呪術廻戦〜蒼風を纏う者   作:腹黒薩摩

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 もう少し原作外の描写を入れないといけないと教えて頂いたので、加筆しました。
 ちなみに、主人公はまたお休みです(笑)


第31話

 教室の襖が、勢いよく開いた。

 

 その向こうから、踊るような足取りで飛び出してきたのは悟だった。

 

 転校生の到来を待ち構えていた三人の視線を一身に浴びながら、彼は芝居がかった身振りで腕を広げる。

 

「転校生を紹介しやす!!」

 

 暑苦しいほどのテンション。その熱量を、三人は揃って冷めた目で受け止めていた。

 

「テンション上げて! みんな!!」

 

 空気の温度差に気づく様子もなく、悟はさらに煽る。しかし返ってくるのは、しんとした沈黙だけだった。

 

「あげてよ!」

 

 重ねられた催促にも、反応はない。

 

「……随分尖ってる奴らしいじゃん? そんな奴のために空気作りなんてごめんだね」

 

 頬杖をついたまま、真希が吐き捨てるように言う。

 

「しゃけ」

 

 棘が短く同調し、パンダもまた、歓迎の色を微塵も見せなかった。

 

 まるで言うことを聞かない生徒たちに、悟は肩をすくめ、諦めたように息を吐く。

 

「……ま、いっか」

 

 廊下でそのやり取りを聞いていた憂太は、胸の奥が重く沈むのを感じていた。

 

(……ものすごく、冷めた空気だ)

 

 今すぐ踵を返してしまいたい衝動を必死に押さえ込んでいる憂太に、悟は気づかないまま、いつもの調子で声をかける。

 

「入っといでー」

 

 促されるまま、憂太はこわばった表情で教室に足を踏み入れた。

 

 ――――!!

 

 その瞬間だった。

 

 教室にいた三人の背筋を、氷水のような悪寒が走り抜ける。死の気配を孕んだ、禍々しく濃密な呪い。空気そのものが歪み、呼吸が重くなる。

 

 三人は反射的に身構えた。

 

 真希は厳重に封じていた呪具の大刀を引き抜き、棘はネックウォーマーに指をかけ、いつでも外せるようにする。

 パンダは両腕に手甲をはめ、殴りかかる寸前まで呪力を巡らせた。

 

 目の前の同級生が、自分を攻撃するなど想像もしていない憂太は、ただ顔を伏せ、小さな声で名乗る。

 

「乙骨憂太です。

 よろしくお願いし―――!?」

 

 挨拶が終わるより早く、憂太の頬のすぐ脇を、真希の大刀が唸りを上げて通過した。

 

 刃は背後の黒板に深々と突き刺さり、教室に乾いた衝撃音が響く。

 

 あまりに唐突な出来事に、憂太は一歩も動けなかった。

 

「――これ、なんかの試験?」

 

 視線を逸らさぬまま、真希が悟に問いかける。

 

 怯えきった憂太の様子に、真希は苛立ちを隠さず怒鳴った。

 

「おい、オマエ呪われてるぞ」

 

 パンダと棘も左右に散開し、完全な臨戦態勢を取る。

 

「ここは呪いを学ぶ場だ! 呪われてるヤツが来るところじゃねぇよ」

 

「……え?」

 

 想像だにしていなかった言葉に、憂太の思考は真っ白になった。

 

 助けを求めるように悟を見上げる憂太の視線を受け止め、悟はふっと軽薄さを消した。

 その表情の変化に、教室の空気がわずかに張り詰める。

 

「――日本国内での怪死者、行方不明者は、年平均で一万人を超える」

 

 淡々と悟は言葉を紡ぐ。

 

「そのほとんどが、人の肉体から抜け出した負の感情――『呪い』による被害だ。中には、呪詛師による悪質な事件も含まれる」

 

 憂太は息を呑み、悟の言葉をただ受け止めるしかなかった。

 

「呪いに対抗できるのは、同じく呪いだけ。

 ここは――呪いを祓うために、呪いを学ぶ場所だ。

 東京都立呪術高等専門学校」

 

 説明が終わった瞬間、憂太の頭の中で悲鳴にも似た叫びが弾けた。

 

(……事前に言ってよ!!)

