キングダムハーツ オラリオ ミィス   作:小説好きー

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取り合えず一言。ごめんねミノタウロス君


第22話 輝き出す魂の器――キーブレードの顕現と世界最速の飛躍

 ソラが【ガネーシャ・ファミリア】へと向かった頃。

 ダンジョンでの凄惨な死闘を潜り抜けたベルとリリの二人は、一足先に【ヘスティア・ファミリア】のホームへと帰還していた。

 

「リリ、本当に体は大丈夫? どこか痛むところはない?」

 

「はい……。ソラ様に回復していただいたので、傷はもうどこにもありません」

 

 ランプの淡い灯りが照らす部屋の中で、ベルの心配そうな声にリリは静かに首を振った。

 現在の彼女は、小柄な体格こそ変わらないものの、犬や猫を思わせる獣人の子供の姿をしていた。彼女の持つ変身魔法(シンダー・エラ)による偽装である。

 

「カヌゥの取り巻きのうち、一人はあの場から逃げ延びていました。彼らはリリを囮にして見捨てて逃げたので、ファミリアには間違いなく『リリルカ・アーデはあの巨大な怪物に殺された』と報告するはずです」

 

 淡々とした口調で、リリは自らの現状を語る。

 

「つまり、【ソーマ・ファミリア】の中で、リリはすでに死亡扱いとなっています。それに、この変身魔法(シンダー・エラ)で姿を変えている限り、街を歩いていても正体がバレて追手を差し向けられる心配はありません」

 

「……そっか。それなら、もうあの人たちに怯えなくていいんだね」

 

 ベルは安堵と共に、ギュッと拳を握り込んだ。

 リリを死地に置き去りにし、道具のように扱っていたカヌゥやファミリアに対する強い怒りが胸の奥底で燻っている。だが、今は下手に行動を起こして波風を立てるよりも、リリが安全な『死亡扱い』のまま現状を維持する方が、彼女を守るためには最善だと判断して感情を抑え込んだ。

 

「よかった……本当に、生きて帰ってこれてよかったよ」

 

 心底ホッとしたように、ベルは息を吐き出して柔らかく微笑んだ。

 しかし、その純粋な温かさに触れた瞬間。リリの獣耳がビクッと震え、彼女は弾かれたように顔を伏せた。

 

「……どうして」

「え?」

「どうして、ベル様はそんなに優しいんですか……っ」

 

 リリの小さな肩が小刻みに震え始める。

 彼女の胸を支配していたのは、追手から逃れられた安堵などではなかった。それらをすべて塗り潰してしまうほどの、どす黒く重い罪悪感だった。

 

「リリは、ベル様を騙していたんですよ!? 分け前を不当に受け取ったり、隙を見て装備を奪おうとしたんですよ!? それなのに……!」

 

 ポタポタと、大粒の涙が床にこぼれ落ちる。

 リリは震える手で背負っていたリュックを探り、ジャラジャラと重い音を立てる革袋を取り出した。それは、彼女がこれまで他者を騙し、奪い、地這うようにして必死に貯め込んできた全財産だった。

 

「ノームの金庫にリリの全財産があります。せめて、これを全部差し出しますから……どうか、リリに罰を与えてください……っ!」

 

 リリは泣き崩れながら、その重い革袋を両手でベルの足元へと差し出した。

 せめてお金で贖罪しなければ、自分が許せなかった。しかし、ベルはその革袋を受け取ろうとはしなかった。ただ悲しそうに目を伏せ、静かに首を横に振った。

 

「……いらないよ、そんなの」

「どうしてですか!? 受け取ってください! 怒鳴りつけて、罵って、リリを軽蔑して……全部奪って見捨ててください! ベル様達がそうやって優しくするたびに、リリは……自分がどれだけ最低なクズなのかを思い知らされて、胸が張り裂けそうになるんです……っ!」

 

 悲痛な叫び声が、部屋の中に響き渡った。

 ベルのその純白の優しさと、贖罪すら拒まれることが、今のリリにとっては刃よりも鋭く心を抉る。罰を与えられないことこそが、彼女の自己嫌悪をどこまでも深く、底なしに増幅させていた。

 

「リリ……」

 

 ベルは、顔を覆って泣きじゃくるリリの前に静かに膝をついた。

 そして、怒鳴ることも、軽蔑の眼差しを向けることもなく、ただひどく困ったような、それでいてすべてを包み込むような優しい声で語りかける。

 

「お金なんて、最初から返してほしいなんて思ってないよ。それに、罰なら……もう十分すぎるくらい、受けてるじゃないか」

「……え?」

「あんなに泣いて、苦しんで、自分のことをいっぱい責めてる。……リリはもう、過去の『泥棒』じゃない。僕が一緒にいたいって思った、大切なサポーターだよ」

 

 ベルはそっと手を伸ばし、偽装したリリの頭を、壊れ物を扱うように優しく撫でた。

 

「だから、もう自分をいじめないで。これから一緒に、ゆっくりやり直していけばいいんだから」

 

 その言葉と、頭に伝わる温かな手の平の感触に。

 リリはついに堪えきれなくなり、差し出していた革袋を取り落とし、ベルの胸に顔を押し付けて子供のように声を上げて泣き崩れた。

 彼女の背負っていた重い罪悪感が完全に消え去るには、まだ少し時間がかかるかもしれない。だが、薄暗い絶望の底にいた彼女の心に、確かに温かい光が灯り始めていた。

 

 ベルが優しくリリの頭を撫で、彼女が声を上げて泣き崩れていた、まさにその時だった。

 

「――ただいまぁ」

 

 ホームの扉が勢いよく開き、元気な声と共にツインテールの女神、ヘスティアが帰宅した。

 しかし、部屋の中の光景――泣きじゃくる獣人姿の子供と、困ったように寄り添うベルの姿を見て、ヘスティアは瞬時に状況を察する。

 

