総監部を出た五条悟と夏油傑は、無言のまま廊下を進み、乙骨憂太が隔離されている部屋の前に立った。
扉を開けた瞬間、空気が変わる。
四方の壁から天井に至るまで、幾重にも貼られた呪符が、湿った気配を閉じ込めていた。その中心で、憂太は一人、膝を抱え込むようにして座り込んでいる。
身を縮めたその姿は、世界から拒まれることに慣れ切った幼子のようだった。
憂太の周囲には、禍々しい呪力が澱のように漂い、呼吸をするだけで胸が重くなる。
部屋全体が、彼の内面を写し取ったかのように沈鬱だった。
そのすぐ脇に、鈍い光を放つ金属の塊が転がっている。
傑がそれを拾い上げると、刀身が無惨に捻じ曲がったナイフだった。
力任せに歪められたそれは、失敗した決意の残骸のようにも見えた。
「……やぁ、乙骨憂太くん。
僕はグッドルッキングガイ、五条悟だよー」
悟は、わざとらしく明るい調子で言った。
重苦しい空気を少しでも裂こうとするように。
だが、憂太は顔を上げない。
ただ一瞬だけ視線を向け、すぐに伏せる。
その瞳には、他者に期待する色が最初から存在していなかった。
「はじめまして、憂太くん。
私は夏油傑という者なんだが……これは何かな?」
傑は仕切り直すように穏やかに名乗り、拾い上げたナイフを憂太の視界に入る位置に示した。
しばしの沈黙ののち、憂太は俯いたまま、かすれた声で答えた。
「……死のうとしました。
でも、里香ちゃんに……邪魔されました」
感情の起伏を失った声音だった。
後悔も、恐怖も、すでに擦り切れてしまったような。
「――暗いね」
あまりにも率直な一言が、悟の口から零れ落ちる。
「悟!」
傑はすぐに咎め、憂太に視線を戻す。
「……すまない。この変な目隠しも、気にしなくていい」
場を整えるように一度息をつき、続けた。
「私たちは、こう見えて教師なんだ。
今日から、新しい学校へ行ってみないか?」
呪術高専――彼らが受け持つ場所へ、憂太を迎え入れる。
その決断は、すでに二人の中で固まっていた。
「……行きません」
拒絶は、驚くほど小さな声だった。
「……もう、誰も傷つけたくありません。
だから……外には出ません」
そう言って、憂太はさらに強く膝を抱きしめる。
自分という存在を、内側へ内側へと押し込めるように。
二人は、その姿を静かに見下ろした。
「……でもさ、一人は寂しいよ?」
悟の声は、先ほどまでとは違っていた。
冗談も装飾もない、静かな言葉だった。
その一言に、憂太の指がシャツの袖を掴む。
布が皺になるほど、力がこもった。
「君にかかった呪いはね、使い方次第で……人を助けることもできる」
(――助ける?)
その言葉は、深い闇の底に沈んでいた憂太の心に、かすかな光として差し込んだ。
何年ものあいだ、自分を縛り、恐れさせ、他人を傷つけてきた呪い。
それは、ただ忌むべきものだと信じてきた。
だからこそ、自分が死んで償うしかないと考え、死刑宣告さえ受け入れたはずだった。
「力の使い方を学びなさい」
悟の声は低く、真剣だった。
「……すべてを投げ出すのは、それからでも遅くないだろ?」
最初に巫山戯た挨拶をした人物と、同一人物とは思えないほどの重みを帯びた言葉。
それは、憂太の心を、確かに揺り動かしていた。
――東京都立呪術高等専門学校
都内とは思えぬほど鬱蒼とした森に抱かれるようにして、その学び舎は存在していた。
日本にわずか二校しかない、呪術師のための高等教育機関。
広大な敷地には、空を突くような巨大な五重塔や、古い歴史を刻む神社仏閣が点在している。
その一角に、この現代の東京ではほとんど忘れ去られた存在——木造の昭和風校舎がひっそりと佇んでいた。
板張りの外壁は年月に磨かれ、和風の意匠をまとったその姿は、昭和、あるいはさらに遡る大正の面影を色濃く宿している。
