東方帰還録 ~ Reclaiming the Bond ~   作:地軸

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第二十話 忘れていたもの

 薬の匂いが、静かに満ちている。

 夜は深く、月はまだ高い。

 

「――で?」

 

 永琳は薬棚から目を離さず、淡々と問う。

 

「生きてるのよ」

 

 紫は縁側に腰を下ろし、楽しそうでも困っているでもない声で答えた。

 

「それは見れば分かるわ」

 

「でしょう?

 でも“生きてるだけ”じゃ説明がつかない」

 

 永琳の手が止まる。

 

「……どのくらい?」

 

「あなたの感覚で言うなら、

 普通なら三回は死んでる」

 

 永琳は、ゆっくりと振り返った。

 

「穢れ?」

 

「ええ。

 しかも薄まってない。

 “落ちた”だけ」

 

 その言葉に、永琳は小さく息を吐く。

 

「落ちた穢れは?」

 

「保管してるわ。

 ……正確には、勝手に“まとまろうとしてる”」

 

 永琳は眉をひそめる。

 

「最悪ね」

 

 即答だった。

 

「でしょう?」

 

 紫は軽く肩をすくめる。

 

「……イザナギが禊で穢れを落として、

 そこから神々が生まれたでしょう」

 

 永琳は何も言わない。

 

「穢れってね、

 落ちた時点で“何かになる”ものなのよ」

 

 紫の声音には、感情がない。

 ただの事実確認だった。

 

「つまり」

 

 永琳は静かに続ける。

 

「消えたわけでも、無害になったわけでもない。

 行き場を失っただけ」

 

「ええ」

 

 紫は頷く。

 

「問題は“なるかどうか”じゃないわ」

 

 境界の向こうを、ちらりと見る。

 

「何になるか、ね」

 

 永琳は視線を伏せた。

 

「……それで、本人は?」

 

「妙に静か」

 

「静かな患者ほど厄介よ」

 

「分かってる」

 

 紫は否定しない。

 

「でもね。

 あの子、自分が異物だって自覚してる」

 

「……それは」

 

「幻想郷の“外”に立ってる自覚。

 それも、かなり外側」

 

 永琳はしばらく黙り込む。

 

「その視点を持った人間は、

 普通、世界を壊すわ」

 

「だから壊さないようにしてる」

 

「……」

 

「自分が壊せるって分かってるから、

 動かない。

 動くなら、必ず止められる位置に立つ」

 

 永琳は、ゆっくりと息を吐いた。

 

「勇敢なのか、臆病なのか……」

 

「両方よ」

 

 紫は笑わない。

 

「問題は?」

 

「博麗の巫女」

 

 永琳は即座に理解した。

 

「彼女を基準に世界を見ている?」

 

「ええ。

 正確には――」

 

 紫は少しだけ声を落とす。

 

「彼女が博麗の巫女でいられる限り、

 この世界は続くって理解してる」

 

「……危険ね」

 

「ええ。

 でも同時に」

 

 紫は、静かに続けた。

 

「霊夢を切る選択肢を、

 あの子は最初から持ってない」

 

 永琳は薬瓶を置く。

 

「つまり?」

 

「利害は一致してる」

 

 紫は境界の向こうを見る。

 

「博麗霊夢を博麗の巫女でいさせる。

 その一点だけ」

 

「もし、それが崩れたら?」

 

「その時点で幻想郷は、もう危機よ」

 

 迷いのない声音だった。

 

「だから今は?」

 

「放っておく」

 

「随分と思い切った判断ね」

 

「ええ」

 

 紫は、ようやく少しだけ微笑んだ。

 

「でもね、永琳。

 幻想郷は全てを受け入れるのよ。

それはそれは残酷な話という事なのよ。」

 

 永琳は目を閉じる。

 

「……厄介な患者ね」

 

「でしょう?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜はまだ、静かだった。

 

紙の擦れる音だけが、静かに続いていた。

 凪は寝台に腰掛けたまま、天井を見ている。

 

「……動かないで」

 

 永琳の声は淡々としていて、感情が混じらない。

 指先が胸元に触れ、薬の香りがふっと広がる。

 

「痛くはないですね」

 

「ええ。

 でも気分は悪いでしょう」

 

「まぁ……正直、落ち着かないです」

 

 それには返事がなかった。

 代わりに、しばらく沈黙。

 

 ――長い。

 

 凪がそっと視線を動かすと、永琳は真剣な顔で診察を続けている。

 眉が、ほんのわずかに寄っていた。

 

「……穢れの量は、かなり落ち着いたわね」

 

「そう、ですか」

 

「ええ。

 島から戻った直後と比べれば、別人みたい」

 

 言葉は軽いが、視線は鋭い。

 

「正直に言うと、最初はね」

 

 永琳は器具を置き、記録に何かを書き込む。

 

「あなたは“もともと穢れを受け入れる幅が広い人間”なんだと思っていた」

 

「……ああ」

 

 凪は苦笑する。

 

「そう言われましたね。

 人よりちょっと……いや、かなり」

 

「ええ。

 でも」

 

 その“でも”が、妙に重い。

 

「今は、違う」

 

 凪は黙った。

 

「器が広い、というより――」

 

 永琳は言葉を探す。

 

「耐性が形成されている」

 

「……耐性」

 

「短期間で、致死量の穢れに晒された結果、

 生き残るために体が適応した。

 理屈としては、それで説明がつく」

 

 凪は天井を見たまま、ぽつりと呟く。

 

「……つまり、慣れたってことですか」

 

「言い方は悪いけど、そうね」

 

 永琳は否定しない。

 

「ただ」

 

 少し、声が低くなる。

 

「普通は、そこまで“慣れる前に死ぬ”」

 

 凪の喉が鳴る。

 

「……ですよね」

 

「ええ」

 

 永琳は、じっと凪を見る。

 

「博麗の巫女は、例外よ」

 

 凪は少しだけ視線を動かした。

 

「一度、死んでいる。

 黄泉を挟んで戻ってきた。

 だから耐性が跳ね上がっている」

 

「……」

 

「あなたは」

 

 一拍。

 

「死んでいないのに、そこに近づいている」

 

 部屋が静まり返る。

 

 凪は、しばらく考えてから言った。

 

「……変、ですよね」

 

「変よ」

 

 即答だった。

 

「医学的には説明できる。

 でも――」

 

 永琳は小さく息を吐く。

 

「気持ち悪い治り方ね」

 

 凪は、なぜか少し安心して笑った。

 

「……よかった。

 ちゃんと変なんですね」

 

「ええ」

 

 永琳は視線を外す。

 

「だから断定はしない。

 今のところは“極端な後天的適応”。

 それ以上でも、それ以下でもない」

 

「それ以上……だったら?」

 

 永琳は答えない。

 

 代わりに、診察を終える音がした。

 

「今日はここまで。

 無茶はしないこと」

 

「はい」

 

 寝台から降りるとき、永琳が一言だけ付け足す。

 

「……生きている理由を、

 無理に探さなくていいわ」

 

 凪は、少し驚いて振り返った。

 

「理由があって生きてる人ばかりじゃない」

 

 永琳はもう、記録に目を落としている。

 

「生きてしまった、という結果だけで十分な場合もある」

 

 凪は、何も言えなかった。

 

 廊下に出ると、胸の奥に残っていた違和感が、

 少しだけ重くなった気がした。

 

 ――それでも。

 

 歩けている。

 息ができている。

 

 だから、今日も生きている。

 

 

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