ーー12月24日 百鬼夜行 当日
新宿は、来たる開戦を前に、異様なほどの静けさに包まれていた。
本来ならば年の瀬の喧騒に満ち、無数の人波が交錯するこの街は、呪術高専による厳戒態勢のもと、完全に立ち入りを規制されている。
黄昏時の街は、人の気配を失い、まるで別の世界に切り取られたかのようだった。
五条悟は、その不自然な静寂の只中に立ち、顎に手を添えて思案していた。
百鬼夜行当日――本来であれば、すでに混沌が街を呑み込んでいてもおかしくない時間帯だ。
だが、呪力の気配すら、どこか遠慮がちに息を潜めている。
嫌な予感が、胸の奥でじわじわと形を成す。
悟はポケットからスマートフォンを取り出し、迷いなく発信ボタンを押した。
「……あ、歌姫? そっちどんな感じ? 怖くて泣いてない?」
電話の向こうは、京都側を預かる数少ない信頼できる術師、庵歌姫。
もっとも、悟がその信頼を素直に表に出すことはない。
いつも通り、軽口と煽りを混ぜ込みながら、相手の反応と情報を引き出す。
歌姫の報告によれば、京都側にも今のところ目立った動きはないという。
――やっぱり、おかしい。
悟の胸中で、言語化できない不安が確実に膨らんでいく。
それを悟らせまいと、悟は意図的に声の調子を明るくした。
「……死なないようにね、歌姫」
一瞬、間が空いた。
不意打ちのようなその言葉に、電話口の向こうで歌姫が慌てる気配が伝わってくる。
だが、悟はそこで止まらない。
「歌姫、弱いから!」
次の瞬間、怒号がスピーカー越しに炸裂したが、悟は涼しい顔のまま通話を切った。
「おー、怖ッ」
冗談めかして呟く悟に、隣で様子を見ていた夏油傑が、くすりと笑う。
「素直じゃないね。普通に心配してるって伝えてあげればいいのに」
「やだよ。歌姫、すぐ調子に乗るから」
軽く笑って返しながらも、悟の表情はすぐに引き締まった。
「……どう思う?」
傑もまた、同じ空気を感じ取っていたように、視線を遠くに投げる。
「静かすぎる。周辺には呪霊を放って索敵してるけど、アルマゲストが放ったと思われる呪霊は一体も見つからない」
一拍置いて、傑は続ける。
「転移系の術を使う連中だから油断はできないが……それにしても、大規模な転移を連続で行えるとは思えない」
悟は無言で頷いた。
考えていることは、まったく同じだ。
静寂。
空白。
そして、説明のつかない焦燥。
何か――
決定的に、大切な何かを見落としている。
その感覚だけが、悟と傑の胸の奥で、不吉な鼓動のように鳴り続けていた。
不意に走った呪力の揺らぎを、五条悟と夏油傑は同時に察知した。
視線を向けた先――高層ビルの屋上付近、空間そのものが軋むように歪み、次元の裂け目が生じていた。
裂け目は瞬く間に拡大し、裂開した闇の奥から、見慣れぬ呪いの群れが溢れ出す。
赤黒い肌、頭には山羊の角、背には蝙蝠の翼。西洋の伝承に描かれるデーモンを思わせる異形。
獣と人の特徴が混ざり合った顔、剥き出しの鋭い牙。
石のような身体に翼を持ち、ガーゴイルを彷彿とさせる呪い。
さらに、ドラゴン、グリフォン、キマイラ――
西洋神話に名を連ねる悪魔や怪物、妖魔が、空を埋め尽くすように出現し、新宿の夜空を覆い尽くしていった。
その異形の大群の中心に、一人の男が佇んでいる。
ヴェルンハルト。
その背後には、かつて“ラピス”と呼ばれた少女と瓜二つの顔をした少女が五名、静かに並んでいた。
さらにその左右には、ヴェルンハルトからミゲルと呼ばれていた黒人の術師と、ラルゥと呼ばれる白人の術師の姿がある。
「……お出ましか」
低く呟いた悟の声に、傑もまた冷静に状況を見据えたまま応じる。
「ここまで大規模な転移が可能とはね。少し見縊っていたかな……
それに、呪霊を作ったという話も、どうやらブラフじゃなさそうだ」
二人は無言のまま、ヴェルンハルト陣営の戦力評価を上方修正する。
その頃、夜蛾正道は周囲に集まった術師たちへ、矢継ぎ早に指示を飛ばしていた。
「建物やインフラの破壊は極力避けろ!