 

 その混乱は、どうやら憂太ひとりのものではなかったらしい。

 

 真希、棘、パンダの三人も、ようやく事態の深刻さを飲み込んだように、悟へと無言の視線を突き刺していた。

 

(……今、教えたの?)

 

 その雄弁すぎる沈黙に、悟は肩をすくめる。

 

「メンゴ!!」

 

 軽すぎる謝罪。

 

 生来のいい加減さゆえか、悟は憂太にも、在校生である真希たちにも、肝心な説明を一切してこなかったのだ。

 

「あ、はやく離れたほうがいいよー」

 

 その言葉が言い終わるより早く――

 黒板の表面が、ぬるりと歪んだ。

 

 次の瞬間、そこから巨大な“手”が飛び出し、黒板に突き立てられていた真希の大刀を鷲掴みにする。

 

『憂太をををを――』

 

 教室中に、耳を裂くような怨嗟の声が轟いた。

 

 握り締められた大刀が、耐えきれずにぎりぎりと悲鳴を上げる。

 

 反射的に、真希、棘、パンダは床を蹴り、後方へと跳び退いた。

 

「待って、里香ちゃん!!」

 

 憂太の叫びは、しかし届かない。

 

 憂太を守るためだけに存在するその呪いは、迷いなく三人へと牙を剥いた。

 

『――虐めるなぁぁぁぁ!!』

 

 愛と執着が歪んだその咆哮が、教室を呪いで満たしていく。

 

 

 

 特級被呪者――乙骨憂太

 特級過呪怨霊――祈本里香

 

 六年前、宮城県仙台市。

 交通事故により死亡した少女、祈本里香と推定される存在は、死後、呪霊として顕現した。

 

 当該呪霊は常に乙骨憂太の傍を離れず、彼に向けられた第三者からの危害に対し、無差別かつ過剰な排除行動を確認。

 

 その挙動には明確な自我があり、生前の人格を色濃く残した反応も見受けられる。

 

 しかし、呪霊化に至った直接の起因は、いまだ判然としていない。

 

―――

 

「……ってな感じで」

 

 五条悟は、まるで世間話でもするかのような軽やかな口調で言葉を締めくくった。

 

「彼のことがだーい好きな里香ちゃんに呪われている、乙骨憂太くんでーす!」

 

内容とはまるで釣り合わない、明るすぎる声色だった。

 

「皆、よろしく」

 

 その直後だった。

 

 真希、狗巻棘、パンダ――三人は既に満身創痍だった。

 衣服は裂け、教室内にはまだ新しい破壊痕が生々しく残っている。

 

 原因は言うまでもない。彼の背後に在る“それ”だった。

 

「憂太に攻撃するとね、里香ちゃんの呪いが発動したり、しなかったり」

 

悟は人差し指を立て、楽しげに補足する。

 

「ま、何にせよ。みんな、気をつけてねー」

 

軽い。あまりにも軽い口調だった。

 

 だが、つい先ほど命の危機に晒されたばかりの三人にとって、それは到底冗談として受け取れるものではない。

 

「……はやく言えや」

 

 真希は眉をひそめ、苛立ちを隠すこともなく吐き捨てた。

 呪いの気配は、なおも乙骨の背後で、静かに、しかし確かに脈打っていた。

 

「コイツら反抗期だから、僕がチャチャっと紹介するねー」

 

 あまりにも軽い調子に、憂太は胸の内で小さく眉をひそめた。

 

(……この先生が一番悪い気がする)

 

 反抗期という一言で片づけられた真希たちに、憂太はひそやかな同情を寄せる。

 

「呪具使い、禪院真希。

 呪いを祓える特別な武具を扱うよ」

 

 名前を呼ばれ、憂太がそっと視線を向けると、真希は不満を隠そうともせず眉を吊り上げた。

 

「呪言師、狗巻棘。

 おにぎりの具しか語彙がないから、会話がんばって」

 

「……こんぶ」

 

 憂太の視線を受け、棘は律儀に“挨拶”を返す。

 本当におにぎりの具で返されるとは思っておらず、憂太の心は早くも音を立てて軋んだ。

 

「パンダ」

 

「パンダだ。よろしく頼む」

 

