【ガネーシャ・ファミリア】のホーム、『アイ・アム・ガネーシャ』。
主神の私室へ招かれたソラは、扉を開けた瞬間、鼓膜を震わせる大音声に出迎えられた。
「よくぞ来た、ソラ! 俺がガネーシャだ!!!」
部屋の中央で、象の仮面をつけた主神が、謎の煙幕演出と共にビシッとマッスルポーズを決めている。
あまりの暑苦しさとハイテンションぶりに、ソラは頬を引きつらせて苦笑いするしかなかった。
「あはは……。こ、こんにちは、ガネーシャ様」
「……はぁ」
その傍らで、シャクティが心底呆れたように深く溜息をついた。
どうやらこれが日常茶飯事らしい。ソラは少し同情的な視線をシャクティに向けつつ、部屋の中へと足を踏み入れた。
「それで、俺に用件って?」
ソラが尋ねると、ガネーシャは満足げにポーズを解き、ニカッと白い歯を見せて笑った。
「うむ! まずは喜ばしい報告がある! 我が眷属、シャクティの『ランクアップ』が可能となったのだ!」
「えっ、本当!? すごいじゃないかシャクティ! おめでとう!」
ソラが目を輝かせて祝福すると、シャクティは少し照れくさそうに視線を逸らし、咳払いをした。
「……ありがとう。だが、それはまだ『可能』になったというだけで、実際にランクアップを行うのはこれからだ」
「謙遜するなシャクティよ! これは偉業だ! ……だが、今回ソラを呼んだ真の理由は、それとは別にある」
ガネーシャの声色が、わずかに真面目なトーンへと変わる。
彼は促すようにシャクティへと視線を送った。
シャクティは頷き、一歩前へ出ると、静かに右手を虚空へと翳した。
「……ソラ。これを見てくれ」
彼女が意識を集中させた、次の瞬間。
掌の中でまばゆい光が収束し、一つの形を成した。
現れたのは、鍵の剣――『キーブレード』。
かつてソラが一時的に貸し与えたはずの力が、シャクティの手の中で確かな実体を持って顕現していたのだ。
「えぇっ!? キーブレード!? どうしてシャクティが……!」
ソラはその光景に驚愕で目を丸くした。
「ステータス更新の際に発現したのだ。スキルとしてな」
「スキル……?」
「うむ。どうやらソラとの共闘と、ソラの心に触れた経験が、彼女の魂に深く刻まれたらしい」
ガネーシャが腕を組み、補足する。
「だが、この力はあまりに異質だ。オラリオの常識からは外れすぎている。ゆえに、対外的には『シャクティに新しく発現した魔法』ということで通すつもりだ。召喚魔法の一種、とな」
「なるほど……魔法ってことなら、まだ誤魔化しが効くかも」
ソラは納得しつつも、改めてシャクティの手にあるキーブレードを見つめた。
自分以外の誰かがキーブレードを使う。リクやカイリ、王様たち以外でその光景を見るのは新鮮だった。
「そこでだ、ソラ。頼みがある」
シャクティは真剣な眼差しでソラを見据えた。
「このキーブレードの扱いについて……私に教えを乞わせてほしい」
「えっ、俺が教えるの?」
「ああ。自己流で振るってはみたが、どうにもしっくりこない。本家であるお前に、その極意を学びたい」
シャクティの申し出に、ソラは困ったように頭をかいた。
「うーん……教えるって言われてもなぁ。俺、キーブレードの扱いは誰かに習ったわけじゃないし、ほとんど独学っていうか、感覚で戦ってるだけだから……」
「……やはり、そうか」
「うん。だから、うまく言葉で説明できる自信がないんだ」
ソラが申し訳なさそうに言うと、シャクティは首を横に振った。
「構わない。感覚的な言葉でも、お前がどう意識しているかを知るだけで十分だ。……それに、私が本当に聞きたいのは、剣技そのものではない」
シャクティはキーブレードを握る手に力を込め、熱っぽい視線をソラに向けた。
「私が知りたいのは……『変形』のやり方だ」
「変形?」
「そうだ。あの地下での戦いでお前が見せた、長杖への変化……。あの自在な戦い方を、私も身につけたい」
シャクティの脳裏には、ソラが戦況に応じて次々と武器の形状を変え、あらゆる局面に対応していた姿が焼き付いている。
様々な犯罪者やモンスターに対処しなければならない彼女にとって、その万能性は喉から手が出るほど欲しい力だった。
「ああ、変形のことか!」
ソラはポンと手を打ち、ニカッと笑った。
「それなら、コツはあるよ!」
「本当か! ……ぜひ、教えてくれ。どうすれば剣が杖に変わる? 魔力の込め方か? それとも特定の動作が?」
