翌日。リリルカに今日のダンジョン探索には参加できないことを伝えたソラはヘスティアと共にギルドへと向かった。
しかしギルドの入り口の前で、ヘスティアは今にも吐きそうな顔をしてうずくまっていた。
「うぅぅ……胃が……胃がキリキリするよぉ……」
「大丈夫かヘスティア?」
ギルドの大ホールは、朝から多くの冒険者たちでごった返していた。
クエストを受注する者、換金に並ぶ者、パーティメンバーを探す者。
(うう……昨日、ベル君も入れて一緒にソラ君の事情を考えたのはいいけど、やっぱり不安だよ…)
再び胃が痛み始めたヘスティアが、冷や汗を拭いながら受付カウンターを目指そうとした、その時だった。
「――あっ、ソラ君!」
資料の束を抱えたエイナが、人混みをかき分けてこちらに歩み寄ってきた。
「エイナ! おはよう!」
「おはよう、ソラ君。……ところで、ベル君は?」
いつもなら、ベルとソラはセットで行動していることが多いことから思わず聞いたのだ。
「実は俺、ギルドに呼ばれて来たんだ」
「え、ソラ君が
エイナは怪訝そうに眉を寄せる。
冒険者への呼び出しやクエストの斡旋は、トラブル防止のため、担当アドバイザーを通して行われるのがギルドの鉄則だ。ましてや、まだオラリオに来て日の浅いソラへの招集となれば、担当であるエイナに一言もないなど通常あり得ないことなのだ。
「えっと、なんでもガネーシャ様が
「ガネーシャ様が? それにしても、正規の手順を通さないなんて……」
エイナの瞳が、眼鏡の奥で鋭く細められる。
彼女の優秀な頭脳が、この手続きの「不自然さ」に警鐘を鳴らしていたのだ。
「何か、手違いがあったんじゃ… ねぇ、ソラ君。私が一度、確認して――」
エイナが踵を返そうとした、その時だった。
「――確認には及ばん」
不意に、重々しく、そしてどこか傲慢な響きを含んだ声が二人の会話を遮った。
エイナがハッとして振り返り、即座に姿勢を正して深く頭を下げる。
「ギ、ギルド長……!」
そこに立っていたのは、恰幅の良い――ありていに言えば肥満体のエルフの老人だった。
上等な服に身を包み、手には宝石のついた杖。その瞳は値踏みするように、あるいは品定めするようにソラを見下ろしている。
ギルドの最高責任者、ロイマンだ。
「君が『ソラ』か」
ロイマンは事務的に告げると、エイナに向けて手を振った。
「彼らの案内は私が引き受ける。君は自分の業務に戻りたまえ」
「えっ? で、ですがギルド長自ら案内など……それに、担当である私が同席しなくてもよろしいのですか?」
「これは急ぎの案件だ。君が関与する領域ではない」
「っ……」
取り付く島もない言い草に、エイナは言葉を詰まらせた。
上司の命令には逆らえない彼女は悔しげに唇を噛み、心配そうにソラたちを一瞥した。
「……わかりました。ソラ君、ヘスティア様、お気をつけて」
「うん、ありがとうエイナ」
エイナは後ろ髪を引かれる思いで、何度も振り返りながらカウンターへと戻っていった。
エイナが戻ったことを確認したロイマンは慇懃無礼な態度で、一般の冒険者が立ち入ることのできない奥の通路を指し示した。
「では、こちらへ来てもらおうか。お前たちのために個室を用意してある。そこで神ガネーシャが待っているぞ」
肥満体のエルフに先導され、ソラとヘスティアは重苦しい空気の漂うギルドの回廊へと足を踏み入れる。
大ホールの喧騒が嘘のように静まり返った廊下を歩きながら、ソラは隣でガチガチに固まっているヘスティアの背中を、励ますようにポンと叩いた。
・
「俺が!! ガネーシャだぁああ!!!」
部屋に入り、ソラたちの耳に開口一番で飛び込んできたのは、部屋の空気をビリビリと震わせるようなガネーシャの大声だった。
豪奢な調度品が並ぶ応接室の中央で、象の仮面を被った神ガネーシャが、なぜか奇妙なポージングを決めて仁王立ちしている。
普通の人間なら鼓膜を押さえて顔をしかめるところだ。あるいは、その奇抜な挙動にドン引きするか。
だが、ソラは違った。
その大声とポーズを見た瞬間、パァっと顔を輝かせ、大きく息を吸い込むと――
「俺はぁ!! ソラだぁあああ!!!」
負けじと大声を張り上げ、ガネーシャに対抗するように両手を広げてビシッとポーズを決めたのだ。
「「…………」」