 淡々と、しかし丁寧な自己紹介だった。

 

「とまぁ、こんな感じ」

 

(……いちばん知りたい説明がなかった)

 

 悟らしい大雑把な締めくくりに、憂太は力が抜けそうになる。

 この中で最も“人外”であるはずのパンダが、最も常識的な対応をしてくれたという事実も相まって、これから始まる学生生活に、憂太は拭いきれない不安を覚えた。

 

「さぁ、これで一年生も四人になったね」

 

(――いや、三人と一匹)

 

 上機嫌に笑う悟を前に、憂太は心の中で静かにツッコミを入れる。

 

「午後はさっそく、二人一組に分かれて実地研修をやるよー」

 

 寝耳に水の言葉に、憂太は思わず目を見開いた。

 状況を把握する間もなく、実地研修とは思ってもみなかった。

 

「まずは、パンダと棘のペア。

 こっちは灰原先生が引率してくれる」

 

 その言葉に、パンダは拳を軽く突き上げ、棘に声をかける。

 

「がんばろう!」

 

「……しゃけ」

 

「そして、もう一組は真希と憂太。

 こっちは僕が引率するよー」

 

「げっ」

 

 即座に返された真希の反応は、心底嫌そうだった。

 

(“げっ”って言った……)

 

 研修が始まる前から、憂太の心は確かなダメージを負っていた。

 

 

 

 実地研修場所へ向かう途中、人気のない廊下には、靴音だけが乾いた反響を残していた。

 

 沈黙が重くのしかかり、胸の内で膨らみ続ける不安に耐えきれなくなった憂太は、意を決して口を開いた。

 

「……あ、あの。よろしく、お願いします」

 

 その声はかすれ、空気に溶けるように消えかけた。

 

 しかし真希は返事をしない。立ち止まりもせず、ただ横目で憂太を値踏みするように見据えた。

 その視線は遠慮がなく、剥き出しの刃のようだった。

 

「オマエ、イジメられてたろ?」

 

――ピシッ。

 

 その一言で、すでに傷だらけだった憂太の心に、はっきりとした音を立てて罅が入った。

 足が止まり、呼吸が浅くなる。

 

「図星か? 分かるわぁ。私でもイジメる」

 

 真希は淡々と言葉を重ねる。

 

「呪いのせいか? 『善人です』ってセルフ・プロデュースが顔に出てるんだよ。

 ……気持ち悪ぃ」

 

 容赦のない言葉は刃となって、次々と憂太の胸に突き立てられた。

 反論の言葉は浮かんでは消え、喉の奥で絡まり、声にならない。

 

「なんで守られてるくせに被害者ヅラしてるんだ?

 どうせ、ずっと受け身で生きてきたんだろ」

 

 真希は足を止め、振り返る。

 

「なんの目的もなくやっていけるほど、呪術高専は甘くねぇぞ」

 

 その言葉は正論だったからこそ、痛かった。

 憂太はうつむいたまま、何も言えずに立ち尽くす。

 

「真希! それくらいにしろ!」

「おかか!」

 

 見かねたパンダと棘が、慌てて割って入る。

 

「……わーったよ。うるせぇな」

 

 舌打ち混じりに吐き捨てると、真希は憂太を置き去りにしたまま、さっさと歩き去っていった。

 その背中には、振り返る気配すらない。

 

 パンダはそっと憂太の肩に手を置いた。

 その温もりが、かろうじて現実に引き戻す。

 

「すまんな。アイツはな、少々“分かった気になる”ところがあるんだ」

 

「……いや」

 

 憂太は小さく首を振る。

 

「本当のこと、だから」

 

 思い返せば、真希の言葉は的確だった。

 守られることに慣れ、流されるまま生きてきた自分。 

 

 反論できない理由は、心当たりがありすぎたからだ。

 

「――おーい、パンダ! 棘!」

 

 明るい声が、重たい空気を切り裂いた。

 

「五条さんに頼まれたから、僕が引率するよ! 早くこっちおいで!」

 

 校舎の出入り口に立つのは、灰原雄。

 

 五条悟と夏油傑の一つ下の後輩であり、今では高専の教師として学生たちを導く立場にあった。

 

