黒の革ジャンに黒のジーンズ、銀色のアクセサリーを無造作にじゃらつかせた若い男――コウは、暗い愉悦を孕んだ笑みを浮かべ、右手を七海へと突き出した。
「――来い! フェンリル!」
その号令と同時に、前方の空間が不自然に歪む。
裂け目から這い出るように現れたのは、白銀の毛並みを持つ巨大な狼だった。
フェンリルと名付けられたその魔獣は、巨体に似合わぬ俊敏さでビルの外壁を蹴り、三次元的な軌道を描きながら七海へと迫る。
「……残業は嫌いなので。手早く済ませましょう」
七海は一切の恐怖を見せることなく、呪符を巻き付けた鉈を構えた。
次の瞬間、閃光のような一閃が走る。
フェンリルの巨躯は、断末魔を上げる暇すら与えられず、真っ二つに両断された。
「……は?」
自らの切り札――圧倒的戦闘力を誇る召喚獣が、文字通り一太刀で屠られた光景を前に、コウは目を見開いたまま硬直する。
「くっ……それなら数で……!
喰らい尽くせ、ヘルハウンド! フレスベルグ! ムシュフシュ! 」
動揺を振り切るように、コウは叫び、次々と魔獣を召喚していく。
漆黒の地獄の猟犬ーーヘルハウンドが十体。
さらに、空を覆うほどの翼を持つ巨大な鷲――フレスベルグが一体。
頭は蛇、2本の長い角と2つの耳がはえており、ライオンの前脚、鷲の後脚、そしてサソリの尾を持っている魔獣ーームシュフシュが一体。
上下左右、死角のない包囲網。
同時に放たれた殺意が、七海へと殺到する。
「……無駄ですよ」
淡々とした声。
七海は一切の焦りもなく、迫り来る召喚呪霊を迎え撃った。
鉈が舞う。
一撃、また一撃。
目にも止まらぬ連撃が、魔獣と魔禽を次々と切り伏せていく。
やがて、そこに残ったのは、断ち切られた呪いの残滓のみだった。
七海は油断なく、静かにコウへと向き直る。
「……一般人相手なら脅威でしょうが。
所詮は三級、良くて二級程度の実力です」
淡々と告げられる評価は、冷酷な宣告だった。
「この程度では、術師相手に勝ち目はありません」
すべての召喚呪霊を失ったコウは、恐怖に歪んだ目で七海を見つめ、やがて、倒れ伏した己の使い魔たちへと視線を落とした。
――ドクンッ。
突如、胸を押さえ、コウは地面に崩れ落ちる。
召喚獣を失った反動が、術者自身の命を削っていた。
ーー人を呪わば穴二つ。
苦悶の表情のまま、血を吐き、コウは静かに彼岸へと旅立っていった。
「……出てくるなら、さっさとしてください」
七海は吐き捨てるように言い、ビルの陰へと視線を投げる。
「……手遅れだったとはいえ、人を殺めるのは気分が悪い」
アルマゲストの卑劣な手管によって、数多の一般人が――己の生命を燃料としていることすら知らぬまま――呪霊に取り憑かれ、使い捨ての尖兵へと堕とされている。
その現実を前に、七海の胸中には抑え難い激しい怒りが渦巻いていた。
そこに姿を現したのは、身の丈ほどもある斬馬刀を肩に担いだラピスだった。
七海は首元のネクタイを緩め、それを解いて自らの手に巻き付けながら、低く呟く。
「……残念ですが、ここからは時間外労働です」
その瞬間、七海の周囲に満ちる呪力が、明確に膨れ上がった。
普段は自らに課した縛り。
呪力を抑える代わりに、解放時の出力を飛躍的に高める縛り。
朝から待機を強いられていた七海は、その枷を完全に解き放つ。
次の刹那――
全力の一撃が、一直線にラピスへと叩き込まれた。
――同時刻、京都。
夜気を切り裂くように、巨大な斧が弧を描いた。
それを軽々と振るうのは、1級術師・冥冥。
女傑と呼ぶに相応しいその姿は、血と呪力の匂いが立ち込める戦場にあってなお、どこか妖艶ですらあった。
冥冥が一度斧を振るうたび、襲いかかる呪霊は抵抗する暇もなく断ち割られ、黒い霧となって霧散する。
その数は、既に五十。
「これで五十体。――討伐数のインセンティブはクリアだね」
そう呟き、冥冥は愉しげに唇を歪めた。
そのすぐ隣には、白磁のような肌をした中性的な少年が控えている。
彼の名は、憂憂。
冥冥の実弟であり、秘蔵っ子でもある。
彼は一切の迷いもなく、ただ姉の背を見つめ、尊敬の念を隠そうともしていなかった。
「……この短時間で、この数。
さすがです、姉様」
「ありがとう、憂憂。
どうせなら、このまま満額ボーナスを狙おうか」
冥冥はそう言いながら、新たに蠢き始めた呪霊の群れへと視線を投げる。
――その瞬間。
背後から突き刺さるような殺気を感じた。
冥冥は振り返ることなく、反射的に斧を横薙ぎに振るった。
空間が裂ける。
そこにあったのは、音も気配もなく接近していた一人の男――ミハイルの姿だった。
「……へぇ」
必殺の一撃が届く、刹那。
ミハイルは感心したように口角を上げ、斧が肉を断つ直前で、霧のようにその場から消える。
「よく気づいたね。
……でも、甘いよ」
挑発するように、軽く笑うミハイル。
その姿を視界に捉え、冥冥は細く目を眇めた。
「……キミは、アルマゲストのミハイルくんかな?