「神様……!」

「ベルくん、ちょっと外の空気を吸ってきなよ。夕飯の買い出しもお願いしていいかい? ボク、この子と二人で少し話がしたいんだ」

 

 ヘスティアはいつもの少し子供っぽい口調のまま、しかし有無を言わせぬ響きでベルに席を外すように促した。

 ベルは少し戸惑いながらも、主神の真剣な瞳を見て静かに頷き、リリに「大丈夫だからね」と一言残して部屋を出て行った。

 

 パタン、と扉が閉まり、部屋の中にはヘスティアとリリの二人きりになる。

 

 その瞬間、部屋の空気が一変した。

 先ほどまでの親しみやすい少女のような雰囲気は完全に消え失せ、底知れぬ威圧感が室内を満たす。ヘスティアの蒼い双眸が、射抜くような鋭さでリリを見下ろした。

 それは、愛する眷族であるベルとソラに関わるこのサポーターの腹の底を、一切の誤魔化しが利かない『神の目』で直接見極めるための行動だった。

 

「……さて。まだボクの眷族(こども)たちを利用する打算はあるのかい、リリルカ・アーデ?」

 

 直球にして、逃げ場のない問い。

 心の中の最も醜い部分まで暴き出されるような神の視線に、リリは息を呑む。

 だが、リリは逃げなかった。涙でぐしゃぐしゃになった顔を乱暴に拭い、震える足で立ち上がると、ヘスティアの蒼い瞳を真っ直ぐに見つめ返した。

 

「ありません。……もう二度と、ベル様たちを裏切るような真似はしません。もう、自分の光を失いたくないんです」

 

 一切の淀みもない、魂からの宣言。

 嘘や偽りを容易く見透かす神の威厳を前にして、彼女の言葉には微塵の虚飾も混じっていなかった。

 数秒の沈黙の後、ヘスティアはフッと威圧感を和らげる。

 

「……よろしい。その言葉、ボクは真実として受け取ろう」

 

 神の面接に合格した。リリがホッと胸を撫で下ろそうとした、次の瞬間だった。

 

「だけどね」

 

 再び、空気が凍りつく。

 いや、先ほどよりもさらに重く、濃密な圧力がリリの全身にのしかかった。呼吸すら忘れるほどの圧倒的な存在感。

 

「もし次にベルくんやソラくんを危険に晒すようなことがあったら……その時は、ボクがただじゃおかないよ」

 

 静かで、ひどく冷たい凄みを含んだ声。

 その言葉を聞いた瞬間、リリの背筋に氷を押し当てられたような悪寒が走った。

 目の前にいるのは、ただの子供っぽい少女ではない。その気になれば、この迷宮都市を容易く灰燼に帰すことすらできる、完全なる超越存在たる『神』なのだ。

 神が本気で怒り、牙を剥いた時の恐怖。それを肌で理解させられ、リリの体は恐怖でガタガタと震え上がる。

 

 それでも。

 リリは決して目を逸らさず、その場に深く、深く平伏した。

 

「……はい。肝に銘じます、ヘスティア様」

 

 恐怖よりも強く、深く刻み込まれた揺るぎない忠誠。

 その言葉を聞き届けたヘスティアは、ふうっと小さく息を吐き出し、部屋を満たしていた威圧感を完全に解いた。

 しかし、その顔に浮かんでいたのは歓迎の笑みではなく、どこか呆れたような、厳しい表情だった。

 

「……だけどね、正直に言うと。ボクは君のことが嫌いだ」

「っ……」

「ベルくん達を騙した。その事実は絶対に消えない。それに……さっきからずっとそのしょぼくれた顔。見てるこっちまで憂鬱になるよ」

 

 容赦のない本音を真っ直ぐにぶつけられ、リリは再び顔を伏せ、唇を強く噛み締めた。

 ヘスティアはそんなリリを見下ろしながら、さらに鋭い言葉を紡ぐ。

 

「さっき、ベルくんに罰を与えてくれってすがっていたね? ……あれはね、君の『甘え』だよ」

「あ、まえ……?」

「そう。ベルくんが底抜けに優しくて、絶対に君を見捨てないって心のどこかで分かっているから……罰を受けることで、君自身が楽になろうとしているだけさ。ベルくんの無償の優しさに寄りかかって、自己嫌悪という殻に逃げ込んでいるんだよ」

 

 心臓を素手で掴まれたかのような、手痛い指摘。

 それは、リリ自身すら気づいていなかった、あるいは気づかないふりをしていた醜い深層心理だった。神の目は、泥まみれの罪悪感も、その奥底にある弱さすらも完全に丸裸にしていく。

 図星を突かれ、リリは何も言い返すことができず、ただボロボロと涙をこぼした。

 

「だから、ボクが神として……君に疑似的な『審判』を下してあげる」

 

 ヘスティアはそう宣言すると、ビクッと肩を震わせたリリの目の前にしゃがみ込み、視線の高さを合わせた。

 

「君には、あのお人好しで、いつかまたコロッと誰かに騙されそうなベルくん……それに、ベルくん以上に人を疑うことを知らない、ソラくんの『お目付役』になってもらうよ」

「ベル様と……ソラ様、の……?」

 

「そうさ。ソラくんもね、『繋がる心が俺の力だ』なんて言って、誰とでもすぐに絆を結ぼうとする。相手を疑うことすら知らない、ベルくんと同じ……いや、それ以上に純粋で眩しい光を持っているんだ。でもね、このオラリオじゃ、その眩しさを利用しようとする悪いやつなんて腐るほどいる」

 

 ヘスティアは真剣な眼差しで、リリの瞳を覗き込んだ。

 

「だから、スレていて裏の裏まで勘ぐれる君が必要なんだ。あの二人の純粋な光が、理不尽な悪意に食い物にされないように、君が隣でしっかりと守り抜く。自分が心の底から満足するまで、君のその『行動』で恩を返し続けなさい」