その場にいたヘスティア、シャクティ、そしてロイマンの三人の動きが完全に停止した。
部屋の中に、大音量の残響と、それとは正反対の冷ややかな沈黙が同時に降り注ぐ。
「おぉ……! 良い声だ、少年! そしてナイスなポージングだ!」
「へへっ、ガネーシャ様もね!」
「そうだろう! 俺は
意気投合した様子でガハハと笑い合う神と少年。
その光景を前に、シャクティは「はぁ……」と深く長い溜息をつき、ヘスティアは片手で顔を覆って天を仰いだ。
「……頭が痛くなってきたよ。なんでソラ君はこう……」
「申し訳ない、ヘスティア様。我が主神が……」
「いや、こっちこそすまないね。うちのソラ君も大概だから……」
奇妙な連帯感が芽生える中、ギルド長のロイマンだけが、床をかかとでコツコツと叩いて苛立ちを露わにした。
「……茶番は済んだか?」
冷や水を浴びせるようなロイマンの声に、ようやくガネーシャが「おっと」と居住まいを正す。
「すまない、つい興奮してしまった。……さて、改めよう。よく来てくれた、ソラ」
ガネーシャは先ほどまでのふざけた態度を潜め、仮面の奥の瞳を真摯に光らせた。
「まずは礼を言う。『
ガネーシャは芝居がかった動作ではなく、静かに、深く頭を下げた。
神としての威厳と、民を愛する慈愛に満ちたその姿に、ソラも真面目な顔で頷き返す。
「ううん、俺はできることをしただけだから。みんなが無事でよかったよ」
「うむ! 君のような若者がいてくれて、俺も鼻が高いぞ! 俺がガネーシャだ!!」
最後はやはりポーズを決めるガネーシャに、ソラは苦笑しつつも親しみを覚えたようだった。
だが、和やかな空気はそこまでだった。
「――それでだ、ソラ。君も知っての通りだが、今日来てもらったのは礼だけではない」
ガネーシャの声のトーンが落ちる。
「君たちが戦ったという、あの黒い怪物……既存のモンスターとは明らかに異なる存在について、詳しく聞かせてもらいたい」
その言葉に、ヘスティアの肩がビクリと跳ねた。
昨夜の作戦会議が脳裏をよぎる。
・
「ガネーシャやギルドへの説明は必要最低限にしておいた方がいい。 ……ソラ君。ボクたちに『ハートレス』のこと、もっと詳しく聞かせてくれないかい?」
そう切り出したヘスティアに対し、ソラは少し考え込んだ後、「じゃあ、これを読んだほうが早いかも」と言って、モバイルポータルを操作し、旅の記録が記された『ジミニーメモ』に収録されていた【アンセムレポート】のデータを呼び出した。
書かれていることは外の世界の文字であり残念ながらベル達には読めない。
なのでアンセムレポートの内容をソラが読み上げる。しかしその内容はベルとヘスティアにとって、ダンジョンのモンスターよりも遥かにおぞましいものだった。
最初は、一人の王としての苦悩だった。
『人の心の奥深くには、かならず闇が眠っている……闇にとらわれた者どもが、この世界の平和を乱す前に……』
だが、レポートが進むにつれ、その内容は変質していく。
『心の領域に手を出したとたん、被験者の心はことごとく崩壊してしまった』
『治療を施したものの、彼らは回復するきざしを見せず……私は彼らを城の地下に幽閉した』
「……幽閉?」
ベルが呻くように呟く。
治療ではなく、隠蔽。民に慕われる「賢者」の仮面の下で行われた、非道な処置。
さらに、内容は加速する。
『心なきもの…ハートレスと名づけよう』
『ハートレスは生物から何かを吸収して、さらに増殖……対象となった生物は、跡形もなく消失した』
『手始めに、ある装置を開発した。ハートレスを人工的に生成する装置である』
「装置で……ハートレスを量産したっていうのかい……?」
ヘスティアの顔から血の気が引いていく。
自然発生したモンスターだけでも脅威なのに、この筆者はそれを「製造」し、「識別マーク」までつけて管理しようとしたのだ。命を、ただの実験動物として扱っている。
そして、決定的な一節が読み上げられた。
『なすべきことは決まっている。鍵となるキーブレードを持つ者を探し出し、そしてプリンセスたちを……』
『特別な少女を一人選んだ……これは一つの可能性であり、実験である』
『彼女が鍵を持つ者のいる場所へ私を導いてくれるのか…異空の海に送り出してみよう』
「……っ!」
ダンッ!!
