張り上げる。夢美は眼鏡の奥の瞳を鋭く光らせ、機械の制御盤に手を置きながら言い放つ。
「まさか、こんな大事な実験の最中に邪魔しに来るとは。伝統ばかりに固執する連中が、ここまで嗅ぎつけるとは思わなかった」隣で理香子は解析用の端末を操作しながら、冷静に補足する。
「我々は伊万里さんの協力のもと、幻想郷に根付く常識を打ち破り、安定した科学の力を根付かせようと目論んでいたのです。魔力と技術を融合させ、誰もが安心して暮らせる世界を築く……そんな計画を、あなたたちは台無しにしようというわけですね?」言い終わると同時に、周囲の配管が青白い光を帯び、床には複雑な回路模様が浮かび上がる。二人の背後では巨大な駆動装置が唸りを上げ、幻想と科学が交わるこの領域が、戦いの準備を整え始めた。早苗は手にした御幣を軽く握り締め、真っ直ぐに二人を見据えてはっきりと言い放った。
「都合のいい話だけに耳を貸したのですね。幻想郷に新しい道を作る、そんな理想に惹かれたのかもしれませんが――自分たちがうまく利用されているだけだと、まだ気づいていないようですね」その言葉に、夢美は眉をひそめ、理香子も操作していた端末の手を一瞬止める。
「利用されている、だと?」夢美は低い声で問い返す。
「ええ」早苗は動じることなく続ける。
「伊万里さんが目指しているのは、科学の発展でも幻想郷の平和でもない。自分自身の在り方を書き換え、境界すら超越した存在になること。あなたたちの力も、畜生界の力も、信仰の力も――すべてがそのための材料に過ぎないのです」空間に流れる青白い光が、早苗の言葉と共に一瞬ゆらめいた。空間がぐにゃりと歪み、青白い光の渦が中心から膨れ上がると同時に、どこからともなく伊万里が現れた。不敵な笑みを浮かべ、指先をくるりと回しながらはっきりと言い放つ。
「おいおい、利用してるだなんて、随分と人聞きの悪い言い方だね!コイツラは最初から自分の意思で協力を申し出たんだよ。それがいつの間にか、私の言葉を勝手に“幻想郷を科学で良くする計画”なんて具合に、都合よく解釈しただけの話さ」肩を軽くすくめ、冷めた目で三人を眺めながら続ける。
「別に科学の発展そのものにはそこまで興味はない。まあ、結果的に進むならそれはそれで構わないけどね――私の真の目的に比べれば、枝葉に過ぎないんだ」次の瞬間、伊万里の掌から無数の光の糸が迸り、逃れる間もないまま夢美・理香子・里香の三人を一瞬で包み込む。糸は瞬く間に収縮し、三人を閉じ込めた完全に透明で硬い光の球体へと形を変えた。
「き、貴様!何をする!?」
「これは何の罠ですか!?」
「放せ、計画が……!」内部から叩きつけるような叫びや衝撃が響くが、球体はびくともせず、浮いたまま静かに宙に固定される。伊万里はその球体を指でつまむようにして、まるでガラス細工でも扱うかのように軽く揺らし、無関心な口調で締めくくる。
「役割はもう終わり。用済みになった駒は、こうして保管しておくに限る。さて――本命の相手と向き合うとしようか」伊万里は宙に浮かぶ光の球を脇へと投げ置き、鋭い指差しで前方を指し示しながら、歯切れよく命じる。
「おい、明羅! ソイツラとやりあって、しっかり時間稼ぎしろ!」その声と同時に、伊万里の全身から濃密な魔力の光が吹き上がり、一直線に隣に現れた明羅へと流れ込んでいく。力が注がれるたび、明羅の周囲の空気が波打ち、纏う気配がぐんと重く鋭さを増していく。明羅は静かに頭を下げ、冷ややかながら従順な調子で応える。
