東方帰還録 ~ Reclaiming the Bond ~ 作:地軸
山の上は、風が違った。
冷たいというより、澄み切っている。
空気そのものが、選別されている感覚。
「来たわね、博麗霊夢」
声は、前からではなく、空間そのものから降ってきた。
霊夢は足を止める。
「ええ。呼ばれた気がしたから」
「でしょうね」
くつくつと、楽しげな笑い声。
「うちの巫女が、随分と派手にやったみたいだから」
早苗が一歩前に出かけて、神奈子に視線で制される。
それだけで十分だった。
「弁解はいらないわ。
あの子が納得してやったことだもの」
霊夢は黙っている。
その沈黙も、すでに織り込み済みだと分かる。
「それより――」
神奈子の視線が、霊夢を通り越す。
博麗神社のある方角へ。
「……ずいぶんと、“呑み込んだ”ものがいる」
霊夢の眉が、わずかに動いた。
「私じゃないわ」
即答だった。
迷いも、探りもない。
神奈子は、否定しない。
肯定もしない。
「ええ。わかってる」
ただ、それだけ言う。
風が一段、強くなった。
「言えば、話は壊れていた」
「……」
「これは、博麗の異変じゃなくなっていた」
霊夢は符を指で弄びながら、静かに言う。
「だから、言わせなかった」
「でしょうね」
神奈子は満足そうに頷く。
「あなたが背負った。
――それで、世界はまだ形を保っている」
一歩、前に出る。
圧はある。
だが、それは威圧ではない。
確認だ。
「博麗霊夢」
「あなたは――
博麗の巫女で在り続ける覚悟がある?」
霊夢は、即答した。
「あるわ」
理由は言わない。
言う必要がないからだ。
神奈子は、目を細めた。
「なら、話は早い」
空が、軋む。
「神社は奪わない。
信仰も喰わない」
「ただし」
笑みが消える。
「力関係だけは、はっきりさせましょう」
神の領域が、展開される。
「――博麗の巫女が、何なのか」
弾幕が、山を覆った。
「身をもって、示しなさい」
勝敗を決し神奈子の気配が、風とともに遠ざかっていく。
空は静まり返っているのに、
霊夢はまだ符を下ろさなかった。
――終わってない。
「あーあ」
足元の影が、ぬるりと揺れた。
「そこまで察されちゃあ、
もう黙ってる意味もないよね」
影が立ち上がる。
小さな体。
幼い見た目とは裏腹に、
地の底みたいに古い神気。
霊夢は振り返らない。
「最初から、いたでしょ」
「うん」
諏訪子はあっさり頷いた。
「最初から全部、見てた」
霊夢は、ようやく振り返る。
「……表に出てこなかった理由は?」
「出る必要、なかったから」
軽い口調。
だが、曖昧さはない。
「神社を奪う話も」
「信仰を集める話も」
「あの子が先走ったのも」
指を折りながら、数える。
「全部、“まだ壊れてなかった”」
霊夢の目が細くなる。
「……壊れてたら?」
「止めてた」
即答だった。
冗談めかした声なのに、
その言葉だけは、冗談にならない。
「だってさ」
諏訪子は肩をすくめる。
「博麗が壊れると、
幻想郷は“別の形”になるから」
「それは――」
「うん。たぶん、もっとひどい」
霊夢は口を閉ざす。
諏訪子は、霊夢の背後――
博麗神社のある方角をちらりと見た。
「言わなかったね」
誰に向けた言葉かは、言わない。
「正解だよ」
霊夢は、符を構え直す。
「……あんたも、やるの?」
「やるよ」
諏訪子は笑った。
「確認しとかないと」
「何を?」
「あなたが」
一歩、近づく。
「“選ばなかった側”で、
ちゃんと立っていられるかどうか」
霊夢の表情が、ほんの一瞬だけ強張る。
――そこを突くか。
「私は、博麗の巫女よ」
「知ってる」
諏訪子は、楽しそうに頷く。
「だから聞いてる」
「もし」
一拍。
「その肩書きが、
あなた自身を縛り潰す日が来たら」
「――どうする?」
霊夢は、答えない。
代わりに、結界を展開した。
「弾幕で語る趣味は、ないんだけどね」
諏訪子は、跳ねるように後退する。
「でもまあ」
地面が、ざわりと動いた。
「博麗の巫女は、
こうやって答えるんだよね」
古い神の力が、解き放たれる。
「来なよ」
諏訪子は笑う。
「壊れなかった世界の、
その先を見せてみな」
弾幕が、地と空を塗り替えた。
博麗神社は、いつも通りだった。
酒の匂い。
勝手に増えていく料理。
誰が呼んだわけでもないのに、集まってくる顔ぶれ。
異変の後とは思えないほど、騒がしい。
縁側に座ったまま、凪はその光景を眺めていた。
――ああ。
勝ったんだな。
そう思った理由を、言葉にする気はない。
山で何があったのかは知らない。
誰からも説明は受けていない。
それでも、霊夢がそこにいる。
それだけで、十分だった。
「留守番、ご苦労さん」
いつの間にか、隣に霊夢が座っていた。
いつもの声。
少しだけ、疲れた顔。
「……おかえり」
「うん。ただいま」
それ以上、会話は続かない。
聞かない。
話さない。
今は、それでいい。
酒瓶が置かれる音がして、凪は顔を上げた。
「いやあ、盛大だねえ」
八坂神奈子が、杯を掲げている。
機嫌は良さそうだが、浮かれてはいない。
諏訪子はその隣で、足をぶらぶらさせていた。
周囲を見渡す視線が、ふと、こちらをかすめる。
凪は反射的に視線を逸らした。
言葉はない。
だが、視線だけで十分だった。
――見られている。
そして、何も言われない。
霊夢が、小さく息を吐いた。
「山、どうだった?」
何気ない問いかけ。
返事まで、ほんの一拍。
「……いつも通りよ」
霊夢はそう言って、杯を傾ける。
いつも通り。
その言葉の裏にあるものを、
凪は、考えないことにした。
神奈子が、霊夢の方をちらりと見る。
「博麗」
「何よ」
「面倒な役目、背負ってるわね」
それだけ言って、酒を飲む。
霊夢は肩をすくめた。
「今に始まったことじゃないわ」
諏訪子が、くすっと笑う。
「ほんとだね」
また一瞬、こちらを見る。
それでも、何も言わない。
――言わなかった。
それが、判断なのだと分かる。
凪は、ゆっくりと息を吐いた。
世界は、まだ壊れていない。
少なくとも、今日のところは。
霊夢は、博麗神社にいて。
自分は、その縁側にいる。
騒がしい宴会の音が、夜に溶けていく。
凪は、静かに目を閉じた。
ああ。
――博麗霊夢のまま、帰ってきた。