 

 ヘスティアの言葉は厳しい。だが、その蒼い瞳の奥底には、迷える子供の背中を押すような、深く温かい慈悲の光が宿っていた。

 

「それが君に与える罰であり、贖罪だ。……やれるかい、リリルカ・アーデ?」

 

 その言葉の真意を完全に理解した瞬間、リリの胸の奥から、先ほどとは全く違う、熱く込み上げるものがあった。

 突き放すような厳しい言葉を並べながらも、この神はリリに『二人の光の傍にいていい正当な理由』を与えてくれたのだ。過去の罪を抱えたまま、前を向いて歩き出すための道を、神の権威をもってわざわざ用意してくれたのである。

 

「……はいっ! はいっ……!」

 

 リリは床に額を擦りつけるようにして、何度も何度も深く頷いた。

 厳しいながらもあまりにも寛大で慈悲深い『審判』。その深い思いやりに、リリは声にならない声で泣きじゃくりながら、心からの感謝を捧げていた。

 

 リリの涙がようやく落ち着きを取り戻した頃、ホームの扉が勢いよく開かれた。

 

「ただいま戻りました、神様! 夕飯の買い出し、終わりました!」

「ただいまぁ! いやー、なんかガネーシャ様のところでとんでもない大騒ぎになっちゃってさ……って、あれ? リリ、どうしたの? 目が真っ赤だよ?」

 

 両手に紙袋を抱えたベルと、同じタイミングで帰還したソラが、不思議そうに首を傾げながら部屋に入ってくる。

 ソラの言葉に、リリは慌てて目元をゴシゴシと袖で擦った。

 

「な、なんでもありません! ちょっと目にゴミが入っただけです!」

「ふふん。ボクとこの子の間で、女同士の熱い絆が結ばれたところさ。君たちは気にしなくていいよ」

 

 ヘスティアが自慢げに胸を張ると、ベルはホッとしたように柔らかい笑みを浮かべた。

 主神とリリがしっかりと話し合い、そして受け入れてくれたことが、彼には何よりも嬉しかったのだ。

 ベルは買ってきた荷物をテーブルに置くと、少し真面目な顔になってソラとヘスティア、そしてリリへと向き直った。

 

「あの、神様、ソラ。僕、提案があるんです。……リリを、このホームで一緒に暮らしてもらえないかなって」

「えっ……!?」

 

 ベルからの突然の勧誘に、リリは驚きの声を上げた。

 ベルはソラの方を向き、言葉を続ける。

 

「リリは今までずっと、安宿を転々とするような生活をしてたんだ。でも、これからは僕たちの専属サポーターになってくれるし……何より、あんなことがあったばかりだから、一人にしておくのは心配でさ。ソラも、そう思うでしょ?」

「うん、賛成! リリも一緒に住んだ方が絶対に楽しいし、何かあっても俺たちがすぐ守れるから安心だよな!」

 

 ソラが満面の笑みで親指を立てる。

 その二人の底抜けな優しさに、リリの胸は再び熱くなった。だが、肝心の主神がそれを許すだろうか。恐る恐るヘスティアの方を見上げると、彼女は腕を組み、ふいっとそっぽを向いていた。

 

「……まぁ、ボクの大事な眷族であるベルくんがそこまで言うなら、床のスペースくらいは空けてやってもいいよ。勘違いするなよ、決してボクが君を歓迎してるわけじゃないからね! ただ、お人好しな二人の『お目付役』には、しっかり手元にいてもらって監視の目を光らせてもらう必要があるってだけさ!」

 

 ぷいっとそっぽを向くヘスティアの耳が、少しだけ照れくさそうに赤く染まっている。

 神様らしいツンデレ全開な許可の出し方に、ベルとソラは顔を見合わせて嬉しそうに笑った。

 

「ありがとうございます、神様! それじゃあリリ、これからはここで――」

「……お気持ちは、本当に、本当に嬉しいです。ですが……その提案はお受けできません」

「え……どうして?」

 

 喜んで頷くと思っていたリリの口から出たのは、明確な辞退の言葉だった。

 ベルとソラが不思議そうに目を丸くする中、リリはギュッと小さな拳を握り締め、自らに立ちはだかる厳しい『現実』を口にした。

 

「リリは今、便宜上は死亡したことにして追手を撒いていますが、あくまで【ソーマ・ファミリア】の構成員であることに変わりはありません。もしリリがこのホームに出入りしていることがバレれば……確実に、ベル様たちに火の粉が降りかかります」

「あっ……」

 

 リリの指摘に、ベルはハッと息を呑んだ。

 自分たちがリリを匿えば、それは他派閥との決定的な抗争の火種になりかねない。ソラやヘスティアという、自分の大切な家族を危険な【ソーマ・ファミリア】の標的にしてしまうリスクに気づき、ベルはそれ以上、無理に引き止める言葉を紡げなくなってしまった。

 

「じゃあ、そのファミリアを辞めちゃうことはできないの?」

 

 ファミリアの事情に疎いソラが、純粋な疑問を口にする。

 その問いに答えたのは、腕を組んで顔をしかめたヘスティアだった。

 

「そう簡単な話じゃないんだよ、ソラくん。……【ファミリア】を抜けられるかどうかは、ひとえに主神の性格と裁量次第なんだ」

「神様の、裁量ですか?」

 

 ベルが真剣な顔で尋ねる。

 

「そう。構成員の離脱っていうのは、派閥の内部事情や情報が外に漏れるリスクを常に伴う。だから、基本的にはどの神も身内の脱退を嫌がる傾向にあるんだよ」

 

 ヘスティアの重い解説に、リリも暗い顔で頷いた。

 

「【ソーマ・ファミリア】を抜けるためには、おそらく多額の資金を要求されるはずです。ですが……」

「……今、ウチのファミリアの資金は、大体70万ヴァリスくらいしかありません」

 