身を乗り出すシャクティに対し、ソラは腕を組んでうんうんと唸った後、パッと顔を上げた。
「うーん、言葉にするのは難しいんだけどさ。こう、グッと力を込めて、頭の中で『こういう形になれ!』って強く念じるんだ。そしたら、キーチェーンがピカッて光って、ガシャン!って変わるんだよ!」
ソラは手にしたキーブレードをブンブンと振り回す真似をしながら、擬音たっぷりに説明した。
「……ぴかっと光って、がしゃん?」
厳格で、何事も理詰めや型にはまることを是としてきたシャクティは、予想外に感覚的すぎる答えを前に呆然と呟いた。
「そうそう! それで敵がグワーッて来たら、バッと構えて、ドカン!って感じで!」
さらに身振り手振りを交えて熱弁するソラ。そのあまりに無邪気でフィーリング全開の姿に、シャクティは痛むこめかみを軽く指で押さえた。
「……なるほど。つまり、全く言語化できないと。完全に感覚でやっているのだな……?」
「えっ!? ち、違うよ! ちゃんと頭の中で『こうなれー!』って……あ、あれ? やっぱり説明になってないか、あはは!」
ソラは困ったように後頭部を掻きながら、からからと笑ってごまかした。
シャクティは深く、深く溜息をつきつつも、手元のキーブレードを見つめ直す。
(理屈ではない、ということか。強烈なイメージと感覚……私に最も足りないものかもしれないな)
真面目すぎるがゆえに、彼女はソラの擬音だらけのアドバイスをどうにか自分の中で解釈しようと努めていた。
「……ありがとう、ソラ。難解だが、まずは言われた通り、直感的なイメージを固める特訓から始めてみることにするよ」
「うん、頑張って! シャクティならきっとできるよ!」
二人のやり取りを見守っていたガネーシャが、感極まったように叫んだ。
「素晴らしきフィーリング! これぞ未知への挑戦! 俺がガネーシャだ!!」
再びポーズを決める主神を、今度はソラとシャクティの二人で、仲良く苦笑いしながら見つめるのだった。
・
ヘスティアはカウンターで、大勢の客の相手をして疲れ切ったため息をついていた。正直なところ、長い休憩を取りたかったが、借金がある以上、ヘファイストスはそう甘くはなかった。
カランコロン、とドアベルが鳴り、客の来訪を告げた。
「いらっしゃいませ! ご用件は何でしょう?」
ヘスティアは条件反射的に営業スマイルを浮かべ、目の前の二人を見た。
一人は短く逆立った黒髪と茶色い瞳のヒューマンの青年。長袖の黒いトップスに防具を身につけ、腰には剣を帯びている。
もう一人は長い黒髪と尻尾を持つ
「こ、こんにちはっす! えっと……ヘスティア様、っすよね?」
青年はぎこちない笑みを浮かべてどもった。
それを聞いてヘスティアは瞬きをした。名指しで自分を? それは初めてのことだ。
「えっと、そうだけど。ボクに何か用?」
ヘスティアが眉を上げて尋ねた。
「そ、その、えっと……!」
青年は言葉を探してしどろもどろになった。すると隣の仲間が呆れたような顔をし、一歩前へ出た。
「ラウル、私に任せてくれない?」
「あ、ああ……任せるっす、アキ」
少女――アキは居住まいを正すと、ヘスティアに向かって丁寧にお辞儀をした。
「突然の訪問、失礼いたします。私たちは【ロキ・ファミリア】です。実は、ロキからの伝言を預かって参りました」
ロキの名が出た瞬間、ヘスティアの血が凍りついた。
内心で最大級の警戒警報が鳴り響く。
(あのロキが、ボクに伝言……? 嫌な予感しかしないぞ)
ヘスティアの営業スマイルが引きつった。
「ロキが……? あいつがボクになんの用だい?」
ヘスティアは引きつった笑顔のまま、警戒心を隠さずに尋ねた。アキは冷静な表情のまま、用件を告げた。
「はい。先日、酒場『豊饒の女主人』にて、ベート・ローガが、貴方の眷属であるベル・クラネルに対して無礼を働いた件……その謝罪をさせていただきたく」
「あー……あれね」
ヘスティアの脳裏に、あの日の夜のことが蘇る。
「それに加えて」
アキは言葉を続けた。
「先日の『
「はぁ……?」
予想外の言葉に、ヘスティアは呆気にとられた。
あのロキが、謝罪と感謝? 裏があるに決まっている。だが、建前としてはあまりに正当な理由だった。
「……つまり、ボクと、ベル君とソラ君を招待したいってことかい?」
「はい。改めてベル=クラネルへの謝罪とソラに直接お礼を申し上げたいと、ロキが」
彼らの態度は真摯だ。だが、問題はその背後にいるロキだ。
