東方帰還録 ~ Reclaiming the Bond ~ 作:地軸
霊夢は寝台の上で起き上がり、胸の奥のざわつきに眉をひそめた。
――なにか、おかしい。
身体は軽い。
頭も冴えている。
永琳の治療は完璧で、心のざらつきさえ消えていた。
けれど。
(……あの島でのこと。ほとんど覚えてない……)
記憶が砂のように指の間から抜け落ちていく。
陰陽玉を握った瞬間だけ、鮮明に“私”が戻った。
その前も後も、霊夢の意識は曇ったガラス越しのようにぼやけている。
(あれ……本当に、私だったの?)
疑問が形を持ちはじめたとき――
空気がふっと揺れた。
「気づいたのね、霊夢」
声の方を見ると、紫がふわりと座布団の上に腰を下ろしていた。
まるで最初からそこにいたように、自然に。
「……紫。何しに来たのよ」
「あら。説明に来たに決まってるでしょう?」
扇子で唇を隠しながら、紫は霊夢をじっと見つめた。
その視線は、妙に真剣だった。
「私視点からになるけど、貴方これ覚えているかしら?」
紫が広げた隙間から砕けた石ころ、ほぼ砂のようになっている瓶詰を取り出した。
瓶には札が貼ってあり、厳重な封印がされているが濃厚な呪いが未だ小石から砂から瓶から立ち上がっている。
「それは、確か私が封印しようとした石ころね、砕けてるけど、幻想郷に流れてきたそれを封印しようとして…」
「そうそれで、霊夢貴方失敗したのよ」
「失敗したからって、あんなこと、正直あまり覚えてないけどあんな風になるなんて、何なのよその石ころ」
「私……あのとき、なにをされてたの?
なにをされて、なにが起きて……どうして、こんなに何も覚えてないの?」
霊夢は言葉にしながら、自分で震えに気づく。
霊夢の声が震えるのは珍しい。
それくらい、その疑問は“核心”だった。
紫は、しばらく沈黙したのち――
空気がふっと揺れ、霊夢の視界が歪む。
紫の扇子がひと振りされると、目の前に淡い光景が現れた――島の浜辺。
そこには、動けずに横たわる自分の姿があった。
膿と泥にまみれ、骨の位置が歪んだまま、蛆が肌を這う。
鏡もない島で、夜も暗く、自分では気づけなかった――今、はっきりと映し出される自分の姿に、霊夢の胸がぎゅっと締め付けられる。
その横では、少年が黙々と手当てをしている。
膿を拭き取り、包帯を巻き、骨を固定し、口移しで食料を与える――。
汚れきった自分の体に嫌悪を感じる様子はなく、ただひたむきに尽くすその姿だけが、そこにあった。
霊夢の指先が震える。
(……私……こんな姿だったの……?)
砂や膿、蛆にまみれた肌――自分の顔がどれほど酷い状態だったのか、島では鏡もなく、暗闇に紛れて気づくことすらできなかった。
視界の奥で、少年の必死の手が動く。
その目は、恐怖も嫌悪も混じらず、ただ自分を守ろうとする意思だけで光っている。
霊夢は膝を抱え、思わず顔を背ける。
(……あんな姿、誰にも見せたくなかった……でも……)
少年は、私が死んでいるかもしれないという絶望の中で、決して見捨てなかった――全身血まみれになりながらも、私を守り続けたのだ。
ふと、紫の声が背後から届く。
「見せてあげたわ、霊夢。あなたがどれだけ酷い状態だったのか、そして、どれだけ助けてもらったのか――ちゃんと、自覚するために」
震える膝を抱えながらも、霊夢の胸にじわりと熱いものがこみ上げる。
羞恥と感謝、混じり合った複雑な感情が、静かに、しかし確かに胸を満たした。
「……っ……こんな……酷いのに……」
声にならず、ただ漏れた音は、涙にも似た震えを伴っていた。
紫はただ微笑み、扇子を軽く閉じる。
「これが現実よ。逃げずに、直視できてえらいわ、霊夢、」
霊夢は俯き、膝を抱えたまま、過去の自分と、そして少年の必死の手当ての光景を、静かに受け止めるしかなかった。
「霊夢。あなたは……一度、死んでいたのよ」
部屋の空気が凍った。
霊夢は息を止めたように動きを止める。
「……は?」
「比喩じゃないわ。
本当に“生命活動が途切れていた”の。
あそこは幻想郷でもない本物の神話の世界の黄泉の国、生命を終えたものが行きつく、死者の世界」
紫の声は静かだった。
優しいけれど、絶対に誤魔化していない声。
永琳の治療が完璧だった理由も。
