東方帰還録 ~ Reclaiming the Bond ~ 作:地軸
妖怪の山の自室で、姫海棠はたては原稿用紙を前に唸っていた。
「……いや、これは絶対ネタになるでしょ」
文が妙に触れず、神様たちが妙に静かで、
博麗霊夢の隣にいる――あの人間。
噂だけは山を巡っているのに、肝心なところが、どこか欠けている。
――なら。
「撮るしかないじゃん」
はたては軽い気持ちでカメラを構えた。
距離は関係ない。
場所も関係ない。
ただ、被写体を思い浮かべ、シャッターを切る。
瞬間。
――ぐにゃり、と。
視界が歪んだ。
「……え?」
現像された写真には、確かに二人が写っていた。
博麗霊夢と、凪。
だが――
背景が、おかしい。
神社でも、幻想郷でもない。
黒く濁った大地。
枯れ落ちた花。
湿り気を帯びた空気。
「……なに、これ」
次の瞬間。
じゅっ、と音がした。
「っ!? あっ、あっつ――!?」
写真を持っていた右手から、白い煙が上がる。
皮膚が、腐るように変色していく。
汗が噴き出し、膝が笑う。
呼吸が重い。
体が、急激に疲弊していく。
「や、やば……これ……」
それは呪いじゃない。
攻撃でもない。
穢れだ。
黄泉の穢れが、紙を媒体に溢れ出している。
「だ、誰か……!」
はたてが床に崩れ落ちた、そのとき。
空間が、静かに裂けた。
「――いけませんわ」
柔らかく、しかし断固とした声。
紫が、そこに立っていた。
「イザナミ様。
それ以上ここで力を振るえば、凪君の心遣いも無駄になってしまいます」
空気が、ひとつ沈む。
写真から噴き出していた穢れが、ぴたりと止まった。
重苦しい沈黙。
やがて、紫がはたてを一瞥する。
「……知らなかった、では済まない領域でしたわね」
はたては答えられない。
手は震え、息も荒い。
「ですが」
紫は扇子を閉じる。
「今回は、ここまでです」
そう言って、写真を境界の向こうへ消した。
――八雲紫よ。
汝が止めた神罰の不足分を、
凪に補填しろ。
それだけ。
短く、冷たく。
まるで短文の脅迫文のように。
紫は扇子を閉じ、ゆっくりと息を吐く。
手紙の端から、微かな穢れの気配が漏れ出している。
多くを語らぬその言葉に、黄泉の底知れぬ恐ろしさが染みついていた。
これは、脅しではない。
博麗神社の縁側は、穏やかな午後の光に包まれていた。
宴会の余韻がまだ残る境内で、霊夢はいつものように箒を振るい、
凪は湯呑みを手に、静かに座っている。
その空気が、ふっと揺れた。
「あら、凪くん。少しお話があるわ」
紫が隙間から現れ、縁側に腰を下ろす。
扇子を、優雅に広げて。
凪は湯呑みを置き、彼女を見る。
かつて話した時のように、少しだけ警戒しながらも、
その穏やかな表情に肩の力を抜いた。
「紫さん、どうしたんですか?
また何か……異変?」
「いいえ。ただの提案よ。
あなたに、少し贔屓したくなっただけ」
紫は懐から古めかしい紙を取り出し、ちらりと見せてから、またしまう。
凪の視線が、そこに留まる。
微かな穢れの気配に、胸がざわついた。
だが、紫は詳細を語らない。
ただ、微笑む。
「あなたが霊夢を守る心遣い、素敵だわ。
だから、補填として……月でデートなんて、どう?」
凪の息が、一瞬止まる。
月。
脳裏をよぎるのは、儚月抄の記憶。
月の民、永琳、そして――霊夢。
(……ああ、やばいな)
視線を落とし、息を吐く。
霊夢の強さを信じるため。
そして、黄泉の影を遠ざけるため。
「……わかりました。行きましょう」
即答だった。
紫の目が、わずかに輝く。
「ふふ。いい返事ね。
じゃあ、準備は私がするわ」
こうして、月への旅が始まる。
博麗神社から、永遠亭を経て、月の都へ。
異変ではない。
だが、決して無関係でもない渦へと、
凪と霊夢は足を踏み入れていく。