今回もまた主人公くんはお休みです(笑)
呪霊の腹の内。
ぬめついた空間の中心で、禪院真希は苛立ちを隠そうともしなかった。
むしろ、その怒りをそのままブーツの底に乗せ、肉の壁へと叩きつける。
「クソっ……! 呪具を落とした!」
蹴りは何度も繰り返される。
だが、呪霊は痛みを訴えることもなく、ただ鈍く、重く、その身体を脈動させるだけだった。
胃袋は洞窟のように広がっている。
天井も、壁も、床も、すべてが肉でできており、どくどくと脈打つ鼓動が、空気そのものを揺らしていた。
「出せ、ゴラァァァ!」
真希の怒号が腹腔に反響する。
その声に弾かれるように、恐怖で気を失っていた乙骨憂太が、かすかに身じろぎし、目を開いた。
「……ここは?」
「アノ呪いの腹の中だよッ!
こんくらいで気絶してんじゃねぇ!!」
問いかけに、真希は噛みつくように答える。
冷静さなど微塵もない。
完全な八つ当たりだった。
「じゃあ……食べられたってこと!?」
「そうだよ!
テメェ、呪いに守られてるんじゃねぇのかよ!!」
怒りの矛先を失った真希は、憂太に詰め寄る。
理不尽だと分かっていながら、その衝動を抑えられなかった。
「里香ちゃんが、いつ出てくるかは……僕にも分からないんだ。
……それより、どうするの?」
「時間が来て『帳』が上がれば、助けが来る。
恥だ! クソっ!!」
こんな低級の呪霊に、為す術なく飲み込まれた。
その事実が、真希の胸を焼く。
そのときだった。
「――助けて!」
呪霊の胃の奥。
肉の壁際から、か細い子供の声が、確かに聞こえてきた。
「あ?」
真希と憂太は、ほぼ同時に声のした方へ顔を向けた。
裂けた肉の壁。その陰に身を潜めるようにして、子どもがいた。
小学生ほどの年頃の少年が二人。体格の大きい方が、倒れ伏す小さな少年の傍らに座り込み、必死にその身体を支えている。
倒れている少年は意識を失っているようだった。力なく項垂れ、呼吸だけが、ヒューヒューと微かに喉を鳴らしている。
「お願いだ! こいつ、死にそうなんだ!」
縋るような叫び。
その声を聞いた瞬間、憂太は悟の言葉を思い出した。
――要救助少年。
「よかった……生きてた……」
思わず零れた安堵の息。
だが次の瞬間、その襟首を真希が掴み上げた。
「よくねぇよ!」
怒気を孕んだ声が、憂太の身体を揺さぶる。
「ちゃんと見ろ! デカいほうも、完全に呪いにやられてる。二人とも、いつ死んでもおかしくねぇ!」
言われて初めて、憂太は気づいた。
介抱する少年も、倒れている少年も、その顔色は異様に黒ずみ、生気を失っている。
「――そんな……! じゃあ、どうすれば……」
憂太の狼狽とは対照的に、真希は現実を正確に受け止めていた。悔しさを噛み殺すように拳を握り締める。
「どうにもなんねぇ。助けを待つしかねぇよ!」
呪具を落としたことが、今になって胸を抉る。
呪具使いである真希は、それを失った時点で呪いに対して無力だった。
体内を巡る熱が、じわじわと限界を告げてくる。このままでは危ないと理解していながら、何も出来ない現実が、ただ重くのしかかる。
「……誰もが、オマエみたいに呪いに耐性があるわけじゃねぇんだよ」
そう吐き捨てると同時に、真希の身体がふらついた。
「……禪院さん?」
憂太が異変に気づいた時には、もう遅かった。
呪いは全身に回り、真希は崩れ落ちるように倒れ込む。
「禪院さん!!」
駆け寄った憂太は、彼女の太腿にある傷に目を奪われた。
それは、ただの裂傷ではない。
傷口は湿った音を立て、肉が腐るように黒く変色していく。
「なんだ……この傷……。
呪い、なのか……?」
混乱する憂太の背後で、体格の大きい少年が、震える声を上げた。
「お姉ちゃん、死んじゃうの?
ねぇ……助けてよ、お兄ちゃん!」
その悲痛な叫びは、刃のように憂太の胸を貫いた。
「ねぇ……!」
涙に濡れた瞳で縋られても、何も出来ない。
自分の無力さが、骨の髄まで突き刺さる。
「……そんなこと言われても……無理だよ……僕じゃ――」
弱音を吐いたその瞬間、憂太の胸倉を掴む力が走った。
真希だった。力を振り絞り、無理やり上体を起こしている。
「乙骨……オマエ、マジで何しに来たんだ! 呪術高専によ!」
問い詰められても、憂太は答えられない。
「何がしたい!! 何が欲しい!! 何を叶えたい!!」
堰を切ったように、憂太の胸の奥に封じ込めていた感情が溢れ出した。
「……僕は……もう、誰も傷つけたくなくて。
閉じこもって……消えようとしたんだ……でも……」
言葉が震え、涙が頬を伝う。
「……一人は寂しいって言われて……言い返せなかったんだ!」
嗚咽混じりの叫び。
「誰かと……関わりたい!
誰かに必要とされて……生きてていいって、自信が欲しいんだ!」
真希は、微かに、しかし確かに頷いた。
「――なら、祓え」
その一言で、憂太の視界がひらける。
「呪いを祓って、祓って、祓いまくれ!
自信も、他人も……全部、その後からついてくる!
