LCB、シャーレの先生になる 作:ハーメルンのTakamagi
私的な恨みを作ってはならないってそういうことだったのね…………
大人達の参戦により戦況は着々と好転していた。
一行は妨害する敵を粗方一掃し、シャーレのオフィスへと続く大通りを進む。
大人と生徒達、共に聞きたいことが山ほどあるようだが……今は事態の解決が最優先だ。
その疑問を飲み込み、前進を続ける。
『……先ほど、この騒ぎを主導している生徒の正体が判明しました』
リンの声が、一段と低くなる。
『名前はワカモ。百鬼夜行連合学院を停学になった後、矯正局を脱獄した七囚人の一人です。極めて危険な人物なので、警戒してください』
──噂をすればなんとやら。 その張本人は今まさに、目の前の歩道橋の上に立っていた。
和風の装束に、大きな狐の面。
手には古風なマスケット銃を持ち、ヒラヒラと黒い装束の中の桜の花弁を舞わせながら、眼下のファウスト達を見下ろしている。
「…………あら?」
狐面の少女は、首を傾げた。
その仮面の奥にある瞳が、ファウストたちをじっと観察する。
リンでもない。連邦生徒会でもない生徒達。
この場に不釣り合いな武器を持った、奇妙な大人達。
「……連邦生徒会の犬かと思いましたが、見かけない顔ですねぇ」
彼女は心底残念そうに嘆息した。
そこに愛や興味などは一切ない。
あるのは、自分の破壊活動を邪魔されたことへの苛立ちと、障害物を排除しようとする冷徹な殺意のみ。
「……ワカモ……!」
ハスミが緊張に声を震わせ、銃を構える。
その緊張感は、都市の人間であるイシュメールたちにも伝播した。
「……ファウストさん。あの狐、只者じゃありませんよ」
「……総員、最大級の警戒を。……油断すればただじゃ済まないでしょう」
ワカモは優雅に銃口をこちらへ向け、歌うように告げる。
「まあ、どちらでも構いません。……等しく消えていただくだけですので」
カチャリ、と。 乾いた装填音が、開戦の合図となった。
ワカモが放った一発は誰にも当たらなかったが、一行は自分に合った適切な位置へ移動する。
イシュメールとユウカは今立っている位置を維持し、チナツとハスミは後方へ後ずさる。
そして残りの人員は歩道橋から狙い撃ちするワカモを追い詰めるため、それぞれ二手に分かれ歩道橋へ迫る。
しかし、道中はそんな簡単には行かせなかった。
ワカモが呼び寄せたのか、次々と不良生徒達が押し寄せてくる。
「くっ……敵が急増しましたね」
「ファウストさん!私がここで制圧しておきます!その間にワカモを止めてください!」
幸い敵一人一人はそこまで強くない。そこでスズミはファウストを先に行かせることを選択した。
ファウストは合意し、最小限の攻撃で敵を押し除け、歩道橋を登る。
彼女が階段を駆け上がると、ワカモもファウストの接近に気づき、優雅に銃口を向けた。
「さて。ヘイローのない貴方は、どこまで抗えるのでしょうか」
大剣を持った大人を嘲笑うような言葉と共に、容赦なく引き金を引く。
殺意の篭った、正確無比な銃撃。
(無傷では済みませんか……ならば、急所だけを逸らす)
ファウストは瞬時に演算し、弾丸の雨の中を疾走する。
頬を、肩を、弾丸が掠めていく。少量の鮮血が舞うが、彼女は表情一つ変えずに距離を詰めた。
その狂気的とも言える冷静さに、ワカモの動きが一瞬だけ鈍る。
だが、距離がゼロになる寸前──。
「ふふっ。これではもう避けようがありませんね?」
至近距離。銃口がファウストの眉間を完全に捉えた。
ワカモは終止符を打つべく、引き金を引く。
カァン──!
