習作   作:配管パイプ

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 僕と姉さんには両親がいない。理由は教えてもらえないけど、僕が物心ついた時には姉さんと二人で叔母さんの家に世話になっていた。

 叔母さんの家の敷地内にあるプレハブ小屋。それを人が住めるように改装したものが僕と姉さんの住居だった。

 姉さんは僕より六つ年上で、いつも優しくて働き者だった。二人分の炊事洗濯、掃除なんかをほとんど一人でこなしてしまう。僕が手伝おうとしても、皿洗いやゴミ出しなんかの簡単な事しかさせてもらえなかった。

 特に、包丁や火を扱うような事は「怪我したら危ないからダメ」と強く禁止された。

 

 そんな僕と姉さんの間には、いくつかの約束があった。

 何か困った事があったら誰よりも先にお互いに相談すること。

 学校が終わったら寄り道せず真っ直ぐ帰ってくること。

 僕が家に一人でいる間、姉さんや叔母さん以外の人が訪ねてきても絶対に対応しないこと。電話にも出ないこと。

 

 一度だけ、僕はその約束を破ってしまった事がある。

 あれは僕が小学五年生の時の事だ。

 

 その日、いつも通り一緒に下校していたケンちゃんが「近くの空き地にエロ本が落ちてたから見に行こうぜ!」と言い出した。「寄り道すると家の人に叱られるから行けない」と僕が言うと、ケンちゃんは残念そうにしながらも納得してくれた。

「エロ本の中身、明日教えてやるからな!」そう言って空き地へ向かっていったケンちゃんと別れて、僕は後ろ髪を引かれる思いで家路についた。

 

 当時高校生だった姉さんは僕より一、二時間遅く帰宅するので、プレハブ小屋には僕一人だった。手洗いとうがいを済ませて宿題に取り掛かってみたけど、教科書やノートの内容がまったく頭に入らなかった。ケンちゃんから聞いた話が原因だ。女の人の体に興味が出てくる年頃だった。

 ケンちゃんは今頃エロ本を見ているのだろうか。そのエロ本にはどんなものが載っているんだろう。そんな事を考えていると頭の中がグルグルして宿題がまったく手につかなかった。

 僕は宿題を諦めて畳の上に大の字に寝っ転がった。姉さんが帰ってくればこの変な気分も収まるはず。宿題はそれからやろう。そんなふうに考えながらぼーっとしていると、

 

 ジリリリリリリリリ!

 

 と、普段ほとんど鳴らない電話がけたたましく鳴った。

 

 思わずビクりとしたあと、すぐに姉さんとの約束に思い当たり、僕は電話を無視することにした。

 

 ジリリリリリ……

 ジリリリリリ……

 

 一分、二分と経っても、電話は鳴り止まない。

 しつこいなぁ。姉さん、はやく帰ってこないかな。

 

 三分過ぎても、電話は止まらなかった。

 もしかして姉さんの身に何かあったのかも。不意に不吉な想像がよぎった僕は、フラフラと立ち上がり受話器に手を掛けた。喧しい電話のベルに負けないくらい、胸の鼓動がうるさかったのを覚えている。約束を破る事と、何か良くない報せを受けてしまうのではないかという不安でいっぱいだった。

 それでも僕は電話に出た。出てしまった。

 

「も、もしもし……」

 

 いつの間にかカラカラに渇いていた口からどうにか掠れた声を絞り出す。

 

『~~!?~~~!~~!!~~~~~!!?』

 

 電話の向こうから聴こえた声は、おそらく知らない女の人の声だった。よく通る声なのに、何を言っているのかまったく聞き取れなかった。とても焦った様子で何かを問い質しているように思えた。その声を聞いていると、突然激しい頭痛に襲われた。視界が揺れて、呼吸が上手く出来ない。身体中が煮えたぎるように熱い。

 ダメだ。これ以上この声を聴いちゃいけない。乱暴に受話器を置いて電話を切ったあと、そのまま視界が真っ白になってその場に倒れこんでしまった。

 

 

 ────

 

 

 気がつくと、僕は姉さんと激しく抱き合っていた。

 姉さんは学校の制服をはだけさせて、僕に何度も口づけをしてきた。僕もそれに応えるように、姉さんの体の至るところをまさぐった。二人の荒い呼吸が響いていた。

 ……ああ、これは夢だ。僕が姉さんとこんな事をするわけがない。姉さんがこんなはしたない格好をするわけがない。

 

 僕が姉さんをそんな目で見ているはずがない。

「リョウくんっ…リョウ、くんっ…!」

 姉さんが、こんないやらしい声で僕を呼ぶはずがない。

 

 『……!…ョウ…く…!リョ………ん!』

 