校舎はまるで時の流れから取り残されたかのように、過ぎ去った時代の息遣いを今も静かに放っていた。
校庭には広々としたグラウンドが広がり、敷地内には寮まで完備されている。
俗世から切り離された、異形の学園。
乙骨憂太は、真新しい白の制服に身を包み、約束の時間きっかりに境内へと足を踏み入れた。
朝の冷えた空気が、頬を撫でるように流れていく。
「お、時間どおりだねー」
間の抜けた、どこか緊張感の欠けた声が境内に響く。
憂太が視線を向けると、そこには眠たげに欠伸を噛み殺しながら歩み寄ってくる五条悟の姿があった。
「……あの、夏油先生は?」
初対面の印象から、悟よりも傑のほうがよほど常識的に見えていた憂太は、慎重に言葉を選びながら問いかける。
「傑――いや、夏油先生はね。君の入学手続きとか、諸々の雑務で大忙しなんだよ」
悟は軽く肩をすくめ、笑みを浮かべた。
「今日は僕だけ」
あまりにあっさりと告げられ、憂太の胸に、形のない不安がじわりと広がる。
「まあ、面倒くさい手続きを全部、僕が押し付けちゃったからなんだけどねー」
悪びれる様子もなく、からりと笑う悟。
その教師らしからぬ奔放さに、憂太はこめかみの奥に鈍い痛みを覚えた。
「ま、とりあえず行こうか」
そう言って、悟は踵を返し、校舎の方へと歩き出す。
憂太は一瞬立ち止まり、首から下げた大切な指輪にそっと指を滑らせた。
――逃げない。
小さく息を吸い込み、決意を胸に刻むと、彼は悟の背を追って歩き出した。
ここから始まる、自分の新しい世界へ向かって。
――東京都立呪術高等専門学校 一年教室。
「聞いたか? 今日、転校生が来るらしい」
そう切り出したのは、どう見ても――完全なるパンダだった。
白と黒の毛並み、丸い耳、のんびりした体躯。そのパンダが、人間用の椅子に行儀よく腰掛け、人語を操っている。
事情を知らぬ者が見れば、現実感の欠けた悪夢か、あるいは悪趣味な冗談にしか見えない光景だろう。
「クラスメイト四人をロッカーに“詰めた”って話だ」
教室に、わずかな緊張が走る。
このパンダ――名を「パンダ」という――は、れっきとした呪術師だった。
傀儡術式を操る一級術師・夜蛾正道が生み出した最高傑作。呪力を外部から補充されるただの呪骸ではない。
意思を持ち、思考し、呪力すら自己完結する――突然変異の存在。
人工生命体と呼ぶほうが、よほどしっくりくる。
「……殺したのか?」
淡々と問いを投げたのは、長身で眼鏡をかけた女子生徒ーー禪院真希。
手には、幾重にも布で包まれた呪具を携えている。その姿には、年齢に似合わぬ鋭さがあった。
「ツナマヨ」
短く返したのは、ネックウォーマーで口元を覆った少年――狗巻棘。
呪言という危険な術式を扱うがゆえに、彼の言葉は常に制限されている。
おにぎりの具でしか会話をしないその奇妙な制約も、ここではもはや日常の一部だった。
「いや、重傷止まりだってさ」
パンダは即座に答える。
日本語はもちろん、おにぎり語まで完全に理解しているあたり、この愛玩動物は抜かりがない。
「ふぅん……」
真希は興味なさげに鼻を鳴らした。
「生意気なら、シメるまでよ」
その声音に一切の冗談は含まれていない。
「おかか!」
即座に、棘が制止の声を上げる。
呪術高専一年生は、たった三人。
だがその全員が、確かな実力と歪な個性を備えた精鋭だった。
五条悟と夏油傑――
二人の“最強”に教えられた、学生達。
そして今日、その均衡を揺るがす存在が、もう一人、教室に足を踏み入れようとしていた。
私がエヴァ好きで、呪術廻戦版シンジ君コト乙骨憂太が好きだからか、疲れているにも関わらず、何故かポチポチと更新してました(笑)
おかしいな、夜勤明けだから寝ようと思ってた筈なのに……
そんな訳で、本日2回目の更新です。
読んで下さった方、ありがとうございます