呪術高専は、そういう場所だ!!」
力尽きた真希は、そのまま倒れ込んだ。
掴まれたまま倒れた衝撃で、憂太の上着のボタンが弾け飛ぶ。
胸元に隠していたチェーンが露わになり、その先にある指輪が、淡く光を反射した。
里香との約束の指輪。
それは一瞬、確かに輝いたように見えた。
憂太はその指輪を強く握り、チェーンを引き千切る。
「……里香ちゃん」
心の底からの呼びかけに、優しい声が応えた。
『なぁに?』
憂太は大切そうに、指輪を左手の薬指にはめる。
「力を貸して」
指輪は、祈りに応えるように、柔らかな光を帯びた。
憂太たちを遠巻きに見守っていた悟と傑は、ほぼ同時に異変を察知した。
呪霊の内部――憂太たちを呑み込んだはずのその胎内から、濁流のような呪力が逆流してくる。
それは内側から外側へと、世界の理を押し返すような奔流だった。
次の瞬間、白い腕が呪霊の皮膚を突き破った。
「――来たね。
特級過呪怨霊、折本里香」
悟の呟きに応えるかのように、里香は呪霊の内側から完全に姿を現す。
目はなく、顔の中央には鋭い牙のような歯列だけが不気味に並ぶ。
生前、腰まで届いていたであろう長い髪の名残か、白い房が無数に垂れ下がり、異形の身体を覆っていた。
彼女は、憂太たちを呑み込んだ呪霊に引けを取らぬ巨体を震わせ、両腕を空へと掲げる。
『あぉぉぉ? だァれぇ?』
腹の内側から、覚えのない存在に侵入されたことへの困惑と恐怖。
呪霊は、理解の追いつかない事態に、反射的に叫び声を上げる。
しかし、その声が終わるより早く――。
里香は呪霊の顔面を鷲掴みにした。
逃げ場も、抵抗も許さない圧倒的な膂力。
指が食い込み、骨が砕け、次の瞬間、握り潰される。
『うゔゔゔるさぁい!!』
潰れた目玉が飛び出し、血と肉片が雨のように校舎へと降り注ぐ。
巨大な呪霊だったものは、もはや原型を留めることなく、無数の肉片となって四散した。
「……凄まじいね」
監視用の呪霊の視覚を通してその光景を眺めていた傑が、低く感嘆の声を漏らす。
「あれが、特級過呪怨霊・折本里香の全容か……」
一拍置いて、口元が歪む。
「――ちょっと、欲しくなるねぇ」
玩具を見つけた子供のような、純粋で不気味な笑み。
その変化に気づいた悟が、珍しく制止に回った。
「一応言っとくけど、駄目だからねー」
「……わかってるよ」
「めちゃくちゃ残念そうに見えるんだけど」
不承不承、といった様子で返す傑に、悟は肩をすくめて苦笑した。
もっとも、その気持ちが理解できないわけではない。
現在、傑が使役する呪霊の中に、里香と単独で渡り合える存在はない。
特級も一級も総動員して、ようやく勝負になるかどうか――それほどの規格外。
呪霊操術の使い手であれば、喉から手が出るほど欲しくなる存在だ。
「……それにしても」
悟は、校舎を覆う呪力の残滓を感じ取りながら、どこか楽しげに呟いた。
「女は怖い。ほんと、怖いね」
折本里香――
その名に宿る、底知れぬ愛と執着。
それを肌で感じ取り、悟は不気味な笑みを浮かべた。
里香が呪霊を蹂躙する。
校庭には、肉が裂ける鈍い音と、血が滴り落ちる生々しい水音が絶え間なく響いていた。
悲鳴とも怒号ともつかぬ断末魔は、やがて意味を失い、ただ破壊の残響だけが残る。
その隙を突くように――。
呪霊の腹腔から転がり出るようにして、憂太は地面に足をついた。
帳の外へ。
ただそれだけを目標に、身体を前へと動かす。
「はぁ……はぁ……」
背中には、意識を失った真希。
落ちないよう、上着を使って必死に縛りつけている。
両腕には、小学生を一人ずつ抱えたまま。
――重い。
いや、それでは足りない。
骨が軋み、筋肉が悲鳴を上げ、肺が焼けつくほどに、限界を超えて重かった。
それでも、憂太は立ち止まらない。
(早く……早く、みんなを先生に……!
……呪いが、里香ちゃんの気を引いてるうちに)
全身から汗が噴き出し、視界が滲む。
膝は震え、今にも崩れ落ちそうだった。
あまりの苦しさに、心が何度も折れかける。
――もう無理だ、と囁く声が、内側から何度も湧き上がる。
それでも。
「まだ……倒れるな……!」
憂太は歯を食いしばり、声を絞り出した。
「……ここで変わるって、決めたじゃないか……!」
誰に言うでもなく、自分自身に叩きつける言葉。
その一言が、わずかに残った力を掻き集める。
限界の、その先へ。
足掻くように足を前へ出した、その時。
『がんばれ、憂太』
耳元で、優しい声がした。
懐かしくて、温かくて――何より、大切な声。
「……里香ちゃん」
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
「……うん。頑張るよ」
それは約束のように、静かな返事だった。
一歩、また一歩。
地面を踏みしめ、正門へと近づく。
そして――。
校内を覆っていた帳が、音もなく霧散した。
それを視界の端で確かめた瞬間、張り詰めていた糸が切れる。
憂太は、その場に崩れ落ちた。
「おかえり」
「よく頑張ったね」
悟と傑の声が、どこか遠くから聞こえる。
安心が、全身を包み込む。
憂太の意識は、静かに、深い闇へと沈んでいった。
ここまで閲覧頂きありがとうございます。
主人公くんは、次話から出番がある予定です。
……本当に出番だけかもしれませんが(笑)
皆様の感想や評価のおかげで、忙しくても更新しようという気持ちが湧いてきます。
本当にいつもありがとうございます