 だから、早く……この悪い夢から覚ましてくれ。

 

 

 ────

 

 

 「リョウくん!しっかりして!どうしたの!?」

 

 意識を取り戻した僕は、姉さんの腕に抱きかかえられていた。

 

 「…僕、どうしてたの…?」

 

「帰ってきたらリョウくんが倒れてるんだもん!ビックリしたよ!ねぇ、何があったの!?」

 

 姉さんの手を借りながら起き上がり、改めて姉さんの様子を見る。制服の上に上着をしっかりと着込んでいる。傍らには買い物袋が投げ捨てられていて、中に入っていた食材や日用品が床に散らばっている。きっと、倒れている僕を見つけて慌てて駆け寄ってくれたんだろう。……よかった、やっぱりさっきのは夢だったんだ。

 

「リョウくん、体調悪いの?どこか苦しいところとか痛いところとか無い?」

 

 少しだけ声を落ち着かせた姉さんに訊ねられた僕は、一度迷ったあと、結局正直に話すことにした。

 

「電話が鳴って、その……出たら、変な声が聞こえて…」

 

「電話に出たの?」

 

 ゾッとするような、冷たい声だった。

 

「あの…ご、ごめ、ごめんなさい……知らんぷりしてたんだけど、…ずっと鳴ってて…姉さんに、その、何かあったのかもって、思って…」

 

「ああ、うん、ごめんね。リョウくんを責めてるわけじゃないんだよ。お姉ちゃんを心配してくれたんだね、ありがとう」

 

 思わず俯かせてしまっていた顔を上げると、姉さんはいつものように優しい表情をしていた。

 

「それじゃ、その電話を取ってからおかしくなっちゃったんだね。それよりも前に体の具合が悪かったところは無い?」

 

「う、うん…無いよ」

 

 約束を破った事を叱られるかもしれないと思っていたけど、姉さんは一切僕を叱る様子は無かった。

 

「リョウくん、私これから電話をかけるから、悪いけどお片付け、お願いできるかな?」

 

 床に落ちた買い物袋を指差して言う姉さんに頷いて、言われた通りに片付け始める。こんな状況だけど、姉さんから何かを頼まれることは滅多に無いから、それを少し嬉しく感じていた。

 

「あ、叔母さん、私です。…はい、実は、例の電話がかかってきて、うちのリョウが取ってしまったみたいなんです……はい、はい。…いえ、もう本人は意識もしっかりしてます」

 

 片付けをしながら、姉の声に耳を傾ける。どうやら電話の相手は叔母さんらしい。

 

「いえ、わかっています。……はい、そのときは私が責任を持って……はい、もちろん。……きっと、あの人もこれで諦めがつくと思います。……私は、私とリョウを信じているので……はい、はい。……」

 

 話の内容はわからないけど、姉さんの声がどんどん深刻になっていくのがわかって、それにつれて僕も不安になってきた。

 やがて姉さんは受話器を置くと、

「リョウくん、少し聞きたい事があるんだけどいいかな?」

 と言ってテーブルに座るよう僕に促してきた。

 頷きで応えてテーブルについた僕の対面に座った姉さんが、少し言いづらそうに口を開いた。

 

「あのね、リョウくん……さっきの電話のあと、気を失ってたみたいだけど、そのとき夢を見なかった?」

 

 ドキッと、心臓が跳ねた気がした。さっき見たタチの悪い夢の内容を、どういうわけか姉さんは知っているのかもしれない。

 

「え、えっと……その、……」

 

 どう答えればいいかわからずに僕が目を伏せて口ごもっていると、姉さんはもう一度優しく質問を繰り返した。

 

「リョウくん、顔上げて。…そう、お姉ちゃんの目をちゃんと見て。…大事なことだから、正直に教えて。……さっき、どんな夢を見たの?」

 

 姉さんの様子に観念した僕は、とても恥ずかしかったけど、夢の内容をすべて正直に話した。

 姉さんは途中から顔を赤くしていたけど、最後まで聞いてくれた。

 

「なんて夢を見てるのよ、もう」

 

 あんな夢を見たことを話したらもっと気味悪がられるかと思ってけど、姉さんは照れたような、困ったような笑顔を浮かべていた。

 

「うん、でもよかった。リョウくんがリョウくんでいてくれて安心したよ」

 

 姉さんの言ってることはよくわからなかったけど、僕を嫌ったり怒ったりはしてなさそうで安心した。

 

「ねえ、リョウくん。 お姉ちゃん、これからもう一件電話かけるんだけど、隣にいてくれるかな?」

 

「え、隣に?」

 

「うん、今からとっても怖い人に電話するから、リョウくんが隣にいて手を握ってくれると嬉しいな。そうすればお姉ちゃん安心できるから」

 