(ロキのことだ。謝罪と礼にかこつけて、ソラ君のことを根掘り葉掘り探るつもりだろうね……)
ヘスティアは眉間を揉んだ。
断りたい。全力で断りたい。
だが、昨日のヘファイストスとの会話が脳裏をよぎる。
『いずれロキのところにも話を通すなら、遅かれ早かれ知ることになるわ。椿の口から漏れる前に、アンタから釘を刺しておいた方がいいかもしれないわね』
ソラの持つ「キーブレード」や「ハートレス」のこと。特に、ロキ・ファミリアは遠征や事態の収拾で強力な個体と遭遇する可能性が高い。
いずれ話さなければならないなら、向こうから招待してきたこのタイミングは、ある意味で好機とも言えた。
(……くっ、腹は立つが、逃げるわけにはいかないか)
ヘスティアは盛大にため息を吐き出した。
「はぁー…………。わかったよ」
ヘスティアは渋々といった様子で頷いた。
「その招待、受けてあげるよ。……ただし、今日は無理だ。ボクもシフトがあるし、あの子たちもダンジョンに行ってる」
「では……」
「明日だ。明日の夜、そっちのホームに行ってやるって、ロキに伝えな」
その言葉に、ラウルとアキは顔を見合わせ、安堵の表情を浮かべた。
「ありがとうございますっす!」
「お待ちしております、ヘスティア様」
二人は礼儀正しく一礼すると、店を出ていった。
カランコロン、とドアベルが鳴り、静寂が戻る。
ヘスティアはカウンターに突っ伏した。
「うぅ……胃が痛い……」
ヘスティアはキリキリと痛む腹部を押さえた。
明日、あのロキ・ファミリアと対面しなければならない。
「外の世界」のこと、「ハートレス」のこと、そしてソラの正体について……。
あのロキに、どこまで話し、どう納得させるか。一歩間違えれば、ソラが危険な目に遭うかもしれない。
(あのロキに『世界の真実』を話すなんて……。考えただけで胃に穴が開きそうだよう……)
ヘスティアの悲痛な呻き声が、店内に虚しく響いた。
・
ゴブリンたちが第2層をうろつき、その魔の手にかける駆け出しの冒険者を探していた。通路を見渡すが、そこは静寂に包まれている。群れの一匹が獲物を求めて前に歩み出たが、突然その足を止め、立ち尽くした。
仲間のゴブリンがその様子に首を傾げ、何が起きたのかと近づく。隣に並んだ瞬間、仲間は驚愕の悲鳴を上げた。そのゴブリンの額にはナイフが深々と突き刺さっていたのだ。だがその悲鳴も、飛来したナイフが側頭部を貫き、床に崩れ落ちるのと同時に途絶えた。
他のゴブリンたちが驚きの声を上げ、同胞を殺した犯人を探そうと顔を向ける。その瞬間、二本のナイフが彼らの身体へと突き刺さった。一本は体内の《魔石》を貫き、もう一本は腹部深くに埋まる。一匹は即座に黒い灰となって霧散し、もう一匹は苦痛の声を上げながら床に倒れ伏した。
必死に起き上がろうともがくゴブリンの視界に最後に映ったのは、こちらを見下ろす一対の赤い瞳だった。
「……18」
それが最後に聞いた言葉だった。頭部にナイフが突き立てられ、真新しい死体となって床に崩れ落ちる。
ベルは軽く息を吐きながら、投擲したナイフを手元に召喚した。
ダンジョンに到着して以来、彼はナイフ投げの練習を続けていたのだ。
そして、ナイフを使って練習するには、動く標的以上のものはないだろう。この階層のステイタスならば、ベルが傷つく心配もなく安全に練習できる相手だ。
ベルはナイフの投擲をミスをするまでに何回ヒットさせられるか記録をつけていた。たった今、自己記録を更新し、ベスト記録は十八回となった。
ナイフを魔法で消すと、ベルは手早くゴブリンたちが残した魔石やドロップアイテムの牙を拾い集め、ポーチにしまった。
周囲を見渡し、モンスターの気配が完全に消えたことを確認すると、ベルはふと足を止め、右手を高く上へと掲げた。
そして、仮想の敵を想定するように、勢いよくその腕を振り下ろし、振り上げた。
「えいっ!」
静寂に包まれた通路に、ベルの気合の入った声だけが虚しく響き渡る。
そこからさらにベルは高く飛翔し回転しながらヘスティアナイフとでフェンダーを地面へと叩きつけた。
何かの魔法が発動するわけでも、光が弾けるわけでもない。ただの素振りだ。
数秒の沈黙の後。ベルはハッとして周囲を見回し、サッと顔を赤らめてディフェンダーで顔を覆った。
(だ、ダメだ……! 客観的に見たら、一人で見えない敵と戦ってるみたいで、すごく恥ずかしい……!)