「仰せのままに」力を受け取った瞳が淡く輝き、体勢を低く構えると、空間を切り裂くような殺気を漂わせながら早苗たちの前へと進み出た。明羅が一歩踏み出して早苗たちの前に立ち塞がるのを確認すると、伊万里は手をかざして宙に浮く光の球体へと指先を向けた。
「さて、これで邪魔は入らないだろう」軽く指を弾くような仕草と共に、夢美たちを閉じ込めた透明な球体が三つ揃ってゆっくりと浮き上がり、まるで手綱で操るかのように伊万里の背後へと引き寄せられる。空間に裂け目のような歪みが走り、濃紺色の光の扉が開く。伊万里は不敵な笑みを残し、明羅へ背中を向けながら言い捨てる。
「後は任せたよ、時間一杯稼いでもらうぜ」背後で明羅の気配がさらに鋭く高まるのを感じつつ、伊万里は球体を従えるように光の扉の中へと足を踏み入れる。扉は入った瞬間、跡形もなく閉じ、周囲は元の静けさを取り戻す――ただし、早苗たちの前には、力を得た明羅が立ち塞がったまま、無表情にこちらを見据えていた。霊夢は懐から御札を握り直し、真っ直ぐに問いかけるように声を張り上げる。
「まて、明羅! 伊万里が八千慧や早鬼たちまでさらっているのは、一体何のためだ!?」その問いに答える代わりに、明羅の瞳が鋭く光る。無言のまま腰の刀を一閃、抜き放つと、周囲の空気が鋭い刃の気に引き裂かれるように震えた。
「……答える義務などない」低く冷たい声が落ちると同時に、一閃の閃光が弧を描き、真空を切り裂くような飛ぶ斬撃が雷のような速さで霊夢たちへと襲いかかる。道筋にある岩や柱は触れる前から細かく砕け、衝撃波が空間全体に響き渡った。一方、薄暗く結界に守られた伊万里の本拠点――闇に沈むような広い空間に、光の球体に閉じ込められた夢美たちが静かに浮かんでいた。そんな中、どこからともなく低く嗤うような声が響き渡る。
「クックック……伊万里、お前、ここへ来て随分と派手で面白いことをしてるではないか」ゆっくりと闇の中から姿を現したのは、饕餮尤魔だった。飄々とした、どこか掴みどころのない笑みを浮かべ、大口を開けて何でも呑み込むような雰囲気を纏いながら、伊万里の方へと歩み寄る。
「駒を集め、邪魔者を閉じ込め、外では時間稼ぎまでさせて……お前の“真の狙い”は、いったい何を喰らおうというのかね?」まるで自分のことのように興味津々な目を光らせ、尤魔はさらりと問いかけながら、浮かぶ光の玉たちをちらりと眺めやった。尤魔の問いかけに応えるように、空間の境界が柔らかく波打ち、紫がゆったりとした足取りで現れた。扇を口元に軽くあて、いつもの余裕に満ちた笑みを浮かべながら尤魔の前に立つ。
「饕餮、そんな物騒な『喰らう』なんて話じゃないよ」紫はくすりと笑い、言葉を続ける。
「伊万里がやろうとしているのは、ただ自分の種族の枠組みを取り払って、そして幻想郷の在り方をもっと柔軟で誰もが居場所を得られるように整えることだけ。悪意で何かを奪ったり飲み込んだりするつもりなんて、最初からないんだよ」尤魔は少し目を細め、紫の言葉を吟味するように見つめる。
「ほう? 境界を操るお前がそう言うなら、一応聞いておくが……だとしたら、なぜわざわざ多くの力を集め、人を閉じ込め、まるで何か大きな儀式でも準備しているような真似をしている?」紫は扇を閉じ、静かに本拠点の奥へと視線を向ける。