 姉さんの言う『とっても怖い人』が誰なのか、どうしてわざわざそんな怖い人に電話をかけるのか、さっき僕が取ってしまった電話と関係あるのか、わからないことばかりだったけど、いつも強くて優しい姉さんに頼ってもらえるのなら、僕が断れるはずもなかった。

 

 二人で手を繋いで電話の前に行く。

 

「リョウくんは声を出しちゃダメだからね」

 

 僕が頷くと、姉さんが受話器を手に取った。

 それから数秒、何の番号も入力していないのに、コール音が聴こえてきた。

 

『~~、~~…~、~~…~~~~』

 

 受話器から漏れ聴こえてきたのは、さっきの電話と同じ声だった。でも今回は酷く弱っているような、苦しそうに声を出しているように思えた。

 

「ふふっ。…あは、あははは!」

 

 受話器に耳を当てたまましばらく黙っていた姉さんが、突然、我慢できないといった感じで笑いだした。

 

「あはは、あー、いい気味。ねえ、今どんな気分ですか?未練がましくあんな電話まで寄越して、結局全部無駄に終わって。リョウはもう貴女のことなんて少しも覚えていませんよ。あはははは!」

 

 電話の相手を煽るように笑う様子は、僕の知っている姉さんとは別人のようで、なんだか怖かった。そんな僕の不安を、繋いだ手から感じ取ったのかもしれない。姉さんは「大丈夫」と僕に笑顔を向けてくれた。

 

『~~、~~、~……~~…』

 

「ええ、今も隣にいますよ。声?聞かせてあげるわけないでしょう。立場を弁えてくださいよ。ふふ、あは、あはは、だって貴女は、今までもこれからも、リョウとはなんの関係も無いんですから。あはははっ!」

 

「…姉さん、その人、誰なの?」

 

 僕がとうとう我慢できずに姉さんに訊ねると、姉さんよりも先に受話器の向こうの相手が反応した。

 

『~!!!~~!~~、~!~、~~~~!!』

 

 やっぱり何を言っているのか聞き取れなかったけど、必死に何かを訴えかけるような、懇願するような声だった。

 姉さんは一瞬だけ、わずかに苛立ちを含んだ目を僕に向けてきたけど、すぐに笑顔に戻ると再び受話器へと話しかけた。

 

「もう、リョウくん。声は出さないでって言ったでしょ。…あーあ、こんなサービスするつもりなかったんだけどなぁ。よかったじゃないですか、最後にリョウの声が聞けて。ええ、ええ。これが最後です。泣こうが喚こうが、貴女はもう私たちに干渉出来ない。だって……リョウは私を選んだんですから。ふふ、ふふふ。リョウの夢の中で、貴女なんて影も形も無かったみたいですよ?あはははっ、ざまーみろ!」

 

 そう言って電話を切った後も、姉さんは笑っていた。顔を伏せて、気が触れてしまったかのように、笑い続けていた。

 

「……ね、姉さん?」

 

 僕がおそるおそる声をかけると、姉さんがピタリと笑い声を止めて、ゆっくりと顔を上げた。

 そこには、いつもの優しくて穏やかな姉さんの笑顔があった。

 

「ありがとね、リョウくん。じゃあお姉ちゃん、夕飯の準備するね。…リョウくん?もうお姉ちゃんの手、放していいよ?それとも甘えたくなっちゃった?」

 

「え?あ、うん。ごめん」

 

 姉さんの様子に呆気に取られていた僕は、言われてようやく手を放した。

 

「宿題、もう終わったの?まだなら早く済ませちゃいなよ?」

 

 テーブルの上に出しっぱなしの教科書を見た姉さんに言われて思い出す。そうだ、まだ宿題の途中だった。

 

「リョウくん」

 

 慌てて宿題のノートを開いた僕の背中に、姉さんの声がかかる。

 

「今日の電話も、さっき見た夢も、全部忘れちゃいなさい」

 

 なぜか、振り向くことが出来ない。いつもと同じ、優しい姉さんの声なのに。いつもと同じ、優しい笑顔をしてくれてるはずなのに。

 

「それとね、もうひとつ」

 

 そっと、僕の肩に姉さんの手が置かれる。

 

「もう二度と、約束破らないでね?」

 

 振り向けないまま、しっかりと頷いて返事をする。姉さんは「よろしい」と少しおどけたように言って夕飯の準備を始めた。

 

 

 この日の事は、僕も姉さんも、おそらくは何らかの事情を知っている叔母さんも、口にすることは無かった。

 きっと、姉さんの言う通り、全部忘れてしまうのが一番なのだろうと思う。

 

 

 

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