ヘスティアが、思わずテーブルを拳で叩いた。
「少女を……子供を実験台にして、虚空へ放り出しただって!?」
その言葉を聞いたヘスティアは激怒する。見ず知らずの少女のこととはいえ、その非道さは許容の限度を超えていた。
『私は行かねばならない。この体を振り捨て、さらなる高みへ…闇の奥へ』
最後のレポートの言葉は、もはや人間のものではなかった。
知性の暴走。心の探求の果てにある破滅。
「……わかったよ」
ヘスティアは深く息を吐き、冷ややかな、けれど強い決意を秘めた瞳でソラを見据えた。
「ソラ君…ハートレスについては…ギルドとガネーシャにはこう説明するんだ。
『ハートレスは、遠い異国の狂った研究者が作り出した、失敗作の人工モンスターである』とね」
「研究者…?」
「そうさ。あくまで『個人の暴走』によって生まれた特殊な個体であり、世界そのものの理とは関係がない……そう思わせるんだ。ガネーシャとギルドを疑っているわけじゃない。でも、ハートレスはボクたちが思っているよりも広がっている。少なくてもギルドは情報公開をすると思うんだ。ギルド以外にも他派閥が…下手にどこからこのアンセムレポートの情報が漏れたら『再現性がある』とか『自分たちにも作れるかも』なんて興味を持たせちゃいけない」
それは、世界を守るための隠蔽。
知識欲に憑かれた神あるいは人が、第二、第三のアンセムにならないための防波堤であった。
・
(大丈夫…想定した通りに行くはず…賢者アンセムには申し訳ないけどこれもソラ君のためなんだ…!頼むよソラ君!!)
ヘスティアが心の中で祈る中、ソラは一度ヘスティアの方を見て、小さく頷いた。
そして、意を決したように口を開く。
「あいつらは『ハートレス』って言って……」
「待て」
ソラが説明を始めようとした、その出鼻をくじくように、鋭い声が割って入った。
ロイマンだ。
彼はソラの手前に手をかざし、会話を強制的に遮断した。
「えっ?」
「その話は、ここではならん」
ロイマンは先ほどまでの事務的な態度とは異なり、どこか有無を言わせぬ絶対的な命令口調で言い放った。
「ここでは? どういうことだロイマン。この部屋は防音も施されているはずだが?」
ガネーシャが怪訝そうに問うが、ロイマンは首を横に振る。
「ギルドとしての判断だ。当該案件は極めて重要度が高い。万が一にも情報が漏れることは許されん」
ロイマンはソラとヘスティア、そしてガネーシャを見回し、指で部屋の扉を指し示した。
「場所を変える。……ついて来てもらおうか」
「場所を変えるって……どこへ行く気だい?」
ヘスティアが警戒心を露わにして尋ねる。
ロイマンはふん、と鼻を鳴らし、眇めて冷たく告げた。
「地下だ。――神ウラノスがお待ちだ」
その名の響きに、ヘスティア達が息を呑む。
ソラだけが「ウラノス?」と首を傾げる中、ロイマンは返答を待たずに歩き出した。それは案内というよりも、拒否権のない連行に近い圧力だった。
・
黒衣の人物の案内の元、ひんやりとした冷気が漂う薄暗い通路をソラ達は歩いていた。
道は狭く、つなぎ目のない不可思議な壁にはうっすらと光沢帯びる文様は刻み込まれている。
ソラ達の後ろに並んでいるガネーシャはさっきまでの勢いが嘘のように静かだ。
「なぁ、ヘスティア…」
ソラは、前を行くフェルズに聞こえないよう、声を潜めて隣のヘスティアに耳打ちした。
「さっきから名前が出てる『ウラノス』って、誰? すごい神様?」
「……『すごい』なんてもんじゃないよ」
ヘスティアは緊張で顔を強張らせたまま、小声で答える。
「ウラノスは、ボクの古い知神でこのギルドの創設者。そして、下界に降りてきた『最初の神』の一柱」
「最初の神……?」
「ああ。千年もの昔、モンスターが溢れかえっていた地上に降り立ち、当時の子供たちとダンジョン蓋をしたんだ…」
ヘスティアの説明に、ソラは「へぇー……」と素直に感嘆の声を漏らした。
「今は地下深くで、モンスターたちが地上に出てこないように、ずっと『祈り』を捧げ続けているって聞いてるよ」
そんな全てを見通すような神が、わざわざソラを呼んだのだ。
ヘスティアの胃の痛みが限界を突破しそうになった、その時だった。
先導していたフェルズが、不意に足を止めた。
「着いたぞ」
フェルズが告げた場所は、ただの行き止まりだった。
通路が途切れ、分厚い石壁が立ちはだかっているだけだ。扉もなければ、取っ手も見当たらない。
「ここ……行き止まりじゃないか。どういうことだい?」
ヘスティアが怪訝な目でフェルズを睨む。
まさかこんな場所で始末するつもりか、と警戒心を強めた瞬間、フェルズが振り返り、フードの奥からソラを見据えた。
「ソラ。この壁に掛けられた『鍵』を……君の剣で開けてほしい」
その言葉に、場の空気が凍りついた。
「なっ……!?」
ヘスティアが驚愕に目を見開く。
鍵を開けろ? 剣で?