もし他の冒険者に見られていたらと思うと、穴があったら入りたい気分だった。一人きりの空間だからこそやってしまった「いつかやってみたい魔法の練習」だったが、我に返るとひどく居たたまれない。
――しかし、客観的に見れば滑稽なお遊びでも、ベル本人は至って真剣だった。
ソラから教えて貰った魔法のおかげで盾やナイフの投擲という新しい戦法を手に入れ、こうして道中のモンスター相手には十分に役立っている。
だが、このままではソラの役には立てないという焦りがあった。いくら地道に立ち回れても、ハートレスのような未知で強大な敵と戦うには、戦況を一変させるような「決め手」となる技や魔法がどうしても欲しいのだ。
そのための「イメージ」を、一人密かに腕を振るって体に染み込ませていたのである。
ふと顔を上げると、第3層への入り口が近いことに気づいた。
「……次は第3層か」
ベルは熱くなった頬を両手でパチンと叩いて気合を入れ直し、次の階層が練習にはちょうど良いと判断した。ナイフを握り直し、再びダンジョンの奥へと歩き出す。
・
午後のオラリオの街をあてもなく彷徨いながら、ベルはため息をついた。今日のダンジョン探索はこれで終わりだ。
やはりキーブレードがないからか、ダンジョンの第1層から第8層までを探索したところハートレスの数は少なかったことにベルは安堵した。
だが同時に、複雑な思いも抱いていた。確かに自分の成長は早く、ステイタスも平均以上だ。それでもベルは自分の限界を理解しており、ソラが日常的に相手にしている数を自分一人で捌けるとは思えなかった。自分とソラとの間にある溝はあまりにも大きい。
その焦燥感こそが、ベルが訓練に全力を注ぐ動機だった。そのモチベーションとダンジョンでの時間のおかげで、武器の扱いはかなり上達したと感じている。ハートレスから一歩引き、通常のモンスターに集中したのは良い選択だったと言えるだろう。
それに、今日はリリが来なかったのも好都合だった。個人的な用事があるとかで今日は来られないと言っていたため、ベルは一人で自分のペースで訓練を進めることができたのだ。
(ハートレスが暴れまわっていなくてよかった……)
平和な通りを見ながらそう思う反面、ベルはわずかに眉をひそめた。
(でも……ソラの力になれるようなことが、もっとあればよかったのに……今日やったこと以上に)
誤解しないでほしいが、ハートレスが上の階層に来ないのは良いことだ。結果として今日はナイフ投げの技術向上に時間を費やせた。だが、心のどこかでそれ以上の何かを求めている自分がいる。もっと役に立ちたい。自分の力がもっとあれば、もっと貢献できたはずなのに。
(……そうだ。成長したといっても、まだ足りない)
ベルは自分の手を見つめ、拳を握りしめた。
(戦いの助けになる何かがもっと必要だ。僕には決め手になるようなスキルも魔法もない。頼れるのは《ステイタス》と《ヘスティア・ナイフ》だけ…)
状況を真に変えるような、新たな力が欲しかった。
(ヘラクレスさんみたいに、オーラを弾に込めて放出したり……アーロンさんみたいに、剣圧で陣風を起こしたりできれば……!)
ソラが語っていたオリュンポスでの
ベルはため息をつき、背後にそびえるバベルの塔を見上げた。
「……もう一度ダンジョンに戻ろうか……?」
そう呟き、考えを巡らせようとした矢先、足音が近づいてくるのが聞こえた。振り返ると、シルが急速にベルに距離を詰め、ベルの手を強く握りしめる。
「あ、ベルさん! よかった、見つけました! お願いですベルさん! 助けてください!」
必死な形相で懇願するシルに、ベルは瞬きをした。
「え、な、何事ですか?シルさん!?」
驚きと心配の入り混じった声でベルは尋ねた。
・
迷宮都市オラリオの昼下がり。
ベル・クラネルは現在の自分の状況に、きょとんとした顔をせざるを得なかった。
シルから必死の形相で「助けてください!」と腕を引かれた時、ベルはてっきりモンスター絡みの緊迫したトラブルか、ならず者に絡まれているのだとばかり思っていた。
だが、彼が今立っているのは『豊饒の女主人』の厨房の裏手にある流し台の前。そして目の前には、うず高く積まれた「汚れた皿の山」だった。
(……想像してたのと違う……)
山積みの皿を見つめ、ベルはゆっくりと困惑した表情でシルの方を振り向いた。
「あの、シルさん…………?」
「ごめんなさい! ベルさん!!」
シルは申し訳なさそうに両手を合わせ、苦笑いを浮かべていた。
「今日は本当に忙しくて、乗り切るために猫の手も借りたいくらいなんです! 少しの間でいいので、お願いします!」
そう言い残し、シルは嵐のようにホールでの接客へと戻っていった。
ベルは彼女が去った空間を黙って見つめていたが、やがて小さくため息をつき、シャツの袖をまくり上げた。
(まあ、いいか……。ハートレスのこととか、自分の不甲斐なさを忘れるには、良い気晴らしになるかもしれないし)
気を取り直して皿洗いを始めると、背後からは店員たちが慌ただしく動き回り、怒号と活気が入り混じる厨房の音が聞こえてきた。
その最中、ホールと厨房を繋ぐカウンターで、店員の一人がふと足を止めて中を覗き込んだ。
「ニャニャ!? ソラの包丁捌きが速すぎて全然見えないニャ!」
その名前に、ベルの皿を洗う手がピタリと止まる。
(ソ、ソラ!?)
流し台から身を乗り出して厨房の奥を覗き込むと、そこには本当に見慣れたツンツン頭の少年――ソラの姿があった。
ソラは調理台の一つを任され、目の前の食材を手際よく、それこそ魔法のような効率で処理している。ベルが見ている前で、十秒足らずのうちに五個目の野菜を完璧なみじん切りにしてみせたのだ。
ベルは思わず口をあんぐりと開けた。
ソラが料理上手であり、ホームで自分やヘスティアに美味しい食事を作ってくれたことは知っていた。だが、これほど狂気じみたスピードと精度で食材を扱えるとは知らなかった。
「アーニャ! 油売ってないでとっとと仕事に戻んな!」
「ヒャイッ! ごめんなさいニャ、ミア母ちゃん!!」
出来上がった料理をカウンターにドンッと置きながら、女将のミアが雷を落とす。アーニャは尻尾を丸めて慌ててホールへと逃げていった。
ベルは呆然と立ち尽くすしかなかった。
(なんでソラがこんなところに……? 今日はガネーシャ・ファミリアに呼ばれて出かけてたはずじゃ……?)