硬質な金属音が響き、弾丸は虚空へと弾き飛ばされた。
ファウストが瞬時に大剣の腹を盾にし、弾道を逸らしたのだ。
「なっ──!」
「貴方の欠点は、まさしくその『高慢さ』です」
驚愕するワカモに、銀色の一閃が降りかかる。
ワカモは咄嗟にマスケット銃を掲げ、金属部分で受け止めたが、ツヴァイヘンダーの重量は彼女の想定を超えていた。
「くっ……力任せな……!」
ファウストは息つく暇も与えず、重厚な連撃を叩き込む。
一撃ごとにワカモの体勢が崩れ、足場が削られていく。
そしてトドメとばかりに放たれた渾身の突きが、ワカモの腹部を捉え──彼女の体を後方へと大きく吹き飛ばした。
決まった。誰もがそう思った。
だが、ワカモは空中で回転して着地すると、ケロリとした顔でスカートを払った。
「ふふっ。相当手強いですね……? しかし、です」
「……っ!」
仮面の下の瞳が一層妖しく輝いた瞬間、桜の花弁が爆ぜた。
視界がピンク色に染まり、ワカモの姿が掻き消える。
「あまり私のことを、甘く見ないでもらえます?」
(……高速移動。身体スペックの基礎値が想定データを上回っている)
ファウストが頭上を見上げた時には、既に手遅れだった。
空から降ってくる銃剣の一撃。
大剣でガードするが、その衝撃は凄まじく、膝の骨がきしむ音が脳内に響く。
そこからは一方的だった。
銃剣による斬撃と、至近距離からの発砲。
変則的で、まるでこちらを弄ぶような連撃に防御が追いつかない。
(……対処不能。戦闘における技量が違いすぎる)
ガキィン、と大剣を弾かれ、体勢を崩した胸元にワカモの足刀が突き刺さる。
「ぐっ……」
ファウストは無様に床へ転がされ、その喉元に冷たい銃口を突きつけられた。
「そっくりそのままお返ししますわ」
ワカモは愉悦に震える声で、意趣返しをする。
「あなたの弱点は『高慢』です」
「…………」
チェックメイト。天才・ファウストの敗北だ。
ところが窮地に追い込まれたファウストの表情に、焦りの色が微塵も浮かんでいはいなかった。
「……ほんと、その余裕そうな表情。鼻につきますわ」
ワカモが苛立ちを込め、引き金を引こうとした──その時だった。
──ドォン!!
乾いた破裂音と共に、ワカモの頭が大きく揺れる。
不意打ちの狙撃。かろうじて耐え抜いた彼女が、殺気を放って視線を向けた先には──歩道橋の下から長い銃身を構えるハスミの姿があった。
──また面倒なのが増えましたね。
仮面の下で舌打ちをしたワカモは、ファウストの処理を後回しにし、銃口を下へ向けようとする。
だが、その隙こそが命取りだった。
背後から、床を踏み砕くような重い足音が迫る。
「私のこと忘れないでよねっ!」
ドガァッ!
死角からのフルスイング。
ワカモは咄嗟に防御姿勢を取ろうとしたが間に合わず、ロージャの斧によって歩道橋の外へと弾き飛ばされた。
「お〜、華奢な体の割に打たれ強いね?」
空中で受け身を取り華麗に着地したワカモは、歩道橋の上に立つ大人二人を一瞥しつまらなそうに肩を竦めた。
「あらあら、なんだか賑やかになってきましたねぇ。……さて、私はここまでとしましょう。残りの相手は、そこの有象無象にお任せします」
まるで演劇の幕引きのように大袈裟な仕草で、彼女は桜吹雪と共に姿を消した。
「逃げられてるじゃない!? 追うわよ!」
「生半可な追跡は推奨しません、ユウカ。私達の目的はあくまでシャーレの奪還です」
ハスミが逸るユウカを諫めながら、手にした銃のボルトを引く。 カシャン、と真鍮の薬莢がアスファルトに落ちて澄んだ音を立てた。
「まずは、目の前の敵を片付けて……オフィスへ向かいましょう」
「……うん、まあいいわ。あいつを追うのは私たちの役目じゃないってことね」
「罠かもしれませんし」
「はい。建物の奪還を優先で。このまま引き続き進むとしましょう」
折り合いをつけた生徒と囚人は、再び足を進める。
次々と残党達を片づけ、前進。そしてまた掃討。同じことを繰り返し、前進する。そして一行は遂にシャーレの玄関前まで辿り着いた。
遠くに見えていた白いビルが、今はもう視界に収まりきらないほど大きくそびえ立っている。
「シャーレの入り口近くまで着いたわよ! あとはもう──!」
喜びを見せるユウカ──しかし、その言葉がかき消されるほど、激しく地面が揺れ出した。
ズズズズズ……
「……?な、なんですか、この音?」
雷鳴の如く戦場突然震え出す地面。ただよらぬ気配に一行の、特に囚人達の警戒心が強まる。
「気を付けてください、巡航戦車です!」
「せ、せんしゃ?」
ロージャは聞き慣れない単語を口の中で転がし、首を傾げた。
彼女の知る限り、都市にそんな名前の乗り物は存在しない。
「ファウストさん! 上です!」
突然、チナツに叫ばれたファウストが反射的に見上げた瞬間。
ドゴォォォッ!