何より、なぜフェルズは、ソラの武器が「鍵を開ける」特性を持っていることを知っているのだ?
「ソラ君、ダメだ! やっちゃいけない!」
ヘスティアが慌ててソラの腕を掴み、制止しようとする。
キーブレードの能力を見せることは、ソラの正体が「ただの冒険者」ではないことを自白するようなものだ。
だが、ソラは困ったように眉を下げ、しかし迷いのない瞳でヘスティアを見た。
「ヘスティア。もう、隠しても無駄だと思うんだ」
「えっ……」
「だってあいつ、俺の武器が『鍵』だって知ってるんだ。だったら、コソコソしても意味ないんじゃないかな…」
ソラはヘスティアの手を優しく解くと、フェルズに向き直った。
「わかった。開ければいいんだな?」
「ああ、頼む」
ソラが右手を横に突き出すと、まばゆい光の粒子が収束し、王冠の意匠を持つ鍵型の剣――キーブレードが現れた。
その神々しい輝きに、背後のガネーシャとシャクティが息を呑む。
ソラはキーブレードの切っ先を何もない壁へと向けた。
すると、先端から一筋の光線が放たれ、壁の表面に巨大な「鍵穴」の幻影が浮かび上がった。
「――!」
ソラが手首を捻るような動作をすると、鍵穴に鍵が差し込まれ、回されたような重厚な音が響き渡る。
カキンッ
その音が響いた瞬間、行き止まりだったはずの石壁が、まるで幻であったかのように霧散し、その奥へと続く巨大な階段が出現した。
「……美しい」
フェルズが、感情の抜け落ちた声から、思わずといった様子で呟きを漏らした。
フードの奥に宿る瞳が、キーブレードの放つ輝きに魅入られたように揺らめいていた。
それは、長年追い求め、決して届かなかった「光」そのものを目撃したような、渇望と畏怖の入り混じった反応だった。
「おぉ……! 今の光は何だ、ソラ!?」
沈黙を守っていたガネーシャも、これにはたまらず声を上げた。
魔法とも、スキルとも違う不可思議な現象。
「ああ、これはこのキーブレードの力だよ。どんな鍵でも開けられるし、逆に閉じることもできるんだ」
ソラは事も無げに答える。
だが、それを聞いたシャクティは、表情こそ崩さないものの、内心で激しく動揺していた。
(どんな鍵でも開けられる、だと……?金庫も、牢の鍵も、いや、下手したらステータスのロックですら……? なんてデタラメな……!)
都市の治安を預かる者として、それは「最悪の魔道具」に他ならない。
セキュリティという概念を根底から覆す無法の剣。
ソラという少年の危険度が、彼女の中で数段階跳ね上がった瞬間だった。
「……進もう。ウラノスが待っている」
我に返ったフェルズに促され、一行は出現した階段を下りていく。
やがて、視界が開けた。
「うわっ……広いッ!」
ソラが思わず声を上げる。
そこは、地下とは思えないほど広大な空間だった。
天井は見えないほど高く、周囲には無数の蒼い松明が揺らめいている。
その最奥。巨大な祭壇の上に、一際大きな玉座が鎮座していた。
玉座に座るのは、一柱の老神。
二
纏っているローブのフードから覗くのは長く伸びた白髪と白髭だ。肘掛に太い両腕を置いたままぴくりとも身動ぎをしない。彫像のように、支配者のように、彼はいでたちを感じ取れる。
「久しぶりだな、ヘスティア」
「やぁ、ウラノス……大体…1000年ぶりかな…」
再会を喜ぶでもなく、揺れ動くことのない静謐な表情でウラノスは淡々と声を発した。
ヘスティアは欠片も物怖じすることなく旧知に接するように応じる。
そうしてウラノスはヘスティアとの挨拶が済んだと思えばがゆっくりと瞼を動かし、今度はその蒼穹の瞳でソラを見据えた。
「まずは私の要請に応じてくれたことに感謝する――外の世界からの来訪者…キーブレードの勇者よ」
その呼び名に、ヘスティアは観念したように天を仰ぐのだった。
・
「なっ!? 外の世界からの来訪者だと!? まさか、ソラはあの壁の外から来たのだというのかウラノス!」
ガネーシャが素っ頓狂な声を上げて、隣のソラと正面の老神を交互に見やる。
普通なら「外」とは、オラリオの外、あるいは大陸の彼方を意味する。だが、ウラノスの口ぶりは明らかに次元の異なる「外」を指していた。
「そうだ。ガネーシャ…その少年は間違いなく、この世界の外側から訪れた異邦人だ」
