東方帰還録 ~ Reclaiming the Bond ~ 作:地軸
博麗神社に、珍しく来客があった。
賽銭箱の前に立つ少女は、霊夢と同じ巫女装束を身に着けている。
ただし、色も形も、どこか見慣れない。
「こんにちは。博麗神社の巫女さん、ですね」
やけに丁寧な声だった。
霊夢は箒を止め、相手を一度だけ眺める。
「そうだけど。あんたは?」
「東風谷早苗と申します。守矢神社の巫女です」
聞いたことのない神社だ。
それなのに、名乗り方には妙な自信があった。
霊夢が次の言葉を探すより先に、早苗は続ける。
「率直に言いますね。この神社――
信仰、ほとんど集まっていませんよね?」
思ったよりも、直球だった。
霊夢は肩をすくめる。
「まあ、そうね」
事実だ。
隠す気も、誤魔化す気もない。
そのやり取りを、縁側から凪が見ていた。
湯呑みに伸ばしかけた指が、ほんの一瞬だけ止まる。
(――いつからだ)
(いつから、日本の神は、
八百万の信仰を捨てて、
他の神を喰らう一神教もどきの邪神になってしまったんだ)
言えば、話は壊れる。
これは霊夢の異変でなくなる。
凪は、何も言わなかった。
「ですので」
早苗は続ける。
「博麗神社を、お譲りいただけませんか?」
空気が、わずかに張りつめた。
霊夢は怒らなかった。
ただ、目を細める。
「譲るって……ここ、私の家なんだけど」
「承知しています。ですが、神社としての役割を考えれば――」
霊夢は、早苗の肩越しに縁側を見た。
凪は、視線を逸らしている。
――今、こいつ。
何か、ヤバいこと言いそうだった。
でも、言わなかった。
自分のために。
「却下」
霊夢は、あっさりと言った。
「私は博麗の巫女よ。
この神社は博麗神社。
譲る理由がないわ」
「……そうですか」
早苗は一度、息を整える。
「なら、力で示していただきます」
霊夢は振り返り、にやりと笑った。
「望むところよ」
早苗は一礼し、踵を返す。
「妖怪の山で、お待ちしています」
去っていく背中を見送りながら、霊夢は小さく鼻を鳴らした。
「やれやれ……」
縁側に戻り、凪を見る。
「留守番、お願い……
今、ヤバいこと言いそうだったでしょ」
凪は、何も答えない。
「でも、よく呑み込んだわね」
霊夢は帽子を被り直す。
「――私の異変だもの。
あんたの分まで、とっちめてくるわ」
凪は、静かに頷いた。
「行ってこい」
霊夢は空を見上げる。
風の向きが、確かに変わっていた。
異変が、始まっている。
妖怪の山は、相変わらず高い。
登るたびに思う。
別に距離が長いわけじゃない。
ただ、ここは――歓迎される場所じゃない。
霊夢は草を踏み分けながら、無言で進んでいた。
――あいつら、誰も気にしてない。
凪がいないことを。
当たり前だ。
異変を解決するのは、いつも自分。
それでいい。
……それで、いいはずだ。
木々の間から、軽い足音が聞こえた。
「おや?」
「人間の巫女さん?」
色づいた葉の間から現れたのは、二人の神。
山の神というより、季節の一部みたいな存在。
「通りがかり?」
「それとも、山の用事?」
「異変よ」
霊夢はそれだけ答える。
二人は顔を見合わせて、ふうん、と曖昧に頷いた。
「じゃあ、私たちは関係なさそうだね」
「秋は忙しいし」
「……ええ、そうね」
勘は鳴らない。
殴る理由も、立ち止まる理由もない。
そのまま通り過ぎる。
少し進むと、空気が渦を巻いていた。
少女が一人、風の中心で回っている。
厄神。
見た瞬間、霊夢の中で何かが引っかかった。
敵意じゃない。
悪意でもない。
ただ――近づくな、という警告。
「……」
霊夢は足を止める。
雛は霊夢を見て、ほんの一瞬、目を見開いた。
何かを見たような顔。
見てはいけないものを、見てしまったような。
「あなた……」
言葉は続かなかった。
雛は回り続けながら、霊夢から少し距離を取る。
――今殴る理由は、ない。
それだけは、はっきり分かる。
霊夢は何も言わず、通り過ぎた。
背中に、視線が絡みつく。
厄を吸い取ろうとして、途中で手を止めたような、奇妙な沈黙。
川の音が聞こえてくる。
「お、客?」
河童の少女が顔を出す。
「何か買う?」
「いいえ」