ちょうどシルが空いた皿を下げに来たタイミングを見計らい、ベルは小声で尋ねた。
「あ、あの、シルさん。どうしてソラが厨房に?」
「ああ、実はさっきベルさんを探していた時に、先にソラさんとばったりお会いしたんです。『ガネーシャ・ファミリアでの用事が早く終わった』とおっしゃっていたので、厨房の手伝いをお願いしてみたんですよ。その後、また外に出てベルさんを見つけたんです」
シルは悪びれる様子もなくニコリと微笑み、仕事に戻っていった。
なるほど、そういうことか。
(ソラ、ガネーシャ・ファミリアでの用事は無事に終わったんだな……よかった)
すでに卵を見事に片手で割り、流れるような手つきでかき混ぜているソラの背中を見つめながら、ベルは内心でホッと胸を撫で下ろした。
異界の友人が無事であり、しかもあのミア女将の厨房で戦力になっている。その事実に勇気をもらい、ベルは気合を入れ直して目の前の皿の山に向き直った。
料理はできないが、自分にできる精一杯のサポートをするつもりだ。
そう決意し、黙々と手を動かして次々と運ばれてくる皿を洗い進めていると、ホールの喧騒の中から、ある特定の単語がベルの耳に幾度も飛び込んできた。
『――ハートレス』
その言葉に、ベルは思わず手を止めた。
気配を殺し、そっと聞き耳を立ててみると、あちこちのテーブルで同じ話題が持ち上がっているのがわかる。
「いやぁ、それにしてもモンスターを作るなんて、アンセムって野郎は相当のいかれ野郎だなぁ!」
「でもよ、ハートレスから出る素材を、あのヘファイストス・ファミリアが高値で取引してるってよ」
「確か『フロストサーペント』ってのが今一番高いんだっけ?」
「ばっか、お前、フロストサーペントはあのロキ・ファミリアが苦戦したって噂があるぞ。おいそれと狩れる相手じゃねえって」
それは、流し台からほど近いテーブルで酒を飲んでいる冒険者たちの会話だった。
だが、その噂話に花を咲かせているのは人間だけではなかった。隣の席で、赤ら顔で酒盛りをしている女神たちからも、耳を疑うような声が聞こえてきた。
「第一級冒険者が苦戦するモンスターを生み出すなんて、本当に恐ろしいわねぇ、『アンセム』って
「もう死んじゃったんだっけ、残念だわ……。生きてるなら、うちのファミリアに入れてあげたかったのにねぇ……」
神々特有の、下界の事象を『娯楽』として楽しむような無責任な会話。
それに別の女神が呆れたようにツッコミを入れる。
「ちょっと、まさかあなた、ハートレスが欲しいわけ!?」
「だってぇ、あのフロストサーペントはともかく、『シャドウ』っていうのはちょこまかしてて可愛いじゃない? 駆け出しの子でも勝てるくらいだし、
すると、近くの席にいた別の冒険者が、面白半分に口を挟んだ。
「女神様方、やめといた方がいいですぜぇ。なんでも、ハートレスにやられたやつが、ハートのような形に変えられたって」
「まっさかぁ! おとぎ話じゃあるまいし!」
わはは、と酒の席特有の陽気な笑い声が弾ける。
だが、その笑い声を聞きながら、ベルの心臓は早鐘のように激しく打ち鳴らされ、背筋に冷たいものが走るのを感じていた。
(みんな……ハートレスの本当の恐ろしさを、何一つ知らないんだ……!)
ベルはギュッとスポンジを握りしめた。
シャドウを
それに「アンセム」という名前。ソラから聞いた、闇の探求者。賢者アンセムに申し訳がないが、オラリオの住人にとっては『強力なモンスターの創造主』として都合よく解釈されているらしい。
そして何より恐ろしいのは、ハートの形に変えられるという噂だ。
(心を奪われて……ハートレスになってしまう。それはただの噂話じゃない。実際に起きている悲劇なんだ……)
笑い飛ばしている彼らは、すぐそこまで迫っている闇の脅威に気づいていない。
もしオラリオの冒険者たちが素材目当てで、あるいは神々が興味本位でハートレスに近づけば、被害は爆発的に拡大してしまうかもしれない。その時、この都市はどうなってしまうのか。
ベルは厨房の奥で懸命に働くソラの背中を再び見つめた。
(ソラ達は、この重い事実を抱えて……ずっと戦ってきたんだ…)
彼の背負っているものの大きさに、ベルは改めて圧倒される思いだった。
だからこそ、自分ももっと強くならなければならない。少しでも彼の助けになれるように。
ベルはキュッと唇を引き結び、冷たい水で顔を洗うように、再び目の前の皿洗いに意識を戻した。
・
殺人的な仕事がようやく終わり、店内の客足も落ち着いてきた頃。ベルは激務が去ったことに、深い安堵のため息をつく。
「やっと終わったぁ……!」
丸椅子に崩れ落ちるように座り、ぐったりと呻く。
カチャリ、カチャリ。
不意に、うなだれるベルの目の前のテーブルへ、銀色のフォークやナイフが手際よく並べられていった。