鼓膜を破きかねない膨大なエネルギーと音にファウストは思わず固まってしまった。
頭上にかかる歩道橋が突如爆発したかと思えば、容赦なく降り注ぐ瓦礫の雨。
──確実に死ぬ。すると反応に遅れたファウストに瓦礫が届くよりも先に、一人の生徒が飛び出た。
「──スズミさん……!」
「くっ……わ、私は大丈夫です。これぐらいなら、耐えられます……」
庇うように現れたスズミは苦悶の表情を浮かべるが、血の一滴も流れていない。
「スズミさん、今から治療を行います。そのまま動かないでください」
チナツが応急キットを持ち出しながら駆けつけた。
一方スズミによって救われたファウストは、前方を見据える。
──砂煙の向こうから、絶望的な駆動音と共に「それ」は現れた。
巨大な鉄のキャタピラ。無骨な装甲板。そして、こちらを狙う無慈悲な大口径の砲身。
「うっそ……なにあれ」
ロージャが目を丸くする。
「大砲がついた車両……? 随分とまあ、アナクロな鉄塊を持ち出してきましたね……」
同様に目を丸くしたイシュメールだったが、その存在に呆れるようように呟き、武器を構え直した。
都市の技術体系とは全く異なる、前時代的で、それゆえに暴力的な鉄の塊。
「クルセイダー1型……私の学園の制式戦車と同じ型です」
「不法に流通されたものに違いないわ!PMCに流されたのを不良達が買い入れたのかも!つまりガラクタってことだから、壊しても構わないわ!!行くわよ!!」
警戒すべき対象──しかし現地の一人、ユウカがあの物体を『ガラクタ』と断言したのだ。
「ねぇファウ? あの子達は結構張り切っているけど……どうする?」 「……却下です。あの戦車という兵器は、最も簡単に私たちを殺傷し得るでしょう」
ファウストは即断した。
その一挙手一投足、全てが死に直結する戦闘は避けるべきだ。 たとえ現地人がガラクタと呼ぼうとも、対処法の確立されていない大口径の火器に、生身で挑むのは非合理的すぎる。
……特に、今
「当作戦に参加する全人員に連絡します。打たれ弱い我々にとって、あの兵器の相手をするのはリスクが高いです。ここは頑丈な彼女たちに任せ、我々は先にシャーレ内部へ突入し、制圧します」
ファウストの冷徹な撤退指示。
それを聞いたユウカは、クルセイダーに向けていた銃口を下ろし、フンと鼻を鳴らして振り返った。
「ええ、それが合理的な判断だわ」
「──特に! さっき瓦礫が落ちてきた時、呆気に取られて動けなかった『あなた』にとっては、ね?」
「…………」
痛烈なカウンター。 図星を突かれたファウストは、何も言い返せずに無言で視線を逸らし、逃げるようにビルの入り口へと足を速めた。
透き通った青空から一変、頭上に広がるキャンバスには夕陽の橙が混ざり合っていた。
シャーレの執務室に辿り着くまでに、どれだけの時間が経ってしまったのか。この場に居合わせた誰もが、長い一日の終わりを感じていた。
──ここに至るまで、実に様々なことがあった。
シャーレに突入した囚人らは、行政制御権を奪還する鍵がある地下室へ向かったものの、その目的地でワカモと再び会敵した。
ダァン──!