「じゃあ情報だけ。山の上、神様がピリピリしてるよ」
「知ってる」
にとりは肩をすくめた。
「ま、止めないけどね」
次に現れたのは、白狼天狗。
槍を構え、道を塞ぐ。
「ここから先は――」
「通るわ」
「……仕事なので」
短い弾幕。
必要最低限。
勝敗はすぐについた。
椛は一礼し、道を開ける。
そして、風が変わった。
「いやぁ、さすがですね」
射命丸文。
その目は、霊夢だけを見ているようで、
見ていないものも確かに見ている。
「今日は一人ですか?」
「……何が言いたいの」
「いえ、別に」
でも、空気が張りつめる。
ここから先は、遊びじゃない。
霊夢は符を構えた。
――勘が、はっきりと鳴っている。
風が走った。
「――では、通行確認といきましょうか」
射命丸文は、軽い調子で符を構える。
いつもの笑顔。いつもの声。
けれど、その距離感は正確だった。
「邪魔するなら、どきなさい」
「ええ。天狗として、そこは省けませんので」
最初の弾幕。
風は鋭く、しかし深追いしない。
霊夢は結界を展開し、一歩踏み込む。
――速い。
だが、知っている速さだ。
山の天狗の、仕事としての速さ。
「今日は……静かですね」
文が言う。
その視線は、霊夢の背後を一瞬だけなぞった。
確認。
それ以上でも、それ以下でもない。
「余計なものが、ないだけよ」
「なるほど」
納得するのが早い。
文は弾幕を重ねながら、霊夢の動きを測る。
勘。反応。迷い。
――揺れていない。
それが、文にとっての結論だった。
「では、これ以上は不要ですね」
風が緩む。
「……退くの?」
「ええ。止める理由が見当たりません」
文は符を下ろし、肩をすくめる。
「今日は“博麗の巫女”の記事で十分です」
「勝手に書かないで」
「そこは、いつも通りで」
笑うが、深入りはしない。
文は一歩下がり、道を空けた。
「山の上は、少し荒れています」
「知ってる」
「でしょうね」
それ以上、何も言わない。
風に乗り、文の姿は消えた。
残された空気は、妙に澄んでいる。
霊夢は、深く息を吐いた。
――問題ない。
今は、それでいい。
彼女は再び、山を登り始めた。
山の風が、強く吹き抜けた。
岩場に立つ巫女は、霊夢を見て微笑んだ。
逃げ腰ではない。
待っていた顔だ。
「やっぱり来ましたね、博麗霊夢さん」
「来るに決まってるでしょ」
霊夢は足を止める。
「話は終わったはずよ」
「ええ。でも――」
早苗は符を取り出した。
「私は、納得していません」
その声に、迷いはなかった。
誰かに言わされている調子でもない。
「信仰が足りない神社が、このまま在り続けるのはおかしい。
幻想郷の仕組みとして、歪んでいます」
「ずいぶん上から言うのね」
「事実ですから」
早苗は一歩、前に出る。
人間の距離じゃない。
だが、神の距離でもない。
「だから、ここで止めます」
弾幕が放たれた。
風を切る軌道。
殺意はない。
だが、譲る気もない。
霊夢は結界を展開し、正面から受けた。
「……本気ね」
「ええ。神社のためですから」
弾幕が交錯する。
速い。
強い。
だが――
「勘違いしないで」
霊夢の声が、弾幕の隙間を割った。
「それ、あんたの判断でしょう」
一瞬、早苗の動きが止まる。
「……はい」
否定しない。
だからこそ、霊夢は理解した。
この子は逃げない。
神の名を盾にしていない。
「なら、ここまでよ」
霊夢は符を下ろした。
早苗が目を見開く。
「え?」
「勝ち負けの話じゃない」
一歩、踏み出す。
「責任を取れる相手を出しなさい」
風が、止まった。
「神社をどうするか。
信仰をどう集めるか。
幻想郷で、どの神が残るか」
霊夢は、早苗を真っ直ぐに見る。
「それは――あんたじゃない」
早苗は、数秒、黙っていた。
そして、苦笑する。
「……さすがですね」
符を収め、一歩退いた。
「確かに。
ここから先は、私の仕事じゃありません」
山の奥。
雲の向こう。
そこにいる存在を、霊夢も、早苗も知っている。
「案内します」
早苗はそう言って、進路を空けた。
霊夢は一度だけ、早苗を見た。
敵ではない。
だが、同じ場所にも立っていない。
「行くわよ」
「ええ」
神のいる場所へ。
責任者のいる場所へ。