これはこれは、臨時ボーナスまで付いてきそうだ」
まるで格付けの済んだ相手を値踏みするかのような声音。
その態度が、ミハイルの神経を逆撫でした。
「東洋の島国の雌猿ごときが……生意気な」
吐き捨てると同時に、ミハイルの呪力が膨張する。
禍々しい圧が周囲の空気を歪ませ、爆発的に増大していく。
冥冥はその呪力量と質から、瞬時にミハイルの実力を上方修正した。
「……憂憂。少し下がっていてくれるかい?」
「はい、姉様」
斧を肩に担ぎ直しながら告げると、憂憂は迷いなく頷き、二人から距離を取る。
その視線は最後まで、敬愛する姉の背中から離れなかった。
静寂の中、二つの殺意が、確かに向き合った。
先手を取ったのは、冥冥だった。
アスファルトを砕くほどの踏み込み。地を蹴った瞬間、巨大な斧を携えているとは思えぬ速度で、彼女は一気にミハイルの懐へと肉薄する。
膂力のすべてを乗せて振り下ろされる斧。
その刃は、ミハイルの頭上を正確に捉え、一直線に落ちていった。
鋼鉄も、舗装された道路も、等しく断ち割るであろう必殺の一撃。
だが、ミハイルは、微塵の焦燥すら浮かべてはいなかった。
「……甘いよ」
囁くようなその言葉と同時に、道路脇の側溝や、アスファルトに走った無数の罅から、粘性を帯びた塊が噴き上がる。
それらは瞬く間に集束し、盾のように斧の刃の前へと立ちはだかった。
凄まじい粘性。
質量と速度が生み出した運動エネルギーを、余すところなく吸収し、冥冥の斧撃は完全に封じ込められる。
さらに粘塊は形を歪め、まるで意思を持つ生物のように、斧ごと冥冥を呑み込もうと蠢いた。
冥冥は一瞬の逡巡もなく、斧から手を放つと、後方へと跳び退く。
「なかなか勘がいいね。
あと一瞬、判断が遅れていれば――君も、僕の最高傑作『ヴリトラ』の糧になっていたところだ」
不敵な笑みを浮かべるミハイルの前で、ヴリトラと呼ばれた粘塊は、取り込んでいた斧を吐き出すと、ゆっくりとその
まず、色が変わった。
緑がかった透明な体は次第に濁りを帯び、やがて透明性を失っていく。代わりに、表面には金属質の冷たい輝きが宿った。
柔らかく震えながらも、硬質に光を跳ね返すその質感は、巨大な水銀の塊を思わせる。
続いて、形が変わった。
不定形だった巨体から四本の脚が生え、ぬるりと地面を掴み、その身を持ち上げた。
首が伸び、尾が引き延ばされ、背には翼が芽吹く。
変形は止まらない。
粘土細工のような歪な造形は次第に削ぎ落とされ、洗練された輪郭へと収束していく。
脚には明確な関節が刻まれ、体表は白銀の鱗で隙間なく覆われた。
――僅か十数秒。
半透明の
「……まさか、竜退治をする羽目になるとはね」
冥冥はそう呟き、皮肉めいた笑みを浮かべる。
しかしその瞳は冷え切っており、眼前の怪物を、すでに敵として、冷静に測り始めていた。
いつも閲覧ありがとうございます。
本来であれば、七海は京都側に参戦、冥冥は新宿側に参戦なのですが、本作では諸事情により逆の参戦となっております。
故意の演出で、誤記載ではありません(笑)