「えっ……? こ、この後まだお客さんが来るんですか?」
慌てて立ち上がろうとするベルを、シルが「ふふっ」と笑って制止する。
「違いますよ。これから、ソラさんが私たちのお昼をごちそうしてくれるんです。ソラさんの見事な料理の腕前を見たミア母さんが、今日は特別に長い休憩を入れてくれたんですよ」
「えっ、本当ですか!?」
「はい。さあさあ、ベルさんも座って座って!」
シルに促され、ベルは目を丸くしながらも再び椅子に座り直した。
いつの間にか、ベルの周りのテーブルにはリュー、クロエ、アーニャといったウェイトレスたちも集まり、ワクワクした様子で厨房を見つめている。
「ソラの料理、本当にすごいんですよ! この前の朝ごはんに、すっごく美味しい『ガレット』っていう料理を作ってくれて……!」
ベルが朝食の素晴らしさを興奮気味に語ると、彼女たちの目はさらに輝いた。
「ニャ〜! 少年がそこまで言うなら期待が高まるニャ!」
「早く食べたいニャ」
アーニャが尻尾をブンブンと振り、クロエも楽しげに笑って待ち構えている。
そこへ、厨房からソラが次々と料理をお盆に乗せて運んできた。
「お待たせ! 今日の特別まかないコースだよ!」
テーブルに並べられたのは、オラリオの荒くれ者たちが集う酒場とは思えないほど、洗練された料理の数々だった。
ラタトゥイユ、カボチャのヴルーテ、魚のムニエル、牛肉のポワレ、クレープシュゼットがベル達の前に並べられる。
一同は息を呑み、配られた皿へとそっと手を伸ばした。
クロエが手に取るは、眩いばかりに黄金色に輝くカボチャのヴルーテ。純白の生クリームが描く流麗なマーブル模様を崩すのをためらいつつスプーンを沈めれば、極限まで滑らかに裏ごしされたスープが舌を優しく包み込む。カボチャの持つ素朴な甘みを限界まで引き出したねっとりと濃厚な味わいの中に、ひっそりと添えられたキャビアの鮮烈な磯の香りと塩気が、スープの甘みをさらに深淵なものへと昇華させていく。
「んん〜っ……! 舌の上でとろけるニャ…………」
クロエはうっとりと頬に手を当て、至福の吐息を漏らした。
アーニャが勢いよくナイフを入れたのは、芳醇な焦がしバターの妖艶な香りだった。ふっくらと厚みのある白身魚は、極薄の小麦粉の衣を纏い、黄金色に輝くまで香ばしく焼き上げられている。ナイフを入れた瞬間に響く「サクッ」という小気味よい音。そして現れる、真珠のように輝くふんわりとほどけるような身。焦がしバターのコクに満ちた濃厚な白いソースをたっぷりと絡めれば、ナッツの香ばしさが鼻腔を抜け、圧倒的な至福が押し寄せる。
「ニャーーッ!? 魚が、魚が口の中でフワッて消えたニャ!! バターのソースがたまらないニャ!!」
アーニャは、尻尾をピンと立てて大興奮でムニエルを頬張る。
エルフであるリューが頂くは、南仏の陽光をギュッと凝縮したかのような、色鮮やかなラタトゥイユの円塔。紙のように薄くスライスされたズッキーニやナスが、狂いなき精巧さで幾重にも層を成し、頂にはルビーのように艶めくトマトが誇り高く鎮座している。一口含めば、野菜たちが内包していた瑞々しい甘みと、トマトのキュッと引き締まるような酸味が、ハーブの清涼な香りと共に口の中で弾ける。ただの野菜の煮込みとは一線を画す、洗練の極みとも言える冷前菜だ。
「……野菜の持ち味を一切殺さず、これほどまでに気高く昇華させるとは……」
リューは静かに目を閉じ、自身の味覚を大いに満足させるその一皿に、深い感嘆の息をついた。
ルノアの食べている牛肉のポワレは、熱した脂を何度も何度も肉に回しかける「アロゼ」という技法で、付きっきりで焼き上げた至高の一皿だ。外側は肉の旨みを閉じ込めるようにカリッと香ばしく焼き上げられ、ナイフを滑らせれば、内側からは見事な薔薇色の断面と共に、溢れんばかりの肉汁が顔を覗かせる。噛み締めるほどに溢れる力強い肉の旨味。それを迎え撃つのは、爽やかなレモンの酸味が効いたバターソースだ。濃厚な肉の脂を鮮烈な酸味が魔法のようにふわりと包み込み、決して舌を疲れさせることなく、熱烈に次の一口を誘う。
「美味しい……! お肉がこんなに深みのある味になるなんて…」
ルノアの目が、これまでに経験したことのない美食の衝撃に見開かれる。
最後に、シルが嬉しそうにフォークを進めていたのは、極限まで薄く、そして縁がカリッとなるほど香ばしく焼き上げられた絹のようなクレープ生地が、黄金の海に浸されている。オレンジの果汁と果皮、そして焦がしキャラメルのビターなコクが完璧なバランスで溶け込んだ温かなソース。それが、中央に添えられた冷たく滑らかなバニラアイスクリームと皿の上でとろけ合い、極上の「温と冷のコントラスト」を生み出している。繊細に編み込まれたガラス細工のような飴のサクサクとした食感が、グラン・マルニエの香る甘美な余韻に、軽やかなリズムを刻んでいた。
