誤字あったらすみません。
真希と憂太、そして二人の小学生は、すぐに病院へと搬送された。
幸いにも憂太の怪我は軽く、処置を終えると病院の長いベンチに腰を下ろし、静かに祈るようにして三人の無事を願っていた。
白い廊下には、消毒液の匂いと、遠くで鳴る機械音だけが漂っている。
「問題ないってさ。
真希も、子供たちも」
主治医から話を聞いて戻ってきた悟が、軽い調子でそう告げた。
その言葉を聞いた瞬間、憂太の胸に溜まっていた息が、ゆっくりと吐き出される。
「……よかった」
「でもさ」
悟は憂太の顔を覗き込み、首を傾げた。
「なんか、スッキリしない顔だね」
言われて、憂太は自分でも気づかぬうちに、左手の薬指に嵌めた指輪を撫でていた。
「……初めて、でした」
ぽつりと、独白のように言葉が落ちる。
「自分から、里香ちゃんを呼んだのは」
「……そっか」
憂太のすぐ近くで見守っていた傑は、短く頷きながら穏やかに微笑む。
「一歩、前進だね」
悟の言葉は軽やかだったが、その奥には確かな肯定があった。
その意味をどう受け止めるべきか、憂太が考えあぐねていると――。
点滴スタンドを押しながら歩く、幼い少年の姿が視界を横切った。
その小さな背中を見た瞬間、記憶の扉が、不意に開く。
――幼い頃、肺炎で入院した病室で、里香と出会ったこと。
すぐに仲良くなり、退院してからも、何度も一緒に遊んだこと。
よく笑う、少しお転婆で、いつも楽しそうだった彼女。
公園のジャングルジム、水風船の冷たさ、夏の陽射し。
そして――。
夏の終わり、自分の誕生日。
里香が、少し照れた顔で言ってくれた言葉。
『大人になったら、里香と憂太は結婚するの』
そう言って、指輪をくれたこと。
頬を朱く染めた彼女が、とても可愛かったこと。
『じゃあ、ぼくらはずーっと、ずーっと、いっしょだね!』
甘酸っぱく、眩しい記憶。
(……僕が、言ったんだ)
憂太は、はっとする。
(ずっと一緒だって……)
「どうかしたのかい?」
突然動きを止めた憂太を心配し、傑が顔を覗き込む。
その声に引き戻されるように、憂太は現実へと帰ってきた。
「いえ……少し、思い出していただけです」
一呼吸置き、言葉を選ぶ。
「……里香ちゃんが、僕を呪ったんじゃなくて
もしかしたら……僕が、里香ちゃんに呪いをかけたのかもしれません」
里香が大好きだったこと。
目の前で彼女を失い、その死を受け入れられなかったこと。
それでも、一緒にいてほしいと願ってしまったこと。
恐怖と混乱の中で、いつの間にか忘れていた事実が、胸を締めつける。
憂太は、震える手を強く握りしめた。
「……これは、僕の持論なんだけどね」
悟が、静かに口を開く。
「愛ほど、歪んだ呪いはないよ」
その言葉に、憂太は唇を強く結んだ。
里香の執着ではない。
自分自身の想いこそが、彼女を縛り続けているのかもしれない。
やがて、憂太の瞳に、はっきりとした光が宿る。
「先生……」
顔を上げ、真っ直ぐに告げた。
「僕は、呪術高専で……里香ちゃんの呪いを、解きます!」
その決意を前に、悟と傑――二人の“最強”は、何も言わず、ただ静かに微笑んで見守っていた。
ーー同時刻
顕現した里香によって呪霊はすでに祓われ、校舎の屋上には、戦いの名残だけが静かに横たわっていた。
月光が瓦礫に淡く滲み、夜気に冷えた屋上を照らしている。その静寂を破るように、黒いローブをまとった何者かが、音もなく侵入してきた。
人影のないはずの屋上に響くのは、砕けたコンクリートを踏みしめる、かすかな足音だけ。闇に溶けるように歩み寄り、その者は足元に落ちていた何かに目を留める。
指先で拾い上げられたのは、小さなプラスチックの塊――乙骨憂太の学生証だった。
月明かりを受けて浮かび上がる名前は、まるで次なる災厄を告げる標のように、静かに闇へと輝いていた。
真希と憂太の実地研修、その翌日。
五条悟と夏油傑は、揃って総監部からの召集を受けていた。
理由は明白だった。
前日、乙骨憂太が折本里香を顕現させた件――それも、四百四十二秒に及ぶ完全顕現である。
総監部が長年恐れてきた事態。
制御不能とされる特級過呪怨霊・折本里香の全容が、白日の下に晒された。その事実に、長老たちは激昂していた。
しかし当の本人たちはというと、まるで緊張感がなかった。
悟も傑も制服ですらなく、私服のまま。場違いなほど気楽な様子で、どこか面白そうに笑っている。
沈黙を破ったのは、青筋を浮かべた総監部の一人だった。
「特級過呪怨霊・折本里香。完全顕現、四百四十二秒――
このような事態を防ぐために、乙骨をお前たちに預けたのだ! もはや申開きの余地はあるまい!」
唾を飛ばさんばかりの怒声が、重苦しい空気をさらに圧迫する。
だが二人は、まるで別世界にいるかのようだった。
「……申開き?」
悟が、心底つまらなそうに首を傾げる。
「別に、するつもりもないですけど?」
視線を交わし、同時に小さく嘆息する二人。
その開き直りとも取れる態度に、長老たちの怒りはさらに燃え上がった。
「ふざけるな……!