「それはね、変えるということは、今ある形を一度ほどくことでもあるからさ。何も壊さずに、ただより良い姿に作り替えるための手続きなんだ」伊万里は本拠点中央に据えられた石造りの祭壇へと歩み寄り、床に浮かんだ三つの光の球体を指先で操るように動かす。祭壇面にはそれぞれ大きさの合った窪みが彫られており、まるで最初から用意されていたかのような造りだ。カチリ、カチリと軽い音を立てながら、理香子、里香、夢美を閉じ込めた球体が一つずつ正確に窪みに収まり、はまり込むと淡い光が祭壇全体に滲み広がる。伊万里は満足げに口角を上げ、球体を見下ろしながら低くはっきりと告げる。
「コイツラが積み上げてきた科学の力は、確かに素晴らしい。常識に囚われず未知を切り開く思考と、それを形にする技術――これまで幻想郷にはなかった種類の力だ」彼女は手を祭壇の上にかざし、光の流れが自らの指先へと引き寄せられるのを感じ取る。
「だからこそ、私がこの力を正しく有効活用させてもらう。種族の壁を打ち砕き、幻想郷の仕組みを再編するための、重要な糧としてな」背後から紫と尤魔が静かにその様子を見守る中、祭壇の光は次第に強まり、本拠点全体が微かな振動を帯び始めていた。祭壇の光が静かに脈打つ中、背後の空間がふわりと開き、隠岐奈が神々しい気配をまとって現れた。鋭くも落ち着いた瞳で伊万里を見つめ、歯切れの良い口調で問いかける。
「しかし、伊万里よ。お前、本当のところを言えば、ここまで大げさな手順を踏まなくても、目的を果たすことはできたのだろう? だというのに、わざわざ霊夢たちを刺激し、この本拠地まで誘き寄せるような真似までしている」伊万里は祭壇に手を置いたまま、振り返らずにさらりと答える。
「それが、わざとだよ」その言葉に隠岐奈は眉を少し上げ、紫も扇を口元に近づけて静かに成り行きを見守る。伊万里はようやくこちらを向き、口元に意味ありげな笑みを浮かべて続ける。
「一人だけで理想を描いても、それはただの独り善がりに過ぎない。幻想郷を変えるということは、ここに生きる者たちの意思を巻き込み、互いにぶつかり合い、その上で新しい形を作り上げることだからな。霊夢たちが来ることで、私の計画は“一方的な改変”ではなく、“幻想郷全体での選択”になるんだ」伊万里は指先を滑らせるように動かし、懐と空間の狭間から次々と宝玉を取り出していく。それらはいずれも、過去に霊夢たちとの戦いで敗れ退けられたチルノをはじめとする妖怪たちの力が凝縮された結晶だ。ひんやりとした冷気を帯びた青い宝玉、わずかに稲光が走るもの、草木の息吹が漂うもの――それぞれに固有の能力が封じられ、淡い輝きを放っている。彼は祭壇の周囲に設けられた別の台座へと、一つずつ正確に置いていく。カチリ、カチリと金属的な軽い音が響き、宝玉が台座に収まるたび、封じられた力が微かに脈動し、周囲の空気がその性質に合わせて変化していく。
「チルノの氷結、他の連中の持つ力もな……霊夢たちに“弱い”と切り捨てられ、退けられてきた力だ」伊万里は並んだ宝玉を眺め、口元に冷ややかな笑みを浮かべる。
「だが、数が集まり、仕組みに組み込まれれば、単なる一妖怪の力を超えた大きなエネルギーになる。科学の力と合わせ、これまで幻想郷が見過ごしてきた“小さな力”すらも、新しい形を作る礎に変えてやる」台座の宝玉たちは次第に同調し、祭壇全体と呼応するように光の輪を描き始めていた。祭壇の光が部屋全体を淡く照らす中、尤魔は口の端を吊り上げ、喉の奥から低く響くような笑い声を漏らす。目を細めて伊万里の背中をじっと見つめ、歯切れの良い調子で声を上げた。