「……ガネーシャ。興奮しているところ、悪いのだが…」
ここで、困惑を隠せない様子のシャクティが口を挟んだ。
彼女は都市の治安を守る憲兵だ。常識的な観点から疑問を呈するのは当然のことだった。
「『外の世界』とは……オラリオの壁の外、あるいは極東や帝国のことなのではないのか?」
「違うぞシャクティ! 物理的な距離の話ではない!」
ガネーシャがシャクティの方を向き、ビシッと指を振って解説を始める。
「いいか、シャクティ!! 外の世界とは我々神々がいた『天界』、そして子供たちが住むこの『下界』……それら全てを含んだ、この世界という『箱庭』の外側ということだ!」
「箱庭の……外……?」
「そうだ! つまりソラは、この天と地という
シャクティが愕然としてソラを見る。
自分で解説してみせたガネーシャもまた、改めて事の重大さに戦慄し、仮面の下で呆然と呟いた。
「いったいどうやって……」
彼でさえ想像の及ばない事態。しかし、ヘスティアの疑問は別の点にあった。
「……ウラノス。なんで君が『外の世界』の存在を知っているんだい?」
ヘスティアが一歩前へ出て、玉座の老神を睨むように問うた。
「造作もないことだ」
ウラノスは抑揚のない声で答える。
「天界の、そのまた果て……『事象の地平』の先へと行けば、見ることができる。もっとも、そこまで行こうとする物好きは、神と言えど少ないがな」
「……他に、知っている神はいるのかい?」
「例えば……
その名が出た瞬間、ヘスティアの眉がぴくりと動く。
全能の神にして、かつてのオラリオの覇者。
そこからウラノスは彼の知る中で世界の壁を知る神々を上げていくうちにヘスティアは驚愕の声を上げる。
「そして――フレイヤだ」
「ッ……!?」
最後に告げられたその名に、ヘスティアは息を呑み、戦慄した。
そんなヘスティアの動揺をよそに、ソラが純粋な疑問をウラノスにぶつけた。
「なぁあ、ウラノス様。外の世界を知ってるのはわかったけど……なんでキーブレードのことまで知ってるんだ?」
ソラが手元のキーブレードを掲げて見せる。
ウラノスはその輝きを懐かしむように目を細めた。
「……800年近く、前になるか」
老神の口から語られたのは、オラリオの歴史に埋もれた英雄譚の一節だった。
「かつて、この地にも君のような『キーブレード使い』が現れたことがある」
「えっ、俺以外にも!?」
「……うむ。その者は当時の『ゼウス・ファミリア』と共闘し、ダンジョンから溢れ出した強大なモンスターを討ち滅ぼした。その輝きは、今の君と同じ……『希望の光』そのものだった」
800年前…そんな大昔に、自分と同じキーブレードの使い手がこの世界を訪れていた。ソラは驚きとともに、不思議な縁を感じずにはいられなかった。
「……だったら、ウラノス様」
ソラの表情が真剣なものに変わる。
キーブレードを知っているのなら、当然、その対となる存在についても知っているはずだ。
「『ハートレス』についても、知ってるのか?」
その問いに、広大な空間の空気が一瞬にして重くなった気がした。
ウラノスは長く沈黙した後、自嘲するように深く嘆息した。
「……察しては、いた」
その声には、神らしからぬ苦渋が滲んでいた。
「……古くから、黒い
神としての責任を痛感し、深々と頭を下げるウラノスの姿。それを見たソラとヘスティアは、顔を見合わせた。
もう、自分たちだけで抱え込む段階ではない。
「……わかったよ、ウラノス」
ヘスティアは覚悟を決めた顔で、ソラを見た。
「ソラ君。もう全部話そう。アンセムレポートのことも、ハートレスの真実も」
ヘスティアの言葉に同意したソラはモバイルポータルを起動した。
そして、ハートレスの正体、人の心の闇から生まれる脅威を余すことなく説明し始めた。
その内容は、ギルドの最高責任者であるウラノス、そしてオラリオの治安を担うガネーシャとシャクティにとって、想像を絶する危うさを孕んだ「真実」だった。
・
ソラから「ハートレス」の真実を聞かされたガネーシャは、象の仮面の下で冷や汗が流れるのを自覚していた。
沈黙が支配する空間で、その情報の重さに戦慄する。
(どこからともなく現れ、人の心を奪い、同族へと変える怪物……だと?)