「ふふっ、甘くて冷たくて、でも温かくて……こんなに素敵なデザート、毎日でも食べたいくらい」
シルは花が咲いたような笑顔で、クレープシュゼットを堪能していた。
全員がソラの味に酔いしれる中、ミアもまた、厨房のカウンターでラタトゥイユの味を満足げに深く唸った。
しかし、その一方でベルはデザートであるクレープシュゼットに悩まされていた。
(すごく綺麗で美味しそうなんだけど……僕、甘いものはちょっと……)
ベルは困ったように眉を下げると、隣に座るシルにそっと皿を差し出した。
「あの、シルさん。作ってくれたソラには本当に申し訳ないんですけど、僕、甘いものが得意じゃなくて……よかったら、これ食べませんか?」
「あら、いいんですかベルさん?」
シルは嬉しそうに微笑むと、ふと悪戯っぽい光を瞳に宿した。
「せっかくベルさんから頂けるなら……ベルさんに『あーん』って食べさせてもらおうかな…」
「えっ!? あ、あーん!?」
シルの大胆な要求に、ベルの顔が瞬く間に茹でダコのように真っ赤に染まった。
「シ、シル! 婚姻も結んでいない男女が白昼堂々そのような真似をするなど……」
リューが顔を赤らめながら、鋭く、しかしどこか動揺した声でたしなめる。
「ずるいニャ、シル! 少年が食べないならニャーによこすニャ! ほら少年、ニャーの口にそいつを運ぶニャー!」
「あーっ、アーニャずるい! ミャーも欲しいニャ!」
「冒険者君、私も欲しいなー」
アーニャが身を乗り出して「あーっ」と大きく口を開け、それに便乗したクロエとルノアも妖艶に微笑みながらベルに迫る。
「えっ、あ、ちょ、ちょっと皆さん……!?」
四方向から迫られる美女たちに、初心な少年の頭の
頭がいっぱいいっぱいになったベルは、縋るような目で厨房にいるソラに助けを求めようとする。
(助けて……ソラ!!)
だが、当のソラはミアとラタトゥイユを始め、ムニエル、ポワレといった料理技法ついての熱い料理談義を交わしており、ベルの悲痛な心のSOSは全く届いていなかった。
「……はぁ…」
見かねたリューが、冷徹な手つきでナイフを振るった。
目にも留まらぬ早業の刃が閃き、ベルのクレープシュゼットは寸分違わぬ四等分に切り分けられる。そして、シル、アーニャ、クロエ、ルノアの小皿にそれぞれコトン、と無言で置かれるのだった。
「これで解決です。さあ、大人しく召し上がってください」
「「「「え〜〜〜」」」」
「あ、ありがとうございます、リューさん……」
不満げな声を上げる三人に対し、ベルは命の恩人を拝むようにへたり込んだ。
・
一方その頃、ベルのピンチに全く気づいていないソラは、厨房のカウンターでミアと向かい合っていた。
ミアはラタトゥイユの小皿を空にして、満足げに深く唸った。
「……悪くないね。肉を一切使わず、野菜だけだっていうのに、独特な調理法で素材の甘みと旨味を極限まで引き出してる。これはなんて料理だい?」
「『ラタトゥイユ』っていうんだ。俺が手伝ってたレストランの人気看板メニューなんだい」
ソラは胸を張って、にやりと笑った。
「看板メニューになるのも頷けるよ。材料自体は市場で安く手に入る、素朴なもんだが、組み合わせと手間で最高に面白い味になってる。デメテル・ファミリアからの野菜を仕入れたら、さらに大化けするだろうね」
ミアは料理人としての的確な感想を述べた後、カハハッ!と高らかに笑った。
「やるじゃないかソラ!ダンジョンに潜るのに飽きたら、いつでもウチに来な! アンタの腕ならいつでも大歓迎さ!」
ミアからの、最大級の賛辞とスカウトの言葉に、デザートに舌鼓を打っていたウェイトレスたちは驚きでポカンと口を開けていた。
「さて、取引は取引だ。ウチのメニューに載せる価値のある料理を出してくれたんだ、アタシもウチの秘伝のメニューをきっちり叩き込んでやるよ」
「やったぁ!!」
ソラは無邪気に歓声を上げ、ミアの後について意気揚々と厨房の奥へと入っていった。
・
四等分されたクレープシュゼットは、シル、クロエ、アーニャの口へと次々に消えていき、ベルも口いっぱいに広がる牛肉の旨味に夢中になって舌鼓を打つ。
「んん〜っ、やっぱり美味しいニャ……!」
「本当、幸せですね……」
和気あいあいとした空気がテーブルを包んでいた、その時だった。
厨房から顔を出したソラが、ふと何かに気づいたようにピタリと足を止め、店の入り口の方へと鋭い視線を向けた。
「……?」
ベルが首をかしげる暇もなかった。
ソラはエプロンを外すやいなや、突然、猛ダッシュで店の外へと飛び出していったのだ。
「えっ!? ソ、ソラ!?」
驚くベルたちをよそに、店の外に飛び出したソラは、通りに向かって大きく手を振りながら大声を張り上げた。