「クックック……伊万里よ、お前のこの手際と発想、放っておくにはあまりに惜しいなぁー! 常識も権威も関係なく、ありとあらゆる力を自分の目的のために集約していく――その貪欲さと大胆さ、悪くないぜ」一歩前に踏み出し、指をパチンと弾いて光の雫を散らしながら、誘うような口調を強める。
「いっそのこと、アタシと組まないか!? 力の使い方、境界の抜け道、幻想郷の裏側のルールなら、この尤魔が知り尽くしている。お前の計画にアタシの知恵と悪戯心を加えれば、今の何倍も面白く、何倍も破壊的な結果が待ってるぜ?」紫の扇子を閉じ、じっと伊万里の反応を待つ隠岐奈の横で、紫は静かに目を細め、何が起きるかを興味深げに見守っていた。祭壇の光が波打つように明滅する中、伊万里は肩を震わせて高らかに笑い、ゆっくりとこちらへ向き直った。その瞳には一点の迷いもなく、鋭い意志と余裕が宿っている。
「フハハハ〜! 面白いことを言ってくれるな、尤魔! だが、はっきりと勘違いするなよ」指を一本立てて、相手を制すような仕草を見せながら、歯切れ良く続ける。
「お前が主導権を握るなんて、そんな話になるわけがない。お前と俺、上下も優劣もない――あくまで対等な立場だ。互いの欲しいものを出し合い、力を重ねるだけの関係にする」
少し口元を緩め、声の調子を和らげる。
「それでも……この俺の計画に協力を申し出てくれるとは、悪くない目を持ってるじゃないか。率直に言って、嬉しい限りだぜ」並ぶ宝玉と台座に視線を戻し、まるでこれで合意が成立したかのように、空気が新たな緊張と期待に満ちていった。尤魔は大口を開けて高らかに笑い、指をパチンと弾いて周囲に微かな闇の気配を散らした。
「クックックッ……まあ、それでこそ話が弾むってもんだ! 主導権争いは後で考えるとして、今のところ交渉は成立だな!」体をくるりと回して祭壇全体を見渡し、興奮したような目を光らせる。
「対等な関係、力を出し合うだけの関係……悪くない、悪くないぜ! お前が集めたこれだけの材料、この尤魔の手が加われば、どんな風に変貌するか見ものだ。さあ、次は何をする? 儀式の準備はもう整ってきてるようだが?」紫と隠岐奈は互いに一瞥を交わし、これで伊万里の陣営にまた一つ強力な駒が加わったことを静かに受け止めていた。本拠点に流れる力の波は、さらに重く大きく膨らみ始めている。場面は霊夢たちのもとへと戻る。激しい攻防の末、ようやく明羅の動きが鈍り、最後の一撃を受けて体勢を崩す。刀を地面に突き立て、荒い息を吐きながら立っているのがやっとという状態だ。霊夢たちはそれぞれ傷を負いながらも、なんとか勝利を収め、警戒を解かずに明羅を見据えている。明羅は口の端から血をにじませ、悔しそうに歯噛みしながら低く吠えるように言った。
「ク、クソ……! ここまで追い詰められるとはな……」だが次の瞬間、冷たい笑みを浮かべ、続けて吐き捨てる。
「だが、時間稼ぎとしては十分すぎる成果を上げたぜ。もう伊万里様の準備は、とっくに最終段階に入っている頃だ」その言葉に霊夢たちの表情が一斉に険しくなる。魔理沙は箒を強く握り、舌打ちをする。
「まずいぞ……ここで手間取っている間に、あいつは計画を進めていたってわけか」霊夢は御幣を構え直し、先の通路を鋭く睨みつける。
「急ぐわ。これ以上遅れれば、取り返しのつかないことになりかねない」一行は傷を押して立ち上がり、明羅を置き去りにして、さらに奥深くへと駆け出していった。激闘の余波がまだ空気に残る中、霊夢たちは力を振り絞って立ち上がろうとするも、全身に染み渡る痛みと消耗が勝り、膝から崩れるように地面についた。