その性質は、かつてオラリオを恐怖のどん底に陥れた「三大クエスト」の怪物たちに匹敵する災厄だ。いや、質が悪い分、それ以上かもしれない。
もし「感染して増える」という事実が公になれば、オラリオは疑心暗鬼とパニックで崩壊する。隣人が、友が、あるいは家族が、明日は怪物になっているかもしれない恐怖。それは秩序を何よりも重んじるガネーシャにとって、最悪の悪夢だった。
ガネーシャは、ソラがこれまで口を閉ざしていた理由を痛いほど理解した。
同時に、ソラ自身がハートレスを引き寄せるリスクを持ちながらも、それを浄化し、奪われた心を救済できる唯一の「鍵」であることも。
「心」と「魂」は別物であるというアンセムレポートの説明には混乱したが、彼こそがこの闇に対抗できる唯一の希望であることは疑いようがなかった。
一方、ギルドの地下で祭壇に座すウラノスもまた、静かに事態の深刻さを分析していた。
彼にとって最大の懸念は、ハートレスが「ダンジョンというシステムを介さずに発生する」という点にあった。
ダンジョンのモンスターは予測と管理がある程度ではあるが可能だ。だが、ハートレスはこの世界の
(……ソラの語る「心の救済」は、通常の「死と再生」の輪廻とは異なる理だ)
魂が天界へ還るシステムとは別の次元で、存在が消滅・変質する恐怖。
それに対抗できるソラという存在は、オラリオにとって異物であると同時に、不可欠な「特異点」であるとウラノスは断定した。
ここに、神々の意思は一致した。
ソラの存在とハートレスの真実は、決して公にしてはならない「劇薬」である。
世界の平和と秩序を維持するため、この場にいる者たちは、少年の秘密を共有し、闇の中で密かに協力体制を敷くことを決意したのだった。
「さて、協力体制が固まったところでだ、ソラよ」
ウラノスが、再び口を開く。
その蒼穹の瞳が、ソラの持つキーブレードへと向けられた。
「先ほどの話の中で気になったことがある。君の持つその『鍵』……それが開くべき『鍵穴』についてだ」
「鍵穴?」
「うむ。……私は常にこの祭壇から、ダンジョンに向けて祈りを捧げている。モンスターの発生を抑え、迷宮の意志を鎮めるために」
ウラノスは重々しく言葉を紡ぐ。それは、この都市の誰も知らない、神の孤独な作業の一端だった。
「その祈りの網の中に……近頃、奇妙な『空白』を感じるのだ」
「空白……?」
「そうだ。私の祈りが届かず、ダンジョンの意思すらも抜け落ちている虚無の空間。……まるで、世界そのものに穿たれた『穴』のような感覚だ」
ウラノスの言葉に、フェルズがフードを揺らして驚きを示した。
「ウラノス、それは……初耳だぞ。ダンジョンに異常が発生しているというのか?」
「確信が持てなかった故、黙っていた。だが、ソラの話を聞いて合点がいった。……ダンジョン内に点在する複数の『空白』。それこそが、君の探すべき『鍵穴』なのではないか?」
「!!」
ソラがハッとして顔を上げる。
ウラノスの推測が正しければ、この世界にも「世界の心の鍵穴」が存在し、しかも複数あることになる。
「もしそうであるならば、放置はできん。鍵穴が無防備な状態であれば、ハートレスはそこを目指し、やがて世界の心そのものを喰らい尽くすだろう」
「……うん、ウラノス様の言う通りだ。わかった、俺、その鍵穴を見つけて鍵をかけるよ!」
ソラが力強く請け負うと、ウラノスは満足げに頷いた。
「頼んだぞ。……場所については、私が感じ取った座標をフェルズに伝えさせよう。だが……」
ウラノスは少し言い淀むように言葉を区切った。
「その『鍵穴』とは、どのような形状をしているのだ? 感知はできるが、視覚的なイメージが掴めぬ。扉の形をしているのか、それとも亀裂のようなものか?」
横からフェルズも、興味津々といった様子で身を乗り出した。
「そうだな。探索の助けになる。ソラ、その『鍵穴』というのは、どういった場所に現れる? 瘴気が溜まる場所か? それともダンジョンの重要拠点か?」
「えっとね、それが全然バラバラなんだよ」
ソラは困ったように眉を下げ、指を折りながら数え上げる。
「ある世界では『噴水のモザイク画』だったし、別の世界では『喋るドアノブの口の中』だったかな。あとは『魔法の洞窟の隠し部屋』とか、『屋敷の瓦礫』とか、『人魚姫の隠れ家』とか……あ、あと『巨大な時計塔』の時もあったな!」