「おーい! 君も一緒に食べようよー!!」
突然の元気すぎる大声に、通りを歩いていた通行人や冒険者たちが「ビクッ」と肩を揺らし、一斉にソラの方へと振り向いた。
数十人の視線が一点に集中する中、ソラはきょろきょろと周囲を見回している。
店内に残されたベルは、フォークを持ったまま目を白黒させていた。
少し時間が経ち、通りの注目を浴びて少しだけ気まずそうに頬を掻きながら、ソラが店内に戻ってきた。
「おかえり、ソラ。今のは……一体誰を呼んでたの?」
席に戻ってきたソラに、ベルがたまらず疑問を投げかける。するとソラは、不思議そうな顔で首を傾げた。
「うーん……姿は見えなかったんだけど、なんか、ずっと俺たちを見てる『視線』を感じたんだよね」
「えっ!? 視線……?」
ベルは驚いて声を上げた。
食事中、ベルは目の前の料理と女性陣のからかいに手一杯で、外からの視線など微塵も感じ取れていなかった。これほど騒がしい店内から、外に潜む気配に気づくとは、ソラの感覚はどうなっているのだろうか。
「うん。俺やベルだけじゃなくて……シルの方も、ずーっとじーっと見てたよ」
「「「――ッ!?」」」
ソラのその何気ない一言で、テーブルの空気が一変した。
「ス、ストーカーニャ!シルにストーカーニャ!!」
アーニャが毛を逆立てて叫んだ。
その言葉を合図にしたように、エルフのウェイトレスの眼光が、絶対零度の殺気を帯びて鋭く細められた。
「……万死に値します」
リューの声は、地を這うように低く、そして底知れぬ怒りに満ちていた。
彼女はどこからともなく木刀を取り出し、ギリッと力強く握りしめる。
「シルの純潔を影から付け狙う不届き者など、私がこの手で細切れにしてオラリオの土に還します!!!」
リューが完全に臨戦態勢に入り、アーニャとクロエ、ルノアも物騒なオーラを放ちながら店の入り口へと向かおうとする。
ただならぬ殺気にベルがオロオロと慌てふためく中、当のシル本人は「ふふっ」と優しく微笑んで立ち上がった。
「待って、リュー。アーニャたちもストップ。違うの」
「シル……? しかし、あなたをつけ回す輩を野放しにするわけには……」
「ストーカーなんかじゃないよ。その人は……私の親戚みたいな人で、私のことが心配で、いつも隠れて見守ってくれているの」
シルは困ったような、けれどどこか楽しげな笑みを浮かべて、大騒ぎする同僚たちを宥めた。
「親戚……? そ、そうだったんですか?」
リューたちが毒気を抜かれたように立ち止まる中、話を聞いていたソラが口を開く。
「なんだ、そうだったのか! 心配して見に来てくれるなんて優しいんだな。じゃあ、外に隠れてないで、一緒に食べようよ!」
ソラの屈託のない提案に、ベルも「そうですね、せっかくなら」と頷きかける。
だが、シルは少しだけ困ったように眉を下げて首を振った。
「ふふ、お誘いはありがとうございます。でも……彼はとても『恥ずかしがり屋』なので、こうして皆さんと一緒にお食事をするのは難しいと思います」
「そっかぁ。恥ずかしがり屋なら、いきなり大声で呼んじゃってごめんな」
ソラは素直に反省し、少し考える素振りを見せた後、パァッと顔を輝かせた。
「そうだ! じゃあ、シルから料理を渡しておいてよ! せっかく作ったんだし、お腹空いてるかもしれないだろ?」
言うが早いか、ソラは厨房からテイクアウト用のバスケットをいくつか引っ張り出してきた。そして、オーブンに残っていた熱々の魚のムニエルや、特製のラタトゥイユを、器用に弁当箱の中へと詰めていく。
「えっと、一人分で足りるかな? よく食べる人?」
ソラが弁当箱に蓋をしようとしながら尋ねると、シルは少しだけ目を丸くした後、口元を手で覆ってクスクスと笑い出した。
「ふふっ……実は、いつも見守ってくれているのは、彼以外にも『もう一人』いまして」
「あ、そうなんだ! じゃあ、その人の分もたっぷり入れておくよ!」
ソラの言葉に、シルは目を細め、どこか意味深な、けれど純粋な嬉しさを滲ませた笑みを浮かべた。
「……ええ。きっと、彼らも喜びます」
かくして、見えざる護衛たちに向けた、ソラからの特製まかない弁当が完成した。
ベルは、シルの言う「恥ずかしがり屋の親戚」という言葉に全く疑いを持たず、「家族想いでいい人たちなんだな」と呑気に感心しながら、出来上がった弁当を見つめているのだった。
なお余談ではあるがソラの料理に特別な効果があり、真価はフルコースを平らげたことでその効果は発揮される。これによりとあるヒーラーの回復魔法が一時的に格段に引き上げられるのだがなぜそうなったのかソラを含め永久に判明はすることはないのだった。
料理描写を意外と多く書いちゃった
ちなみにシルはソラのフルコースの効果に気づいています