 その笑顔は、場違いなほど朗らかだ。

 

「……口は悪いが、根は悪いヤツじゃない。できれば、仲良くしてやってくれ」

 

「しゃけ」

 

 パンダと棘はそう言い残し、灰原のもとへ駆けていく。

 

 憂太は一瞬だけ、去っていく真希の背中を見つめた。

 

 ――このままではいけない。

 

 自分を変えるために。

 守られる側で終わらないために。

 

 そう心に言い聞かせ、憂太は静かに、しかし確かな足取りで、真希の後を追った。

 

 

  あれから一言も交わさぬまま、真希と憂太は、気まずい沈黙を引きずって悟の後を歩いていた。

 行き先も告げられぬまま連れてこられた実地研修の現場は、都内の一角にある、ごくありふれた小学校だった。

 

 鉄柵、校門、校舎。

 どこをどう切り取っても、特別な点など見当たらない。平日の昼間であれば、子どもたちの喧騒が満ちているはずの場所だ。

 

「……ここは?」

 

 沈黙に耐えかねたように、憂太が悟へ問いかける。

 

「どこにでもある、ただの小学校だよ」

 

 悟は軽い調子でそう言い、間を置いて付け足した。

 

「――ただし、校内で児童が失踪する小学校」

 

「……失踪!?」

 

 悟の語調とは正反対に、その言葉は重く憂太の胸に落ちた。

 聞き間違いであってほしいと願うように問い返すが、悟は眉一つ動かさない。

 

「場所が場所だからね。

 たぶん自然発生した呪いだろう」

 

「じゃあ……子どもが、呪いに攫われたってことですか?」

 

 声に焦りが滲む。

 それでも悟は、まるで天気の話でもするかのように答えた。

 

「そ。今のところ二人」

 

 あまりの温度差に、憂太は軽い眩暈を覚えた。

 

「人の思いが集まる場所にはさ、呪いが溜まるんだよ」

 

 憂太の混乱を補うように、真希が淡々と口を挟む。

 

 ――悔しい。

 ――嫌い。

 ――恥ずかしい。

 ――悲しい。

 ――許せない。

 

 呪いの根源は、人の負の感情だ。

 

「学校とか病院みたいに、何度も思い出される場所は、そのたびに感情の受け皿になる。

 それが積み重なれば、今回みたいに呪いが生まれる」

 

 憂太は、常識の外側にある“もう一つの常識”を、必死に噛み砕こうとしていた。

 

 だが、その思考を現実に引き戻したのは、悟の次の一言だった。

 

「呪いを祓って、子どもたちを救出。

 ……死んでたら回収」

 

「え……死……?」

 

 言葉を失う憂太をよそに、悟は片手で印を結ぶ。

 

『闇より出でて、闇より黒く――

 その穢れを、禊ぎ祓え』

 

 呪文と同時に、校舎の上空に黒い膜が広がった。

 闇が垂れ落ちるように、空間を包み込み、光を奪っていく。

 

 昼間だったはずの世界は、みるみるうちに夜へと塗り替えられた。

 

「……夜に、なっていく……?」

 

「『帳』だよ」

 

 悟は気安く説明する。

 

「外から見えなくして、呪いを炙り出す結界。

 内側からは簡単に解けるから安心して」

 

 そう言い残し、悟は帳の外へと歩き出した。

 完全に姿を消す直前、振り返って憂太を見る。

 

「じゃあ、くれぐれも――

 死なないように」

 

 その言葉を最後に、悟の姿は闇の向こうへ消えた。

 

「ちょっ……先生!?」

 

 慌てて呼び止めるが、返事はない。

 

「転校生、余所見すんな!」

 

 鋭い声に、憂太ははっとして前を向いた。

 

 真希は、いつの間にか大刀を抜き、頭上に構えている。

 その視線の先――そこには、頭陀袋に手足が生えたような異形の呪霊が、三体寄り集まっていた。

 

『……はい、る』

 

 袋の頭頂には、蝸牛の角のような単眼が一つ。

 それが真っ直ぐに二人を捉える。

 

『……はい、る』

 