 ベルが申し訳なさそうに視線を落とす。

 とてもではないが、一人の構成員を買い取れるような額ではない。

 

「だったら、俺たちも一緒に稼ぐよ! いっぱいに強いモンスターを倒して、みんなでお金を出し合えば……!」

「だめです! 仮に皆様が資金を用意してくださったとしても、リリは絶対に受け取りません」

 

 身を乗り出すソラを、リリは強い口調でピシャリと撥ね退けた。

 

「これ以上、ベル様やソラ様に迷惑をかけるわけにはいかないんです……っ!」

 

 資金がないという現実の壁。そして何より、リリ自身の強すぎる罪悪感が『立て替えてもらう』という選択肢を完全に拒絶している。

 完璧な八方塞がりの状況に、ベルもソラも悔しそうに唇を噛み締めた。

 

「じゃあ、リリはどうするんだ?」

 

 心配そうなソラの問いに、リリは顔を上げ、今度は少しだけ照れくさそうに、ふわりと柔らかい微笑みを浮かべた。

 

「実は、顔馴染みのお店があるんです。……まぁ、リリにとっては正確には『顔馴染み』とは違うんですけど。ともかく、気を許せるノームのおじさんがいるので、そこでしばらくお世話になろうかと思っています」

「ノームの、おじさん……?」

「はい。あ、勿論タダで泊めてもらうわけじゃなくて、ちゃんと働きますよ? なるべくこの魔法も使わないで……リリ自身の姿で、ちゃんと認めてもらえるように努力するつもりです」

 

 そう言って笑う彼女の顔には、かつてのような卑屈な陰りはなく、自分自身の力で立ち上がろうとする確かな決意が宿っていた。

 

「そして……折を見て、リリ自身でソーマ様の元へ赴き、脱退の直談判をしに行くつもりです」

「直談判って……あんな危険な連中がいっぱいいるところに、リリが一人で行くのか!?」

「はい。これは、リリ自身が乗り越えなければならない壁なのです。……どうか、リリの我儘を許してください」

 

 ベルが慌てて身を乗り出すが、リリの瞳に宿る決意の光は揺らがなかった。

 ヘスティアの『神の審判』を受け、ベルとソラを守ると誓った彼女は、もうかつてのように逃げ隠れして自己嫌悪に浸るだけの少女ではない。

 自らの過去を清算し、本当の意味で彼らの隣に立つために、彼女は自らの足で最も高くて険しい壁に立ち向かう覚悟を決めていたのだ。

 

 しんみりとした空気が流れる中、ふとベルが思い出したように顔を険しくした。

 

「……それにしても、あの巨大なハートレスは一体何だったんでしょうか。カヌゥさんを一撃で握り潰すなんて……」

「ああ。あんなのがダンジョンの上層に出現するのは、かなり危険だよな」

 

 ソラも腕を組んで、真面目な顔で深く頷いた。

 

「さっきガネーシャ様のところへ報告に行った時にも、その話になったんだ。ダンジョン内での被害を抑えるために、上級冒険者の巡回を大幅に増やしてくれるってさ」

「そっか、ガネーシャ様が動いてくださるなら、少しは安心だね」

「うん。だけど、根本的な解決のためには、やっぱり早く上層にある鍵穴を見つけ出さないと……」

「……あの、すみません」

 

 真剣な表情で頷き合うベルとソラ、そしてヘスティアの会話に、たまらずといった様子でリリが恐る恐る手を挙げた。

 

「あの『ハートレス』という黒いモンスターについてですが、リリもギルドから公表された情報は知っています。公表では『ある学者が人工的に生み出した新種のモンスター』として注意喚起がなされていましたが……皆さんの口ぶりだと、どうもそれだけではないようですね?」

 

 リリの言葉に、ソラはハッと目を丸くした。ギルドが混乱を避けるために用意した「表向きの説明」を、彼女は正確に把握していたのだ。

 

「確かに、あいつらの一部に関してはその説明も間違いじゃないんだ。でも……本当の正体は、ちょっと違うんだよ」

 

 ソラが少しだけ顔を曇らせると、リリはさらに困惑しきった顔で三人を見回した。

 

「……人工のモンスターではないなら、一体なんなんですか? それに『鍵穴』って……? リリには皆さんが何を話してるのかさっぱりわかりません。そもそも、ソラ様は一体何者なんですか?」

 

 矢継ぎ早に投げかけられる当然の疑問。ベルはハッとしてヘスティアの方を振り向いた。異世界の真実やハートレスの本質は、今のところギルドの上層部や一部の有力派閥しか知らないトップシークレットだ。

 

「神様、どうしましょう……リリにも、事情を話した方が……」

「うーん……そうだねぇ。ボクとしては、これ以上面倒事に首を突っ込む人間を増やしたくないんだけど……」

 

 ヘスティアが腕を組んで渋い顔をしていると、ソラが一歩前に出た。

 

「話そうよ、ヘスティア。リリはもう、俺たちの立派な大切な仲間なんだしさ!」

「ソラくん……」

「それに、これからダンジョンの奥深くで強いハートレスと戦うことになるかもしれない。その時に、一緒に戦うリリに何も説明しないで秘密にしたままにしておくのは、絶対に危険だよ」

 

 ソラの真っ直ぐで嘘偽りのない主張に、リリの目がわずかに見開かれた。『大切な仲間』。その響きが、彼女の冷え切っていた心をじんわりと温めていく。

 

 ヘスティアはソラの言葉を聞き、そして戸惑うリリの顔をじっと見つめた。ずっと一人で孤独に震え、道具として扱われ、誰にも本音を明かせずに生きてきた少女。ここで真実を隠して蚊帳の外に置くことは、彼女に過去と同じような疎外感を再び味わわせることになってしまう。