狭い室内での遭遇戦。不意打ち気味の銃撃が、ファウストの右腕を貫いた。
だが残り二人が即座に応戦して時間を稼いだため、ワカモは興が削がれた」と吐き捨て、見放すように去っていった。
なんとか一命を取り留めた一行はその後、連邦生徒会長が遺したと思われる『緊急リカバリープログラム』を発見。 それを起動させることで、サンクトゥムタワーの制御権は無事に連邦生徒会へと譲渡されたのだった。
…………そして、現在。
「止血は完了しました。骨には達していませんね」
夕日に照らされた執務室のソファで、リンは複雑な面持ちでファウストの右腕に包帯を巻いていた。
白いガーゼが赤く滲んでいくが、負傷した当人であるファウストの表情は、鉄仮面のように崩れていない。
「……本当に無茶をしすぎです。ワカモの逃走経路が確定していない以上、無理な突入は控えていただきたかったのですが……」
「いえ。そこまで心配する必要はありません。……この程度の損傷、想定内です」
痛みを感じていないかのようなファウストの言葉に、リンは小さな違和感を抱く。
まるで、傷つくことや死ぬことに慣れすぎているような──。
しかし彼女は頭を振り、その不吉な疑問を振り解いた。
「……それでさ、リンさん?」
「…………なんでしょうか、イシュメールさん」
「藪から棒ですが……肝心の『先生』は見つかりましたか?」
イシュメールの鋭い質問に、リンは一瞬視線を泳がせ、沈痛な面持ちで俯いた。
「……そういえば、話さなければならないことがいくつかありましたね」
改めてリンが居住まいを正すと、重い口を開いた。
「まず私たちが捜していた『先生』の行方ですが……やはり、痕跡すら見当たりませんでした。そして貴方たちが要求していた『人探し』についても──」
「いえ、言わなくても分かります」
ファウストはリンの言葉を遮り、冷徹な事実を突きつけた。
「『該当データなし』……でしょう?」
「──っ! ……はい、その通りです」
リンは申し訳なさそうに眉を下げる。 自分たちを助けてくれた恩人の、最初にして最大の要望を叶えられなかったのだから無理もない。
一方、取引を提案したファウストはというと、やはり無表情のまま、夕日に染まる彼女を見据えていた。
「謝罪は不要です。……そもそも『異邦人』がこの世界のデータベースに登録されているはずがない。検索結果が『なし』になるのは演算通りです」
「…………では、なぜ捜査の要求を?」
「あくまで『建前』……あるいは、我々の立ち位置を確認するためのテストです」
ファウストの真意が読めず戸惑うリン。
そんな彼女の前で、ファウストは静かにソファから立ち上がった。
「今回の事象を通して、私はある推測を立てました」
「……推測、ですか?」
「ええ──『先生』は、確実に戻ります」
「えっ!?」
リン、それに側で様子を伺っていたロージャとイシュメールが同時に声を上げた。
根拠のない、あまりに突拍子もない断言。 しかし、ファウストの瞳に迷いは一切ない。
「この世界は『先生』を必要としている。そして我々も『管理人』を必要としている。……ならば、世界の事柄はその穴を埋めるように収束するはずです」
それは理論というよりは確信めいた予言だった。
ファウストはリンへと歩み寄る。
そして──先ほどワカモに撃ち抜かれ、包帯が巻かれたばかりの右腕を、躊躇なく差し出した。
「……改めて、正式な契約を行いましょう。我々『リンバス・カンパニー・バス部署』は、元いた世界へ帰還するその時まで──『連邦捜査部シャーレ』へ編入し、貴方が統治するこの学園都市のあらゆる問題を解決してみせます」
夕日を背負った彼女は、不敵に、そして傲慢に告げた。
「その代わりとして……『連邦生徒会』は我々の要求に応えていただきたい……悪い話ではないでしょう?」
リンは暫し、差し出されたその手──血の滲む包帯が巻かれた右腕を見つめる。
それは彼女たちがこの世界のために血を流した証明であり、覚悟の形だった。
躊躇いはもうなかった。
リンはそっと、しかし力強くその手を握り返した。
「……ええ。よろしくお願いします、ファウストさん」
契約は成立した。
その瞬間、張り詰めていた空気を壊すように陽気な声が割り込んだ。
「いや〜交渉成立ね! これで私たちも、お役人様の仲間入りってわけ?」
「ひゃっ!?」
ロージャが馴れ馴れしく、リンの肩に腕を回して体重をかけたのだ。