逃げ遅れた一般人がいる可能性が高い。発見次第、速やかに避難させろ!」
だが、悟と傑だけは夜蛾に視線を向けることなく、ただ敵から目を離さず、静かに警戒を強めていた。
「……あの黒人」
傑の短い言葉に、悟はわずかに頷く。
「ああ。アイツは、厄介そうだね」
ベレー帽にサングラスという出で立ちの黒人呪詛師――ミゲル。
彼もまた、屋上から二人を見下ろし、観察していた。
「成程……アノ目隠シカ」
隣に立つヴェルンハルトが、静かに言葉を継ぐ。
「そうだ。あれが現代最強の一人、五条悟だよ。
ミゲル君への依頼は、ただ一つ――あれの相手だ」
わずかな間を置き、問いかけるように続けた。
「……できるかね?」
ミゲルは口元を歪め、軽く肩をすくめる。
「分カッテル。俺ノ仕事ハ足止メダロ。
ノラリクラリ……遊ビマショ」
ヴェルンハルトらと悟たちは、言葉ひとつ交わさぬまま、静かに睨み合っていた。
張り詰めた空気が、わずかな物音すら拒むかのように場を支配している。
その均衡を破るように、補助監督の伊地知が悟たちのもとへ駆け寄ってきた。
「五条さん……! 夏油さん……! ご報告があります」
「……どうした」
悟は視線を逸らすことなく、低く問いかける。
目はなおもヴェルンハルトたちを捉えたままだ。
「本来なら、この状況でお伝えするべきではないのですが……
東京と京都、同時に起きている異変です。関連がある可能性が高いと判断しました」
伊地知は一度息を整え、言葉を続ける。
「まず、京都です。ここ一週間で行方不明者が相次いでいます。
被害者の多くが旅行者だったため、把握が遅れました。
年齢、性別に共通点はありませんが――失踪者の数は、すでに二桁を確認しており、下手をすれば三桁を超えかねません」
その場の空気が、さらに重く沈む。
「そして、東京ですが……こちらは、まだ事実確認が取れていません。
ただ、一般人が突然、術式に目覚めたかのような映像が、複数確認されています」
伊地知の報告が終わるより早く――
新宿駅の構内から、あるいは裏路地の闇の奥から、若者たちが次々と姿を現した。
その全身から滲み出るのは、人のものとは思えぬ、歪で禍々しい呪力。
まるで呪いそのものが、人の形を借りて歩き出したかのようだった。
「――なるほどね」
悟の背後で、傑が小さく息を吐く。
「確かに、あいつらは“呪霊を放つ”とは言ってなかったね。
“呪いを放つ”か、やられたね」
ミハイルの言葉遊びに、完全に裏をかかれた。
その事実を噛みしめるように、傑は自嘲気味な苦笑を浮かべた。
(――これだけの戦力を投入しているというのに、縫い目女が姿を現さない。
京都か?
……いや、それなら何らかの連絡が入るはずだ。
こいつらと同じ陣営だと思っていたが……違うのか?)
五条悟は、胸の奥にまとわりつく不吉な予感の正体を掴めぬまま、思考を巡らせていた。
その異変に気づくこともなく、伊地知はどこか申し訳なさそうに報告を続ける。
「……最後に、依頼されていた乙骨くんの調査についてです。
状況が状況ですが、内容から判断して、早急にお伝えすべきだと……」
その言葉を聞いた瞬間、悟と傑の表情が、はっきりと変わった。
次の刹那、悟の姿はその場から消えていた。
――新宿の防衛線。
パンダと狗巻棘が待機していたところに、悟は音もなく現れる。
「パンダ!! 棘!!」
「どうし――!?」
返事を終える間すら与えず、悟は二人の首根っこを掴み上げた。
「質問禁止! 今から二人を高専に送る!」
「はぁ!?」
悟は二人を囲むように、指先で素早く円を描く。
「縫い目女が、今、高専にいる!
たぶん! ……いや、絶対!!」
「どっちだよ!!」
あまりに雑な断言に、思わずパンダが叫ぶ。
「勘が外れたらいい。
ただ、最悪の場合、憂太と真希――二人が死ぬ!!
僕もここを片付け次第、すぐ向かう!
2人を守れ! 悪いが死守だ!」
「死守」という一語が、空気を変えた。
パンダと棘の表情が引き締まり、事態の深刻さを悟る。
悟は両手で印を結んだ。
「応ッ!」
「しゃけ!!」
二人の力強い返答を受け、悟は両掌を強く打ち合わせる。
――バシュッ!
次の瞬間、パンダと棘は、立っていたアスファルトごと消失した。
その場には、地面が抉れた痕跡だけが虚しく残る。
「――ほう。気づかれたか」
一部始終を眺めていたヴェルンハルトが、感心したように低く呟く。
「……仕方あるまい。予定を繰り上げるとしよう」
彼は仰々しく右手を掲げ、そして振り下ろした。
「諸君――開戦だ!」
その合図とともに、新宿の空を覆っていた無数の呪霊が咆哮を上げる。
禍々しい呪力に侵された民間人たちもまた、理性を失った雄叫びをあげ、呪術師たちへと雪崩れ込んだ。
――戦場は、完全に牙を剥いた。
…な、なんとか書き上げました。
感想欄に、新宿側のアルマゲストの策を完全に予想されてる方がいて、流石風の聖痕の読者の方だと感動しました。
変更するか悩みましたが、京都側は違うネタですし、このまま押し通すことにしました(笑)
京都側の方も、風の聖痕の原作知ってる方なら薄々予想はついてると思いますが(笑)
ちょっと毎日投稿厳しくなってきたので、投稿遅れたらすみません。
完結までは遅くなったとしても、走り抜けようと思ってますので、よければ今後ともよろしくお願い致します。