陰陽玉を手にした瞬間だけ霊夢の人格が戻った理由も。
何も感じず、何も考えられなかった数日の理由も。
――全部、線がつながった。
霊夢の喉が乾いたように痛む。
「……死んでた……? 私が?なんで?」
「ええ。でも大丈夫よ、死は覆されたからね、とりあえずだけど」
紫の言葉は優しいけれど、霊夢の心の奥は嵐だった。
「……そう。
じゃあ、私……あんな状態で、ずっと……?」
「凪という子が必死に支えてくれたわ。
あなたがもう一度自分で帰ってくるまで」
霊夢は膝の上で握った拳を震わせた。
「……最悪。
あんなの、見られたくなかった……」
怒りでも、悲しみでも、悔しさでもない。
全部が混じって、涙にならない感情。
紫は黙って寄り添うようにそこにいる。
「で? 私が“死んでた”って話、あんたの説明はまだ終わってないんでしょ」
紫は扇子で口元を隠しながら、どこか愉しげに目を細めた。
「ええ。
あなたが帰ってこれた理由……それが、少し“神話めいている”のよ」
霊夢は眉をひそめる。
「神話?」
「黄泉がえり。この石ねぇ、千引石の欠片よ。日本最古の神の呪いの一欠片、いくら霊夢でもひとたまりもないわ。
蓬莱人ですら命を奪える可能性がある
――薬の力で持ちこたえるのか、殺し続けるのかの差はあれど、その恐ろしさは計り知れない。」
霊夢は思い出す。巫女だから、当然知っている。
死んで腐ったイザナミの姿を見てイザナギが逃げた――
愛しい我が夫よ。あなたが治めるこの現世の人々を、私は毎日千人、命を奪い尽くしましょう
この呪言が発されたと神々を別った間にあった石、千引石、その欠片。
あの救いのない神話。
「……嫌な例えね」
紫は笑った。
「でも今回は逆よ。
彼、あなたを見捨てなかったわ」
霊夢の指先が微かに震えた。
死んで、腐って、膿と蛆まみれで動けなかった、自分を――
あの少年は、ずっと看ていた。
「……っ」
声にならない音が漏れたのを、紫は見逃さない。
「だから、向こうの黄泉の方々から正式にお手紙が来たの。
“これは正統な黄泉がえりである”って」
紫が懐から紙を取り出す。
古代神道の文書のように見えるそれには、荒々しい筆致でこう書かれていた。
――死を覆し、道を戻りし者よ。
黄泉の理に逆らうは人にあらず。
この者は妻を捨てず、死の穢を恐れず、連れ戻した。
ゆえに黄泉がえり、ここに正当と認む――
霊夢は言葉を失った。
紫は楽しそうに目を細める。
「あちらのイザナミ様、本当にご機嫌だったわ。
“千年ぶりに意地を張らない夫婦愛を見た”って」
「……夫婦って誰と誰よ」
霊夢は冷たい声で言った。
でも耳が赤いのを紫は見ている。
紫は扇子を唇に当て、わざと“曖昧に”言う。
「さぁ?
黄泉がえりというのはね……
本来、“夫が妻を連れ戻す”構造で完成するものなのよ」
「ちょっと待ちなさい。じゃあ私は――」
「別に契約書があるわけじゃないの。
ただ、“そういう扱い”を受けるかもしれないし、受けないかもしれない」
紫は曖昧な笑みを浮かべる。
「でもまあ……
冗談半分、本気半分で言うけれどね」
紫は霊夢の耳元に顔を寄せ、囁く。
「――霊夢、あなた。
彼と結婚しておかないと、また死ぬかもしれないわよ?」
空気がぴん、と張りつめた。
霊夢は反射的に紫を睨みつける。
「ふざけたこと言わないで。
そんな子と結婚なんて――」
そこまで言って、霊夢は言葉を飲んだ。
紫は穏やかに微笑んだまま。
「でも、あなたが戻ってきたのは事実。
彼が見捨てなかったのも事実。
死の境界を踏み越えたのも事実。
……さて、これを“どう解釈するか”はあなた次第よ」
霊夢は俯き、口を閉じた。
怒り、困惑、羞恥、恐怖。
そのすべてが胸の奥で渦巻いている。
紫は立ち上がる。
「今はゆっくりお休みなさい。
彼には後で会いに行くでしょ?
黄泉がえりの妻さん」
「っっっ!! 違うって言ってるでしょうが!!」
紫は満足そうに笑って、境界を裂いて消えた。
霊夢は顔を覆う。
「……馬鹿みたい……本当に……
でも……どうして……あんな……」
霊夢自身も抑えきれないほど自然に、
少年の顔が脳裏に浮かんでしまっていた。
神話モチーフネタ大好きです。
一話の時点でよもつへぐいを無意識で避けていた描写に気づいた人は神話マニア。