突然のことにリンが素っ頓狂な声を上げる。
「ちょ、ちょっとロージャさん! 重いです……! それに近いです!」
「まーまー、固いこと言わないの。これから長い付き合いになるんだし、仲良くやりましょ? ね、リンちゃん?」
「はぁ……先が思いやられますね……」
側で眺めていたイシュメールが深いため息を一つ。
嫌がるような態度でロージャをどかそうとするリンだったが、その表情は先ほどまでの悲壮感に満ちたものではなく、どこか吹っ切れたような明るさが宿っていた。
彼女はロージャの手をどけて居住まいを正すと、夕日に染まるキヴォトスの街並みを背にして告げた。
「……わかりました。では、改めて」
リンの瞳が、囚人たちを真っ直ぐに射抜く。
「これから貴方たちには『シャーレ』で働いてもらう以上、説明しなければなりませんね。まず、シャーレというのは──」
漆黒の空へ砂塵が静かに吸い込まれていく夜。 ここはアビドス自治区の一角。かつてのリゾート地も今は見る影もなく、ただ冷たい風が吹き荒れる砂漠の真ん中だ。
その寒空の下、『カタカタヘルメット団』──特定の学園に所属しない、ヘルメットを被った不良生徒の集団が、身を寄せ合って耐え凌いでいた。
「さ、さ、寒いぃ……」
一人の団員が歯を鳴らしながら震える声で呟く。
「それはいつも通りだろ? ……はぁ、なんでうちら、こんな何もないところで野宿しなきゃなんないのよ」
「仕方ないでしょ? これも『依頼』のためなんだから」
「それにしても……限度があるじゃない?」
廃材とドラム缶で作った焚き火を囲んで一夜を明かす。
聞こえはいいが、彼女らは要するにホームレス──まさしく「星を天井にし、地面を寝床とする」極貧生活を送っているのだ。
お互いに世知辛い愚痴を言い合いながら、なんてことのない時間を過ごしていると──不意に、粘つくような男の声が鼓膜を揺らした。
「……おや。こんなところにいましたか」
「なっ──!? 誰だ!!?」
その声を皮切りに、ヘルメット団の面々が弾かれたように立ち上がり、暗闇の一点に向けて銃を構える。
遮蔽物などない、見通しの良い砂漠。 誰もいるはずのないその闇の奥から、一回り大きな「黒いケース」を台車に乗せた、スーツ姿の男がぬらりと現れた。
「いい夜をお過ごしですか? 皆様」
「だ、誰だ!? 誰だよお前!!?」
「クククッ、そう焦らずとも。そうですね……私は貴方達の『雇い主』のビジネスパートナーですよ」
身分を明かしたことで、一段階警戒が緩まるヘルメット団。
男──黒服は、顔面の亀裂から怪しい光を漏らしながら、恭しく一礼した。
「私は貴方達に、とある配送をお願いしたいのです」
「はぁ? 配送?」
「ええ。今私が運んでいるこの『荷物』を、一週間以内に『カイザーコーポレーション』へ届けて欲しいのです」
黒服は台車に乗せられた、人間一人がすっぽり入りそうな黒いケースをポンと叩いた。
「そ、それだけか?」
「ええ、それだけです……ああ、それと」
男は口元の亀裂を三日月のように歪めた。
「この『配送物』は非常にデリケートな希少サンプルです。……できるだけ、丁重に扱ってくださいね。では、お願いしますよ」
男がそう言い残すと、砂塵が舞い上がった。
団員たちが思わず目を閉じ、次に目を開けた時には──男の姿は、最初からいなかったかのように掻き消えていた。
「……なんなのよ、今のあいつ」
「マジで霧みたいに消えた……キッショ」
残されたのは凍える砂漠の風と、ぽつんと置かれた黒いケースのみ。
団員の一人が、恐る恐るそのケースに近づく。
「ねえ、これ……中身なんなの? なんか重くない?」
「さあ……兵器のパーツとかじゃない?」
彼女たちがケースを持ち上げようとした、その時だった。
分厚いケースの奥底から、微かな音が漏れ聞こえた。
──チクタク、チクタク、チクタク。
「……え、なにこの音? 時計?」
「さあね。時限爆弾じゃなきゃいいけど」
中身が、意識を失いながらも時を刻み続ける「管理人」だとは知る由もなく。
彼女たちは重たいケースを引きずり、アビドスの砂漠へと消えていった。
運命の歯車はまだ噛み合わない。
時計の針が再び動き出すのは──もう少し先の話である。
プロローグ編、終了。次回アビドス対策委員会編、始動。
読んでくださりありがとうございます。
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