もし折本里香が暴走していたら、町一つが消えていたかもしれんのだぞ!!」
悟は後頭部を掻きながら、気のない調子で答えた。
「……そうなったら、僕と傑の二人で、命懸けで止めましたよ」
あまりに軽い言葉だった。
その横で、傑が一歩前に出る。
まるで聞き分けのない子供に言い聞かせるように、静かな声で語り始めた。
「いいですか。あの呪いについて、私たちは何一つ分かっていないんです。
“出自不明”。
呪術師の家系でもない一人の女児の呪いが、なぜ私の所有する特級呪霊すら凌駕する規模に至ったのか……」
淡々とした言葉には、感情よりも事実だけが並べられていた。
それゆえに、総監部は反論を封じられる。
その沈黙を縫うように、悟が軽やかに言葉を継ぐ。
「理解できないものを、最初からコントロールできるわけないでしょ?
まあ、トライ&エラーってやつ。
しばらくは放っておいてくださいよ」
それだけ言うと、話は終わりだと言わんばかりに踵を返す。
悟は傑を促し、二人並んで部屋を後にしようとした。
「……乙骨の秘匿死刑が、あくまで保留であることを忘れるな」
背後から、低く冷たい声が投げかけられる。
二人は同時に足を止め、振り返った。
「その時は――」
悟のサングラスの奥、覗いた蒼い瞳が細く光る。
「僕が、乙骨側に付くってことも忘れないでよ」
「もちろん」
傑もまた、静かに微笑みながら言い添えた。
「私も乙骨側です」
二人の視線に宿るのは、冗談でも虚勢でもない、紛れもない本気。
――最強が、敵に回る。
それがどれほど厄介な事態か。
この場にいる誰よりも、総監部自身がよく理解していた。
総監部を後にし、高専へと続く道を、悟と傑は並んで歩いていた。
「ったく、野暮な年寄りどもめ」
吐き捨てるように言いながら、悟はサングラスを外す。白い指で無造作に髪をかき上げ、そのまま目隠しの布を巻き直した。
「……ああはなりたくないねぇ。僕らも、気をつけようぜ」
半ば冗談めかしたその言葉に、傑は曖昧に息を吐き、同意とも否定ともつかない沈黙を返した。
「だいたいさぁ」
悟は続ける。
「若人から青春を取り上げるなんて、許されないんだよ」
高専へと続く長い石段を上った先、視界が開ける。グラウンドでは、怪我から復帰した真希と憂太、そして棘が並んで走っていた。脇ではパンダが大きな声で檄を飛ばし、その場の空気を必要以上に明るくしている。
汗と息遣い、土の匂い。若さが、そこに確かに息づいていた。
悟と傑は足を止め、その光景をしばし無言で見つめる。眼差しには、かつて自分たちが確かに持っていた時間への郷愁と、今なおそれを守ろうとする意志が滲んでいた。
「……何人たりともね」
悟の低い呟きに、傑は小さく頷く。
そのとき、二人の間を、ひやりとした清涼の風が吹き抜けた。
「……案外、様になってるじゃねぇか」
不意に投げかけられた、聞き覚えのある声音。
二人は反射的に振り返る。
そこに立っていたのは、いつも通り斜に構え、軽薄な笑みを浮かべた男だった。
著しく勤労意欲に欠け、楽で美味しい仕事をこよなく愛する怠惰な人間。
無償の善意や奉仕の精神などとは無縁で、高い実力を持ちながらも、正面からの戦いより騙し討ちや小細工を好む。
見る者によっては、眉をひそめ、軽蔑すら抱くだろう。
それでも――
悟と傑にとって、その男は誰よりも頼りになる存在だった。
唯一無二の先輩。
神凪颯真は、相変わらず気怠げに立ちながら、グラウンドの若者たちを一瞥し、そして二人に向けて、薄く笑った。
久々に主人公神凪颯真が登場です。
登場しただけですけど(笑)
次くらいからは、颯真も動き始めると思いますので、今後ともよければ閲覧お願い致します