「クッ!ここまでのダメージが……」
霊夢は御幣を杖代わりに突いて体を支え、唇を噛む。腕や肩には斬撃や弾幕の痕がくっきりと残り、呼吸も浅く荒い。魔理沙も箒に体重を預け、額の汗を拭いながら苦い声を漏らす。
「これじゃ、幻想郷が……伊万里の野郎の好き勝手にされちまう」
「そうはいってもこの疲労感は……骨の芯まで削られたようだ」他の仲間も同じように立ち上がれず、絶望的な雰囲気が包み込もうとした――そのとき。幻子が一歩前に進み、両手をゆっくりと胸の前にかざす。
「大丈夫、まだ終わりじゃない」柔らかくも力強い声と共に、周囲の空気から白銀色の清らかな光の粒が次々と集まり、渦を描いて彼女の掌に収束していく。光は次第に大きな丸い輝きとなり、やがて霊夢たちの上へとふわりと広がった。光が体に触れるたび、焼けるような痛みが引き、固まっていた筋肉が解け、涸れかけていた霊力が静かに満ち返っていく。傷口は淡い光に包まれて塞がり、荒かった呼吸も少しずつ落ち着いていく。
「……治癒の光か」霊夢が目を見開き、体の奥から力が戻ってくるのを感じて低く呟く。幻子は穏やかな表情のまま光を送り続ける。
「完全に元通りとはいかないけれど、戦いを続けられるだけの力は取り戻せる。さあ、急いで――時間は刻一刻と迫っているわ」治癒の光がまだわずかに漂うその瞬間――周囲の空気がざわりと震え、次の瞬間、世界そのものがねじ曲がるように歪み始めた。まるで熱した蜃気楼のように景色が波打ち、地面も壁も天井も、遠近感や形の定まりを失って不自然に伸び縮みする。歪みは次第に激しさを増し、見る者の平衡感覚を奪い、内臓まで締め付けるような圧力が襲ってくる。まさに歪なほどの異常さで、現実の枠が音を立てて軋んでいるかのようだ。
「な、何だ⁉ この感じは……」霊夢は御幣を強く握り、眉間に深い皺を寄せる。空間の歪みに混じって、先ほどまでの闘いとは質の違う、どす黒く重い魔力がうねりを上げて迫ってくるのを肌で感じ取った。幻子も光の輝きを守りの膜へと変え、警戒の目を宙に向ける。
「これは単なる術じゃない……世界の境目そのものが壊れかかっているみたい」魔理沙は箒を構え直し、舌打ちしながら周囲を睨む。一方、伊万里たちの本拠点へと場面が移る。
祭壇の光が渦巻き、空間全体が重く脈打つ中、伊万里は浮かぶ宝玉や光の球を見下ろしながら、冷たく笑みを浮かべて口を開いた。
「霊夢たち、我が駒をまた一つ潰したか。だが、もう遅い。これで幻想郷も月の都も、地獄に旧地獄、そして畜生界まで――あらゆる領域を俺の思い通りに自由にできる」その言葉を聞いた瞬間、尤魔は思わず目を丸くし、驚きを隠せない様子で前に踏み出す。
「ちょっと待て! 畜生界には手を出さない、そう約束したはずだぞ!?」伊万里は肩をすくめ、鋭い瞳で尤魔を見据えながら、歯切れよく言い放つ。
「フン、言葉の表面だけを受け取るとはなんと浅はかな。剛欲同盟の長たるお前ですら、俺の欲望の奥底までは見抜けなかった、というわけか」背後で紫と隠岐奈が無言で成り行きを見守る中、祭壇の光はさらに激しく明滅し、境界を超えようとする力が、本拠点全体に満ち溢れていった。祭壇の光が不穏に明滅する中、尤魔は一歩詰め寄り、鋭い声で問いただす。
「騙したのか? 最初からこんな計画だったというのか!」