 それは、ヘスティアの望む形ではなかった。

 

「……ふぅ。わかったよ。ソラくんの言う通りだね」

 

 ヘスティアは小さく息を吐くと、主神としての威厳に満ちた真剣な表情へと切り替えた。

 

「いいかい、リリルカ君。これから話すことは、他の誰にも絶対に漏らしてはいけない、ウチの【ファミリア】の最重要機密だ。他言無用、絶対の秘密厳守を約束できるね?」

「……はいっ! 絶対に、誰にも喋りません!」

 

 リリが背筋を伸ばし、力強く頷く。その覚悟を見届けたヘスティアはベルとソラに視線を向け、ゆっくりと真実を明かす決断を下した。

 

「よし。それじゃあベルくん、ソラくん。彼女にすべてを教えてあげなさい。このオラリオに迫っている本当の危機と……ソラくんがやって来た、外の世界の話を」

 

ヘスティアの許可を受け、ベルはリリに向き直った。その表情はこれまでにないほど真剣で、どこか申し訳なさそうな色を帯びていた。

 

「リリ、これから話すことは……自分でも信じられないくらい、荒唐無稽な事実なんだ。でも、全部本当のことだから、落ち着いて聞いてほしい」

「……はい。リリも修羅場はそれなりに潜ってきました。少しの事情くらいでは驚きませんよ」

 

 リリは姿勢を正し、一つ頷いた。オラリオの裏側や、神々の気まぐれな秘密をいくつか知っている自負がある。どんな重い事情だろうと、驚かずに受け止める覚悟でリリは高を括っていた。

 

 しかし、ソラの口から語られ始めた言葉は、彼女の想像の範疇を軽々と、それこそ成層圏を突破する勢いで飛び越えていった。

 

「俺はね……この世界の住人じゃないんだ。別の、たくさんの世界がある『外』から、星の海を渡ってここに来たんだよ」

「……は?」

 

「あいつら……ハートレスは、人の心の闇が溢れ出して形になった、心を持たない化け物なんだよ」

 

 ソラはその後も、世界と世界を繋ぐ扉のこと、心の闇のこと、そしてキーブレードのことを、包み隠さず語っていった。

 語られる言葉の一つ一つが、リリの常識という名の土台を粉々に砕いていく。

 

「……あ、…………う……」

 

 リリの思考が、完全に停止した。

 天界から神が降りてきた以上の衝撃。異世界。星の海。心の怪物。

 処理しきれない情報の濁流に脳が白旗を上げ、リリの意識はプツリと断絶した。彼女の小柄な体は、糸が切れた操り人形のように背後のソファへと倒れ込んでしまった。

 

「リリ!? しっかりして、リリ!」

「あちゃー、やっぱり刺激が強すぎたかな……」

 

 慌てて駆け寄ったベルが、リリの肩を掴んで必死に揺さぶる。

 数秒後、焦点の定まらない瞳がゆっくりと開き、リリは幽霊でも見たかのような青白い顔でベルを見上げた。

 

「……ベル様……今の話……全部、悪い夢だったと言ってください……。リリが疲れていて、変な幻聴を聞いただけだと言ってほしいんです……」

 

 震える声で、縋るように懇願するリリ。

 そんな彼女に対し、ソラは言葉ではなく、明確な『証拠』を提示することにした。

 

 ソラが無言で右手を横に差し出すと、何もない空間から眩い光の粒子が溢れ出す。

 直後、金属質の高い音と共に、不思議な形をした一本の鍵の剣――『キングダムチェーン』がその手に握られた。

 魔力による武器召喚とは決定的に異なる、世界の理そのものを書き換えるような神秘の顕現。

 

「…………っ」

 

 リリは息を呑んだまま、言葉を失った。

 目の前で光り輝くその剣が、語られたお伽噺が紛れもない現実であることを、残酷なまでに突きつけていた。

 

「ごめん、リリ。夢じゃないんだ。……これが、俺たちの戦ってる現実なんだ」

 

 ソラの静かな声が、リリの耳に重く響く。

 リリはソファに深く沈み込み、震える手で自らの顔を覆った。これから自分が背負うことになった秘密の重さを、彼女は今、ようやく肌で理解し始めていた。

 

 激しい頭痛にこめかみを押さえながら、リリは今聞いたばかりの荒唐無稽な事実を、必死に既存の知識と照らし合わせ、整理しようと試みた。

 

(……ソラ様がLv.1でありながら、上級冒険者をも凌駕する力を持っていた理由……ギルドが隠蔽していたあの黒いモンスターたちの正体……。すべてが『外の世界の来訪者』という一点に集約される……っ)

 

 理屈では、ようやくすべての辻褄が合った。だが、あまりに膨大すぎる情報量の濁流に、彼女の精神的な疲弊はすでに限界を超えていた。

 

「ううぅ……オラリオの裏側なんて、可愛いものでした……。リリ、もう知恵熱が出そうです……」

「あはは、ごめんリリ。やっぱりいきなり全部話すのはきつかったよな」

 

 呻き声を上げるリリを気遣い、ソラは申し訳なさそうに苦笑いした。ふと隣を見ると、主神であるヘスティアもまた、先ほどのキーブレードの輝きを目の当たりにして、どこか落ち着かない様子で自分のツインテールをいじっている。

 神である彼女ですら、いまだにソラの規格外な力やその存在の異質さには、完全には慣れきっていないようだった。

 

「よし、難しい話は一旦終わりにしよう! 腹が減っては戦はできぬ、って言うだろ? 気分転換に、ベルが買ってきた食材でパァーッと美味しいものを作ってやるよ!」

 

 ソラの明るい提案に、リリも「……そう、ですね。何かお腹に入れれば、少しは思考もはっきりするかもしれません」と弱々しく頷いた。

 一同が夕飯の準備に取り掛かろうとした、その時だ。

 ベルが一人、立ち止まったまま自分の右の掌をじっと見つめていることに、ソラが気づいた。

 