 呪霊は繰り返し呟きながら、自らの腹を引き裂いた。

 紐が引き千切れる湿った音。裂け目の奥から、縦に並ぶ鋭い牙と、だらりと垂れた舌が現れる。

 

 ――ああ、入る、って。

 

 憂太は理解してしまった。

 自分たちを、その腹の中へ引きずり込むつもりなのだ。

 

 次の瞬間、呪霊たちは一斉に走り出した。

 見た目に反して、異様な速度で距離を詰めてくる。

 

「こ、こっち来る!? どうしよう……!」

 

「喚くな!」

 

 真希の一喝が、空気を切り裂く。

 彼女は冷静に大刀を構え直した。

 

「覚えとけ。呪いってのはな――

 弱い奴ほど、群れる」

 

 言い終わるや否や、真希は駆け出した。

 

 迫る呪霊を躱し、横薙ぎに刃を振るう。

 

 ――一閃。

 

 銀の軌跡が走り、三体の呪霊は同時に断ち切られ、霧散した。

 

 あまりにも鮮やかな光景に、憂太は声を失う。

 

「……まあ、人間も同じか」

 

 真希は何事もなかったように呟いた。

 

「す、凄い……一振りで……」

 

「ぼさっとすんな。行くぞ」

 

「え? どこに?」

 

「校内に決まってんだろ」

 

 憂太は暗い校舎を見つめ、息を呑んだ。

 人の気配はなく、闇が沈殿している。

 それでも、呪霊が潜んでいることは分かりきっていた。

 

 怖い。

 だが、置いていかれる方が、もっと怖い。

 

 迷いなく歩き出す真希の背を、憂太は慌てて追った。

 

 帳の影響で、校内は夜のように暗い。

 響くのは、二人の足音だけ。

 

 憂太の額を、冷たい汗が伝う。

 

「……禪院さんは、怖くないの?」

 

「苗字で呼ぶな!」

 

 ぴしゃりと言い放たれ、憂太は反射的に謝った。

 

「ご、ごめん……!

 でも、なんか……めちゃくちゃ出そうで……」

 

 周囲を見回した、その瞬間。

 扉の影、机の中、天井の隅――

 そこかしこから、こちらを覗く視線に気づく。

 

「……いや、もう出てるけど」

 

 憂太は、すでに全身汗だくだった。

 

 憂太が口に出して指摘するまでもなく、真希はすでにこちらを窺う呪霊の存在に気づいていた。だがそれと同時に、拭いきれない違和感も胸の奥に沈殿している。

 

(帳が降りているのに、呪霊の数が少ない。

 ……いや、いる。いるのに、襲ってこない)

 

 背後で、情けないほど頼りない声が転がった。

 

「あわわわわ」

 

 いつまでも怯え続ける憂太に、真希の神経はささくれ立つ。

 歯を噛みしめたまま、ひとつの仮説が脳裏をよぎった。

 

(……まさか、転校生(コイツ)がいるからか?)

 

「オイッ」

 

「はいっ!?」

 

 突然投げつけられた声に、憂太の返事は裏返った。

 

「オマエ、何級だよ?」

 

 憂太は意味を汲み取れず、きょとんと目を瞬かせる。

 

「え? 英検?」

 

 あまりに的外れな答えに、真希のこめかみに青筋が浮かび上がった。

 

「呪術師には4から1までの階級があるんだよ!」

 

「でも僕、呪術高専来たばっかだし、そんなんないんじゃ?」

 

 不毛な応酬に、真希の苛立ちは限界へと達する。

 乱暴に頭を掻き、吐き捨てるように言った。

 

「あー、もういい、学生証見せろ。

 バカ目隠しからもらったろ?」

 

 あまりの言い草に、憂太は思わず五条へ同情の念を抱いた。

 

「……バカ目隠し。

 ……はい、どうぞ――」

 

 ポケットから取り出された学生証は、言葉の余韻が消えるより早く真希に奪い取られる。

 

「ま、前歴なしで入学なら4級……」

 

 その見立ては、次の瞬間に裏切られた。

 学生証の中央には、場違いなほど大きく刻まれた一文字。

 

「特」

 

(――特級!?)

 

 現実を拒むように、真希は一瞬、自分の目を疑った。

 

(特級って……1級のさらに上だろ?