「…………は?」
フェルズが絶句した。
建造物、ガラクタ、生物の一部、自然物。
そこには魔術的な法則性も、地理的な共通点も一切見当たらない。ウラノスが「空白」として感知できても、現場で何を探せばいいのか全く見当がつかないということだ。
「ほ、法則性はないのか……? それでは探しようがないではないか」
「うん、だからいつも『心が導くままに』探してるんだよね」
「……論理的ではないな」
賢者フェルズが頭を抱える横で、ウラノスは「ふむ」と一つ頷き、話題を切り替えた。
「鍵穴の探索は追々進めるとして、喫緊の課題は『情報の共有』だ。ヘスティアよ」
「な、なんだいウラノス」
「現在、ソラの正体に感づいている神、あるいは興味を示している神は誰だ?」
ウラノスの問いに、ヘスティアは少し言い淀みながらも答える。
「……まずは、ヘファイストスだね。ソラ君たちの乗ってきた船……『グミシップ』を見せちゃったから、異界の技術だってことはバレてる」
「ヘファイストスか。彼女ならば口も堅い。適任だろう」
「あとは……ロキ…」
その名が出た瞬間、室内の空気が少しピリついた。
「ロキのとこの
「ロキか……」
ウラノスは少し思案した後、決断を下した。
「近いうちに、両神にこの件を伝え、協力関係を結ぶとしよう」
「ええっ!? ロキに話すのかい!?」
ヘスティアが素っ頓狂な声を上げて抗議しようとするが、ウラノスは静かにそれを制した。
「ロキは狡猾だが、オラリオの危機に対しては誰よりも敏感だ。何も知らされぬまま深層遠征を行い、そこでハートレスの大群に遭遇してみろ。……取り返しのつかないことになるぞ」
「うっ……それは……」
子供たちが深層で未知の怪物に襲われ、「感染」する未来。
それを想像したヘスティアは、悔しそうに唇を噛みながらも頷いた。
「……わかったよ。ロキに知られるのは癪だけど、背に腹は代えられないね」
「それに……」
ウラノスはそこで言葉を区切り、さらに昏い懸念を口にした。
「ソラよ。先ほどの話だが……ハートレスには『より強い心の闇の持ち主に従う』という性質があると言っていたな?」
「うん。本能的に強い闇に引き寄せられるし、とびきり強い闇を持ったヤツなら、ハートレスを使役したりもするよ」
「ならば、事態はさらに深刻だ。このオラリオには……その『強い闇』を持ち、破滅を望む者たちが潜伏している」
その言葉に、シャクティの表情が険しくなり、ガネーシャもまた、仮面の下で唇を引き結んだ。
場の空気が、物理的な重圧を伴って冷え込む。
「えっと……どういうこと? その、誰かいるの? 悪いヤツらが」
事情を飲み込めないソラが問いかけると、シャクティが一歩前へ出て、押し殺したような低い声で告げた。
「……『
「イヴィ、ルス?」
「ああ。秩序を乱し、破壊と殺戮そのものを目的とする邪神、およびその眷属《ファミリア》の総称だ」
シャクティは拳を強く握りしめ、憎悪を堪えるように言葉を紡ぐ。
「奴らは『英雄』や『正義』を嘲笑い、罪なき人々を惨殺し、都市を崩壊させることに至上の喜びを見出す狂人たちだ。かつてこのオラリオを暗黒期に陥れ、多くの悲劇を生んだ元凶……。今は鳴りを潜めているが、完全に根絶されたわけではない」
シャクティの説明を聞き、ソラの脳裏に過去に出会ったヴィランたちの姿がよぎる。
世界を闇に染めようとした魔女マレフィセント。
あるいは、圧倒的な暴力と悪意で軍勢を率いたフン族の王、シャン・ユー。
(……ただの暴走じゃない。明確な『悪意』を持って、都市を陥れようとする連中……)
もし、そんな連中がハートレスという「災厄」を手に入れたらどうなるか。
ソラは背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「……そいつらが、もしハートレスを見つけたら……マレフィセントみたいに……いや、もっとタチが悪く…」
「マレフィセント……? よくわからんが、ろくでもない輩のようだな」
ガネーシャが腕組みをして頷く。
「そうだ。奴らがハートレスの存在に気づき、それを使役する術を得れば、オラリオは内側から食い破られる。……故に、ロキだ」
ウラノスが話を戻す。
「
「……なるほどね。確かに、それならロキに話を通さないわけにはいかないか」
ヘスティアも、ここに至って完全に納得した様子で溜息をついた。