「どうしたんだベル? 何か気になることでもあるのか?」

 

 ソラの問いかけに、ベルはハッと我に返り、少し照れくさそうに、しかし熱を帯びた瞳で自分の手を見つめたまま答えた。

 

「あ、いや……さっきソラと一緒に握った、キーブレードの感触が忘れられなくて。あんなに温かくて、力が漲るような感覚……初めてだったから」

「ふふん、勇者の武器だからね。そんな伝説の得物に直接触れたとなれば、興奮が収まらないのも無理はないか」

 

 ヘスティアが少し誇らしげに、しかしどこか嫉妬混じりに割って入った。

 だが、次の瞬間だった。

 

「うわぁっ!? な、なんで!? 魔法を使ってないのに!?」

 

 ベルが驚きの声を上げた。

 何も持っていなかったはずの彼の右手に、いつの間にか、黒い鞘に収まった一振りの小刀が握られていたのだ。

 それは間違いなく、ヘスティアが自らの神聖を削ってベルのために打たせた、彼の分身とも言える『ヘスティア・ナイフ』だった。

 突然の出現に狼狽えるベル。そんな主人の様子をよそに、ナイフの刀身はどこか誇らしげに見えた。それはまるで、自分こそがベルの一番の相棒であり、別の武器にうつつを抜かすなと主張しているかのようでもあった。

 

「おやおや、ナイフくんまで嫉妬しちゃったのかい?」

 

 ヘスティアが笑いかけた、その刹那。

 ベルの手の中で、ヘスティア・ナイフが爆発的な光を放った。

 

「な、なんだ!? ナイフが光りだした!?」

 

 ソラが目を見張る中、光の粒子はベルの腕にまとわりつき、ナイフの形状を急速に再構築していく。

 光が収まったとき、ベルが手にしていたのは、もはや漆黒の小刀ではなかった。

 漆黒の刀身が揺らめくような黒から深い赤のグラデーションを描き、中央には「かまどの火」を象徴するオレンジ色の宝石が、闇の中で怪しくも温かな光を放っている。

 刃の根本にはヘスティアのワンピースを思わせる白いフリルがあしらわれ、黒い刀身との鋭いコントラストを描き出していた。持ち手は使い込まれたような温かみのある黒塗りの木製で、そこにはヘスティアの「青い紐」を模したリボンがキーチェーンとして垂れ下がっている。その先端には、ツインテールと小さな炎の刺繍が施された可愛らしいベルが揺れていた。

 黒を基調とした鋭利な外見ながら、ほんのりとした温かさと優しい光を放つその武器を見て、ソラは叫んだ。

 

「――キーブレード!?」

 

 その驚愕の声と共に、ベルは自らの手に宿った新たな光の重みを、驚愕と共に噛み締めていた。

 

 突如としてベルの手に顕現した見慣れぬ、しかしソラの持つものと同質の波動を放つ鍵の剣。

 その信じられない光景に、部屋にいた一同は揃って息を呑み、目を丸くして硬直した。

 

「べ、ベルくん……ちょっと背中貸して! 今すぐ恩恵(ステイタス)の更新をするよ!」

 

 一番早く我に返ったヘスティアが、弾かれたようにベルへと飛びつき、彼の着ていた上着に勢いよく手を掛けた。

 有無を言わさずシャツを脱がせ、ベルをベッドにうつ伏せにさせる。ヘスティアは指先から神血を垂らし、彼に刻まれた神の文字を急いでなぞり始めた。

 チカチカと淡い光がベルの背中を走り、新たな能力値が浮かび上がってくる。それを凝視していたヘスティアは、少し経つと、突如として喉が裂けんばかりの絶叫を上げた。

 

「うぎゃあああああああああああっ!?」

 

「か、神様!? どうしたんですか!?」

 

 ベルが驚いて振り返ろうとするが、ヘスティアは彼の背中をバンバンと叩きながら叫ぶ。

 

「ス、スキルだよ! ベルくんのスキル欄に、新しく『キーブレード』って発現してる……!」

 

「えっ……!?」

 

 神の口から告げられた事実に、ベルは信じられないといった様子で自らの手にある武器を見つめた。

 その横で、ソラがパァッと顔を輝かせてベルの肩を叩く。

 

「おおっ!ベル! これで俺と同じキーブレード使いってことだろ? 良かったな、ベル!」

 

「あ、ありがとう、ソラ……。でも、まさか本当にスキルにまでなるなんて……」

 

 純粋に喜ぶソラと、未だに事態を呑み込めないベル。

 しかし、背中を見つめ続けるヘスティアの震えは一向に収まる気配がなく、彼女はさらに顔を真っ青にさせながら、まくし立てるように声を張り上げた。

 

「ち、違う! 違うんだよソラくん、ベルくん! ボクが一番驚いてるのはそこじゃないんだ……っ!」

 

「へ?」

 

「神様、他に何が……?」

 

 ソラとベルが不思議そうに首を傾げる中、ヘスティアは震える指でベルの背中を指差し、絞り出すような大声で叫んだ。

 

「ベルくん……君、ランクアップ可能になってる……っ!」

「…………」

「…………」

「…………」

 

 その言葉が部屋に落ちた瞬間。

 空間の音がすべて消え失せたかのような、束の間の沈黙が訪れた。

 

 ランクアップ。それは、冒険者にとって最高の名誉であり、同時に途方もない時間と死線を越えなければ辿り着けない偉業である。

 ベルが冒険者になってから、まだ一ヶ月と少ししか経っていない。常識で考えれば、天地がひっくり返ってもあり得ない事態だった。

 その異常性を誰よりも正確に理解している、サポーターの少女の喉から。

 

「えええええええええええええええええええええええっ!?」

 