 こんなん冗談でしか聞かねーレベルだろ!!)

 

「禪院さん!!」

 

 憂太の、恐怖に染まった叫びが鼓膜を震わせる。

 

「うしろ……」

 

 学生証に気を取られていた真希が振り向いた瞬間、視界が闇に覆われた。廊下を丸ごと塞ぐほどの巨体が、そこに鎮座していたのだ。巨大な瞳は逃がさぬとばかりに、二人を正確に捉えている。

 

 その異様な大きさに、二人は同時に息を呑んだ。

 先ほどの頭陀袋の呪霊や、そこらを彷徨く雑魚とは、明らかに次元が違う。理屈ではなく、皮膚が直接それを訴えてくる。

 

 でっぷりと肥えた腕が廊下の端へと掛けられ、呪霊はゆっくりと力を込めた。

 

 次の瞬間、壁に亀裂が走り、鈍い轟音とともに崩れ落ちる。砂の城が崩壊するように、コンクリートの校舎は無惨に砕け、裂け目から呪霊の上半身が姿を現した。

 

 巻き込まれる前に、真希は憂太の首根っこを掴み、宙へと跳躍する。だがそれを追うように、呪霊は巨大な口を開いた。

 

 人間の歯が不自然に並び、その奥には獣の牙のようなものがびっしりと生え揃っている。喉の奥から立ちのぼるのは、濃厚な死の匂いだった。

 

「クソッ!! 無駄にデケェな!」

 

 真希は状況を見極め、大刀を振るう。だが刃は巨大な歯に弾かれ、乾いた音を立てて宙を舞った。

 

 呪具を失い、為す術をなくした真希。

 ただ混乱に呑まれるだけの憂太。

 

 二人は抵抗も叶わぬまま、呪霊の口へと落ちていく。

 

 ――ゴクン。

 

 巨大な喉がひとつ蠢き、二人の姿は闇へと消えた。

 

『ご、ごちそぅさまぁぁああ!』

 

 呪霊の歓喜に満ちた咆哮が、帳の内側でいつまでも反響していた。

 

 

 

ーー同時刻、帳の外

 

 五条悟は、校内に満ちる気配の揺らぎを、ただ静かに見守っていた。

 

 真希と憂太――二つの存在が、今まさに運命の縁に立たされていることを、悟は理解している。それでも彼は、介入の一歩手前で踏みとどまり、世界の流れを凝視していた。

 

 不意に、頬に冷たい感触が走る。

 

 軽く、しかし遠慮なく押し当てられたよく冷えた缶飲料。

 振り向けば、そこに立っていたのは、悪戯が成功した子どものような笑みを浮かべた夏油傑だった。

 

「……真希も憂太も、なかなかのピンチみたいだけどさ。そろそろ助けに行かなくていいのかい?」

 

 傑の声は軽い。だが、その奥にある緊張を、悟が見逃すはずもなかった。

 

 学生時代には成し得なかった呪霊との完全な視覚共有。

 今の傑はそれを可能とし、学生たちの任務には、極めて隠密性の高い呪霊を密かに同行させている。

 安全のため――だが決して、彼らが助力を期待することのないよう、存在は完全に秘匿されていた。

 

 その呪霊の視界を通して、傑はすでに見ている。

 憂太と真希が、呪霊に丸呑みにされた瞬間を。

 

「……もう少しだけ、様子を見よう」

 

 一瞬、親友の気配に悟の表情はわずかに緩む。

 だがすぐに、その瞳は氷のような鋭さを取り戻し、校内へと向けられた。

 

 特級過呪怨霊――祈本里香。

 

 あまりにも異質で、あまりにも規格外。

 この呪霊について、得られる情報は一片たりとも無駄にできない。

 同時に、憂太も真希も――絶対に死なせない。

 

 その二つの誓いを胸に、悟は動かない。

 

 傑は悟の沈黙の意味を悟り、余計な言葉を呑み込んだ。

 やがて彼もまた、親友と同じ眼差しで、帳の内側を見つめる。

 

 二人の最強は、静かにただ見守る。




 ご指摘下さった方ありがとうございます!
 これでもまだ足りないかもしれませんが、文字数多くなったので、いったんこれで投稿します。


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