それに続いて、紫も扇を強く握り締め、冷ややかな瞳で伊万里を見据えながらはっきりと切り出す。
「伊万里、あんた、それじゃ本来の目的から大きく外れているんじゃないかしら? 自分の種族を超えて新たな在り方を得るだけなら、幻想郷をはじめあらゆる領域を巻き込み、力を独占するような真似まで、何もそこまでする必要はないはずだわ」だが伊万里は答える代わりに、喉の奥から低く笑い声を漏らし、意味深な口調で言い返す。
「フフフフフフ……目の前に立っているのが事実そのものの伊万里なのか、それとも虚構として作り出された伊万里なのか。その区別さえはっきり見極めた上で、物を言っているのかな?」その言葉を聞いた瞬間、隠岐奈の表情が一変。全身に神聖な気を張り巡らせ、鋭い観察眼で相手を射抜くように告げる。
「紫、おかしい。こいつは偽物だよ! 本物の気配も魂の軌跡も感じられない。いったいいつからだ? いつの間に入れ替わっていたというんだ!?」空気が凍りつくような緊張感に包まれ、祭壇の光も一瞬、不自然に暗く沈んでいった。隠岐奈の言葉に、紫と尤魔が息を呑んで身構えた瞬間——偽物の伊万里の口元が歪み、からからと乾いた笑いが響く。
「本物の伊万里が種族を超えた姿を求めていたのは、まぎれもない真実だ。だが、お前たちはここまで付き合っておきながら、入れ替わっていたことにさえ長らく気づかなかったのか? 境界を操る者も、力に目のない強欲者も、たいした見識だこと」その言葉が宙に消えるより早く、偽伊万里の背後の空間が静かに波打ち、裂け目のような光の筋が走る。
「……それは、お前が私の姿と計画を都合よく捻じ曲げただけの話だ」低くも確かな声が響くと同時に、本物の伊万里がゆっくりと姿を現した。本物の周囲には、偽物にはない安定した霊力の流れが漂い、瞳には迷いのない意志が宿っている。
「私の願いは“種族の壁をなくし、誰もが自分らしく在れる世界”を作ることであって、領域を支配したり力を独占したりすることではない。お前は私の名を騙り、自分の欲望のためだけに動いていたに過ぎない」本物の伊万里が手をかざすと、偽伊万里の体はまるで氷が溶けるように輪郭を曖昧にし、正体を現そうとしていた。紫、隠岐奈、尤魔は一斉に警戒を強め、これまでの騒動の裏に潜んでいた真の黒幕の姿を待ち受ける。偽者の輪郭が崩れ去り、場に真の気配が戻ると、本物の伊万里は凛と背筋を伸ばし、鋭くも落ち着いた声ではっきりと告げた。
「隠岐奈様、紫さん、尤魔――ここまでが前座だった。ここからが本番だ」
その言葉と共に、伊万里の全身から力強い霊力が立ち上り、祭壇に浮かぶ宝玉や光の球が一斉に応えるように輝きを増す。不穏に歪んでいた空間が正され、境界の流れが本来の秩序を取り戻し始めるのを、三人は肌で感じ取った。
隠岐奈は深く頷き、神々しい気迫を込めて応じる。
「ようやく本来の形に戻ったか。偽者の悪戯に付き合わされたが、これで真の目的へ向き合える」
紫も扇を一閃させ、境界の糸を指先に絡めながら口元に笑みを浮かべる。
「さあ、これからが本当の勝負。私たちが何を守り、何を変えるのか、はっきり示すとしましょう」
尤魔も舌なめずりをし、闘志を漲らせて肩を回す。
「クックック、やっと面白くなってきた! 偽者の駒遊びは終わり、これからが本物の力比べってわけだな!」
伊万里は祭壇の中心へ視線を向け、強い決意を込めて続ける。
「私の願いを歪め、領域を混乱させようとした連中を抑え、幻想郷の未来を自分たちの手で選び取る。さあ、行くぞ」