 ホームの屋根を吹き飛ばすほどの、リリの鼓膜を劈くような大絶叫が響き渡った。

 

 

 

 

 夜のギルド本部は、普段であれば一日の探索を終えた冒険者たちが換金や報告を済ませ、徐々に静けさを取り戻していく時間帯である。

 しかし、今日のギルドは全く違っていた。広間を埋め尽くす職員と冒険者たちが入り乱れ、怒号にも似た声があちこちで飛び交う未曾有の騒乱状態に陥っていたのだ。

 

「上層の10階層に、階層主クラスの大型モンスターが出現だと!?」

「馬鹿な! 上層にそんな規格外のモンスターが出るわけがないだろう!」

「事実だ! 実際に目撃したパーティーが命からがら逃げ帰ってきたんだ!」

 

 ダンジョンの絶対的な法則を無視した異常事態。上層であるはずの10階層に、絶対に現れるはずのない階層主クラスのモンスターが姿を現したという報告は、ギルド職員たちを大パニックに陥れていた。

 情報を求める冒険者たちと、事態の把握と被害の確認に奔走する職員たちの喧騒の中で、受付嬢のエイナ・チュールもまた、山積みの書類を抱えながら青ざめた顔で立ち尽くしていた。

 

(10階層に、階層主クラスのモンスター……)

 

 彼女の脳裏に真っ先に浮かんだのは、自分が担当しているたった一人の冒険者、ベル・クラネルの顔だった。まだ冒険者になって間もない彼が、以前、イレギュラーで上層へ逃げ出してきたミノタウロスに襲われ、あわや命を落としかけた凄惨な記憶が鮮明にフラッシュバックする。心臓が早鐘のように打ち、血の気が引いていくのを感じた。

 

「……駄目よ、落ち着かないと」

 

 エイナは震える手を強く握り締め、自分に言い聞かせるように小さく呟いた。

 

「ベル君たちはまだ10階層を探索する段階じゃない。いくらなんでも、あの子達が10階層にいるはずがないわ」

 

 そう、彼はまだ初心者だ。無茶はするが、今の彼が10階層という中層一歩手前の危険地帯に足を踏み入れる理由などどこにもない。ベルはきっと、安全な浅い階層で切り上げるか、すでに地上へ帰還しているはずだ。

 エイナは荒くなる呼吸をゆっくりと整え、必死に自分自身を納得させる。今はギルド職員として、この未曾有の事態に対処し、他の冒険者たちの安全を確保することが最優先だ。

 

「……大丈夫。ベル君は無事…」

 

 最後にもう一度、祈るようにそう呟くと、エイナは乱れた眼鏡の位置を直し、気丈に顔を上げて再び騒乱の渦中へと飛び込んでいった。

 エイナが再び騒乱の渦中へと飛び込んで対応に追われていた、まさにその時のことだった。

 

「エイナさん! 遅い時間にすみません!」

 

 ギルドの入り口から、聞き慣れた少年の声が響いた。エイナが驚いて振り返ると、そこには自分が何よりも心配していた担当冒険者、ベルの姿があった。その隣には、彼と行動を共にしている少年ソラと、小柄なサポーターの姿もある。

 

「ベル君!? 無事だったのね、よかった……! でも、どうしてこんな夜遅くにギルドへ?」

「はい、実は……神様にステイタスを更新していただいて、エイナさんに報告したいことがあって来たんです」

「……報告?」

 

 エイナが不思議そうに首を傾げた、その時だった。

 

「それよりエイナ、なんかギルド中がすっごい騒ぎになってるけど、どうしたんだ?」

 

 ソラが周囲の喧騒を見回しながら不思議そうに尋ねる。エイナはハッと我に返り、深刻な表情で現在の状況を説明し始めた。

 

「実は、上層の10階層に階層主クラスの巨大なモンスターが出現したの。今は被害を最小限に抑えるために、ギルド主導で上級冒険者たちによる緊急の討伐隊を編成しているところなのよ」

「あー、あのハート、いやモンスターのことか。それならもう……」

 

 ソラが事も無げに告げようとした、まさにその矢先だった。

 

「あっ! 君は、さっき10階層にいた……!」

 

 人混みを掻き分けて一人の冒険者が駆け寄ってきた。彼は先ほどエイナたちが対応していた、10階層で巨大モンスターを目撃し、命からがら逃げ帰ってきたというパーティーの一員だった。彼は興奮した様子でソラとベルの肩を叩く。

 

「あの絶望的な状況で、よくあのモンスターから無事に逃げ延びられたな! 君に助けてもらった後、俺たちも必死で走ったんだ。本当によかった、一時はどうなることかと……」

「逃げる? いや、逃げてないよ」

「え?」

「あのモンスターなら俺たちが倒したから、もう討伐隊は組まなくて大丈夫!」

 

 ソラは、まるで今日の夕飯のメニューを答えるかのように、あっさりとそう告げた。

 

(え……?)

 

 エイナの思考が、完全に停止した。駆け寄ってきた冒険者も、間抜けな顔で口を半開きにしている。周囲の喧騒が、嘘のように一瞬だけピタリと止んだ。ギルド内の全員の耳に、ソラの放った爆弾発言が正確に届いてしまったのだ。

 

「……た、倒したぁっ!?」

「上層に出た大型モンスターを、たった数人で!?」

「しかもアイツら、新人冒険者じゃないか!」

 

 次の瞬間、ギルドの天井が吹き飛ぶのではないかというほどの、今日一番の大絶叫と怒号が巻き起こった。ランクアップという大事件の報告に来たはずが、それ以上の超弩級の報告を悪気なく投下してしまったソラたちを前に、エイナはただ頭を抱えてしゃがみ込むことしかできなかった。

 

 ギルド内がさらなる大混乱に陥る中、事態を重く見たベテランのギルドスタッフたちが、血相を変えてソラの周りを取り囲んだ。

 

