第29話
――2016年11月 東京都内某都立高等学校
線の細い、どこか影をまとった男子高校生がいた。
乙骨憂太は、教室の窓際へと追い詰められ、ただ俯いていた。
窓の外では、止むことのない雨が校舎を叩き、遠雷が空の奥でくぐもった声を上げている。
世界そのものが、これから起こる何かを予感しているかのようだった。
「久しぶりじゃないか、乙骨」
逃げ場を失った憂太の姿を前に、体格のいい男子高校生が愉快そうに嗤った。
獲物を袋小路に追い込んだ高揚が、その歪んだ笑みに滲んでいる。
荒い鼻息が、異様なほど近くで聞こえた。教室には、憂太と、彼を取り囲む四人の男子高校生しかいない。
「……来ないで」
か細い声が、震えながら零れ落ちる。
この先に待つ惨劇を、憂太は想像できてしまった。
――下手をすれば、死ぬ。
「冷たいこと言うなよ」
リーダー格の大柄な少年は、憂太の顔を覗き込む。
声は弾み、興奮を隠そうともしない。
その背後で、残る三人が逃げ道を塞ぐように立ち、楽しげにスマートフォンを構えた。
これから始まる"見世物"を逃すまいとする目だ。
憂太は無意識に自分の右腕を強く掴む。
やめてほしい。
心の底からそう願っても、その想いは誰にも届かない。
「俺がどれだけ、お前を殴りたかったと思う?」
理不尽な言葉が、空気を汚す。
憂太は答えない。
ただ唇を固く結び、俯き続けた。
「こんなに焦らされたらさ……うっかり、殺しちゃうかもな」
男はそう言ってネクタイを緩めた。
肉食獣が獲物に飛びかかる直前のような、濁った光がその瞳に宿る。
――来る。
憂太は弾かれたように顔を上げ、叫んだ。
「来ちゃ駄目だ、里香ちゃん!」
その瞬間、男子高校生たちの背後に、濃密な闇が滲むように現れた。
「……リカ?」
聞き慣れない名前に、誰かが訝しげな声を上げた、その刹那。
闇から、異様に大きな腕が伸びる。
静かな教室に、雨音とは決して交わらない音が響いた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
憂太の嗚咽混じりの謝罪は、轟く雷鳴に掻き消されていく。
――ぽたり、ぽたり。
雨音に紛れて、別の水音が床に落ちた。
憂太は小さく身を震わせる。
見たくない。だが、視線は抗えず音の方へ向かってしまう。
ロッカーの隙間から、赤黒い液体が流れ出し、床を伝って憂太の足元へと広がっていた。
「ごめんなさい……」
軋む音を立てて、ロッカーの扉がゆっくりと開く。そこには、全身を無理やり折り畳まれた四人の少年たちが、壊れた人形のように詰め込まれていた。
雷鳴が、再び空を引き裂いた。
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**記録――2016年11月、東京。**
同級生の執拗な嫌がらせが誘因となり、首謀者含む四名の男子生徒が重傷を負う。
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――乙骨憂太、完全秘匿下における死刑執行。
その決定は、呪術総監部に名を連ねる長老たちの全会一致によって下された。
議論は形式上行われたにすぎず、結論は最初から決まっていたかのようだった。
「完全秘匿での死刑執行?」
「あり得ない。人道的にも、倫理的にも……」
沈黙を切り裂くように声を上げたのは、まだ若い二人の術師だった。
五条悟と、夏油傑。呪術界において、わずか四名しか存在しない術師の頂点――特級術師。
その四名のうち、一人は行方知れず。もう一人は海外を放浪している。
国内で実質的に活動している特級術師は、この二人だけだった。
最強の二人組を前に、総監部の空気は一瞬で張り詰める。
悟と傑の周囲に、六枚の障子戸が音もなく宙に浮かび、円を描くように配置される。
その一枚一枚に、長老たちの影が歪んで映っていた。
「しかし……本人は了承した」
障子の向こうから、感情の温度を感じさせない声が落ちてくる。
「馬鹿馬鹿しい」
即座に、傑が切り捨てる。
「未成年ですよ。しかも、まだ十六歳の高校生だ」
長老たちは沈黙したまま、影を揺らすだけだった。
「……それにさ」
悟が、どこか軽い調子で言葉を継ぐ。
「逆に何人殺されるか分からないよ。現に、二級や一級の術師が、何人も返り討ちに遭ってる」
その言葉に、総監部の沈黙が重くなる。
「だから僕らに話を持ってきた。違う?」
事実だった。乙骨憂太の処分に向かった術師たちは、力づくでねじ伏せられている。長老たちも、それを否定することはできなかった。
「……では、やはり」
「ええ」
悟と傑は、迷いなく言い切った。
「乙骨憂太は、私たちが――いえ、呪術高専が預かります」
六眼と無下限術式を持つ五条悟。
数多の呪霊を従え、一人で軍勢すら築ける夏油傑。
最強の二人を前に、総監部の長老たちは、それ以上踏み込むことができなかった。
悟も傑も、臭いものに蓋をするような腐りきった上層部のやり方が気に入らなかった。
かつて敬愛していた先輩が姿を消した、その原因を作った連中でもある。
そして何より――処刑しようとしているのは、未来のある少年だった。
本来なら抹殺されるはずだった乙骨憂太の運命は、二人の"最強"によって拾い上げられ、辛うじてこの世界に繋ぎ止められた。
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命を救われたという事実など、知る由もなく。
憂太は閉ざされた部屋の中で、膝を抱え、顔を伏せたまま座り込んでいた。
灯籠の淡い光が、ぼんやりと部屋を浮かび上がらせる。
壁という壁には呪符が隙間なく貼られ、その重なりが、空気そのものを圧し殺しているかのようだった。
床には二つの太い金具が打ち込まれ、そこから、はち切れんばかりに太い綱が固く結わえられている。
その綱は、天井の闇へと吸い込まれていた。
――呪いを抑えるための特別室。
しかし、そのすべてが慰めにすらならないことを、呪われた身である憂太自身が、誰よりもよく理解していた。
あの日から、どれほどの時間が過ぎ去ったのか。今が昼なのか夜なのかさえ、もはや分からない。
消えてしまえば、すべては終わる。
その諦観だけが、澱のように心の底に沈んでいた。
たとえ扉が開かれることがあったとしても、憂太がこの部屋を出ることはない。
その意思だけは、最初から変わっていなかった。
更新遅くなりました。
拙作に需要があるかはわかりませんが、呪術廻戦0編スタートです。
好評であれば、また仕事の合間にはなりますが、更新頑張っていこうと思うので、良ければ感想や評価を頂けると泣いて喜びます!