単なる事故防止ではなく、組織的な悪意への対抗の観点からも、最大戦力の協力が必要不可欠だったのだ。
方針が定まりかけたその時、ガネーシャが思い出したように手を打った。
「そうだ! ハートレスの脅威について共有した今だからこそ、話さねばならんことがある!」
ガネーシャは真剣な眼差しでソラに向き直った。
「実は、ソラとロキの
「振動?」
「うむ。震源地が特定できず調査は難航していたのだが……ハートレスの存在が明らかになった今、それが原因である可能性が高い」
ソラは顎に手を当てて分析を始める。
「巨大なハートレスなら目撃情報があるはずだけど……地中を掘り進むタイプなら隠密に行動できるかな。でも、それにしては大きな揺れができるほど大きいハートレスは……」
「そこでだ! 俺は閃いたのだ!」
ガネーシャがビシッと床を指差す。
「地上でも地中深くでもない……都市の死角、『下水道』だ!!」
「……!!」
その言葉に、シャクティがハッとする。
確かに、複雑に入り組んだ下水道ならば、人目に付かずに移動し、かつ局地的な振動を起こすことも可能だ。通常のモンスターならばダンジョンから出ることはないという先入観が、盲点となっていた。
「理の外にいるハートレスならば、下水道に潜伏していても不思議ではない……」
「そうだろう!」
シャクティの言葉に胸を張るガネーシャ。
ソラは表情を引き締め、一歩前へ出た。
「俺も行くよ。ハートレスのことなら俺が一番わかってるし、もしそいつが振動の原因なら、放っておけない」
「うむ! そう言ってくれると信じていたぞ、ソラ! では、都市の治安維持を担う我がガネーシャ・ファミリアと、ハートレスの専門家であるソラの合同調査だ!」
こうして、下水道への調査任務が決定し、会議はお開き――となるはずだった。
「……ソラ。少し、待ってくれないか」
解散しようとしたソラを呼び止めたのは、フェルズだった。
「え? どうしたの?」
「……確認されたハートレスの情報について、もう少し詳しく聞きたい。特に、その『アンセムレポート』にある記述と、君の体験談を」
フェルズの研究者としての好奇心が、限界を迎えていたのだ。
それを聞いたシャクティは、「私は業務がありますので」と一礼し、呆れたように退室していく。
残されたソラは、快くフェルズの問いに答え始めたのだが――
「それでね、この『ドリームイーター』っていうのは、夢の世界で……」
「夢の世界!?」
「あとは、データの世界で戦った時は……」
「データ…?」
「データっていうのは、記録媒体みたいなもので…」
「記録媒体の中に世界があるというのか?」
話はアンセムレポートどころか、ソラの冒険譚全体へと脱線していった。
空を飛ぶ船、データの海、眠りの世界、そして――
「別の世界には、ケアロボットの『ベイマックス』ってのがいてさ…」
「聞く限りでは、ゴーレムに近いのか………?」
「あ、後、ヒロにお礼としてベイマックスの製造データをもらったんだ」
「なっ!?ソラ…それを見せては…!!」
フェルズが身を乗り出して食いつく。
さらに、話を聞いていたガネーシャも我慢できずに乱入した。
「ゼウスやハデスがいるのならこの『ガネーシャ』もいるのではないか!?」
「えっと、象の形をした守護像ならあったような……」
「やはりな! 俺は世界を超越するガネーシャだ!!」
「ちょっと、うるさいよ、ガネーシャ!」
興奮してポーズをとるガネーシャに、ヘスティアが頭を抱える。
カオスな状況になりつつある祭壇の前で、ウラノスが重々しく口を開いた。
「……静粛に。フェルズ、ガネーシャ。今はハートレスについての議論の最中だ。……余談が過ぎるぞ」
その一喝で場は静まり返ったが、ウラノスの瞳はどこか楽しげだった。
(……他の世界のゼウス、か。あやつのことだ、向こうでも女を追いかけ回しているのだろうな……)
遠い異界の知神と同じ存在の神に思いを馳せながら、ウラノスはソラの語る「冒険」に、密かに耳を傾けるのだった。
結局、ソラたちがギルドの地下から解放されたのは、夜の帳が下りた頃だった。
アンセムレポートの説明の後、ソラは賢者アンセムについての説明もしています。
次回は番外編です。
書いた後はシャクティがハートレスと戦うのためアストレアレコードを読み直すので時間が掛かるかもしれません