「おい君! 今、あのモンスターを倒したと言ったか!?」

「詳しい状況を教えろ! 10階層で一体何があったんだ!」

「えっ、ちょ、ちょっと待ってよ!」

 

 矢継ぎ早に問い詰められ、後ずさりするソラ。しかし、問答無用とばかりにスタッフたちは彼の両腕を掴み、そのまま詳細な事情聴取を行うためにギルドの奥の部屋へと強引に連行していった。

 

「べ、ベルー! あとでなー!」

 

 ズルズルと引きずられていくソラの情けない声が、喧騒の中に吸い込まれて消えていく。

 あっという間に取り残されてしまったベルは、その背中をただ瞬きをしながら見送ることしかできなかった。

 

(……ソラ、頑張って…)

 

 心の中でひっそりと手を合わせるベル。その様子を見ていたエイナは、先ほどまでの頭痛を堪えるようにこめかみを押さえた後、深くため息をついて苦笑いを浮かべた。

 

「……ふふっ。相変わらず、君の周りは退屈しないわね。ベル君、一緒に行かなくていいの?」

 

 エイナの問いかけに、ベルは向き直ると、真っ直ぐな瞳で彼女を見つめ返した。

 

「はい。……その前に、エイナさんにどうしても伝えたいことがあるんです」

 

 ベルはそう前置きすると、今までエイナに見せたこともないくらいに、パァッと顔を輝かせた。

 

「エイナさん! 僕、とうとうLv.2になったんです!」

 

 満面の笑みで告げられたその一言は、先ほどのソラの爆弾発言とはまた違うベクトルで、周囲の空気を完全に凍結させた。

 

「……え?」

 

 エイナの隣でその会話を聞いていた同僚の受付嬢、ミィシャ・フロットの腕から、ドサッと大量の書類が床にこぼれ落ちた。

 冒険者になってから、わずか一ヶ月弱。通常であれば年単位、あるいは一生かかっても到達できない神の恩恵の次元上昇。その常識外れの早すぎるランクアップの報告を受け、ギルドの事情をよく知るミィシャは目を限界まで見開いたまま、石像のように固まってしまった。

 

「あ、あの……エイナさん?」

 

 反応のないエイナを不思議に思い、ベルが小首を傾げる。

 しかし、目の前のハーフエルフの受付嬢は、ぴくりとも動かなかった。彼女は「ええ、それは素晴らしいわね」とでも言いそうな、完璧で綺麗な営業スマイルを顔に貼り付けたまま――完全に思考を停止させていたのだ。

 

 周囲の職員たちが巨大モンスターの討伐報告でパニックに陥り、怒号と悲鳴が飛び交うロビーの中心。そこだけがまるで時間が止まったかのように、異様な静寂に包まれていた。

 やがて、彫像と化していたエイナの口元が、ピク、と痙攣するように動いた。

 

「……べ、ベル君。今、なんて言ったのかしら?」

「え? ですから、Lv.2にランクアップしたんです!」

「……嘘、よね? だって君が冒険者になってから、まだ一ヶ月と少ししか経っていないのよ? いくらなんでも、冗談が過ぎるわよ……?」

 

 引きつった笑顔を顔に貼り付けたまま、エイナは必死に現実逃避を試みる。これはきっと、ソラ君の騒動に感化されたベル君のイタズラに違いない。そうであってほしいと、縋るような視線を担当冒険者に向けた。

 

「嘘じゃありませんよ! 今日の夕方に神様にステイタスを更新してもらって、それでエイナさんに一番に報告しようって思って、走ってきたんです!」

 

 しかし、事の重大さに全く気づいていないベルは、嬉しさを隠しきれない無邪気な笑顔で即答した。一点の曇りもない、真実だけを告げる澄んだ真紅の瞳。

 その純粋すぎる表情を見た瞬間。エイナの中で、何かが音を立てて弾け飛んだ。

 

(え、うあ、あ、お、ほえ?)

 

 ギルドがひっくり返るような巨大モンスターの出現騒動。それをあっさりと討伐したという異世界からの少年の爆弾発言。そして極めつけに、担当冒険者による世界最速のランクアップの報告。

 立て続けに襲いかかってきた規格外の情報の波に、ついに優秀な受付嬢の許容量は完全に限界を突破した。

 

「あああああああああああああああっ! もう、なんなのよおおおおっ!」

「エ、エイナさん!?」

 

 両手で頭を抱え、綺麗に整えられたエルフの耳を真っ赤にして叫んだエイナは、もはや職務放棄とばかりにその場にしゃがみ込んでしまった。

 

 限界を突破し、頭を抱えていたエイナだったが、次の瞬間、バネが弾けたかのように受付カウンターの椅子から勢いよく立ち上がった。

 

「一ヶ月弱で、Lv.2〜〜っ!?」

 

 ギルド本部の喧騒を完全にかき消すほどの、大音声の絶叫だった。

 先ほどのソラによる大型モンスター討伐の爆弾発言に続き、普段は冷静沈着で知られるハーフエルフの担当アドバイザーから雷鳴のような叫び声が響き渡る。その異常事態の連続に、ギルド内はもはや収拾がつかないほどのさらなる大混乱に包まれた。

 

「エ、エイナさん……!?」

 

 いつも優しく知的な彼女からは想像もつかないほどの凄まじい剣幕と声量に、目の前にいたベルは思わず顔を引きつらせ、大きくのけぞってしまう。

 異常事態の上に重ねられた、さらなる異常事態の報告。もはや誰一人として状況を正しく処理できなくなったギルド本部は、かつてないほどの阿鼻叫喚の渦へと呑み込まれていくのだった。




ヘスティアナイフ「初めてはディフェンダーに奪われた。だが、一番の相棒の座は渡さん!!」
今後は話が出来たら投稿みたいな感じにしていきます
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