東方帰還録 ~ Reclaiming the Bond ~ 作:地軸
薬の匂いが、静かに満ちている。
夜は深く、月はまだ高い。
「――で?」
永琳は薬棚から目を離さず、淡々と問う。
「生きてるのよ」
紫は縁側に腰を下ろし、楽しそうでも困っているでもない声で答えた。
「それは見れば分かるわ」
「でしょう?
でも“生きてるだけ”じゃ説明がつかない」
永琳の手が止まる。
「……どのくらい?」
「あなたの感覚で言うなら、
普通なら三回は死んでる」
永琳は、ゆっくりと振り返った。
「穢れ?」
「ええ。
しかも薄まってない。
“落ちた”だけ」
その言葉に、永琳は小さく息を吐く。
「落ちた穢れは?」
「保管してるわ。
……正確には、勝手に“まとまろうとしてる”」
永琳は眉をひそめる。
「最悪ね」
即答だった。
「でしょう?」
紫は軽く肩をすくめる。
「……イザナギが禊で穢れを落として、
そこから神々が生まれたでしょう」
永琳は何も言わない。
「穢れってね、
落ちた時点で“何かになる”ものなのよ」
紫の声音には、感情がない。
ただの事実確認だった。
「つまり」
永琳は静かに続ける。
「消えたわけでも、無害になったわけでもない。
行き場を失っただけ」
「ええ」
紫は頷く。
「問題は“なるかどうか”じゃないわ」
境界の向こうを、ちらりと見る。
「何になるか、ね」
永琳は視線を伏せた。
「……それで、本人は?」
「妙に静か」
「静かな患者ほど厄介よ」
「分かってる」
紫は否定しない。
「でもね。
あの子、自分が異物だって自覚してる」
「……それは」
「幻想郷の“外”に立ってる自覚。
それも、かなり外側」
永琳はしばらく黙り込む。
「その視点を持った人間は、
普通、世界を壊すわ」
「だから壊さないようにしてる」
「……」
「自分が壊せるって分かってるから、
動かない。
動くなら、必ず止められる位置に立つ」
永琳は、ゆっくりと息を吐いた。
「勇敢なのか、臆病なのか……」
「両方よ」
紫は笑わない。
「問題は?」
「博麗の巫女」
永琳は即座に理解した。
「彼女を基準に世界を見ている?」
「ええ。
正確には――」
紫は少しだけ声を落とす。
「彼女が博麗の巫女でいられる限り、
この世界は続くって理解してる」
「……危険ね」
「ええ。
でも同時に」
紫は、静かに続けた。
「霊夢を切る選択肢を、
あの子は最初から持ってない」
永琳は薬瓶を置く。
「つまり?」
「利害は一致してる」
紫は境界の向こうを見る。
「博麗霊夢を博麗の巫女でいさせる。
その一点だけ」
「もし、それが崩れたら?」
「その時点で幻想郷は、もう危機よ」
迷いのない声音だった。
「だから今は?」
「放っておく」
「随分と思い切った判断ね」
「ええ」
紫は、ようやく少しだけ微笑んだ。
「でもね、永琳。
幻想郷は全てを受け入れるのよ。
それはそれは残酷な話という事なのよ。」
永琳は目を閉じる。
「……厄介な患者ね」
「でしょう?」
夜はまだ、静かだった。
紙の擦れる音だけが、静かに続いていた。
凪は寝台に腰掛けたまま、天井を見ている。
「……動かないで」
永琳の声は淡々としていて、感情が混じらない。
指先が胸元に触れ、薬の香りがふっと広がる。
「痛くはないですね」
「ええ。
でも気分は悪いでしょう」
「まぁ……正直、落ち着かないです」
それには返事がなかった。
代わりに、しばらく沈黙。
――長い。
凪がそっと視線を動かすと、永琳は真剣な顔で診察を続けている。
眉が、ほんのわずかに寄っていた。
「……穢れの量は、かなり落ち着いたわね」
「そう、ですか」
「ええ。
島から戻った直後と比べれば、別人みたい」
言葉は軽いが、視線は鋭い。
「正直に言うと、最初はね」
永琳は器具を置き、記録に何かを書き込む。
「あなたは“もともと穢れを受け入れる幅が広い人間”なんだと思っていた」
「……ああ」
凪は苦笑する。
「そう言われましたね。
人よりちょっと……いや、かなり」
「ええ。
でも」
その“でも”が、妙に重い。
「今は、違う」
凪は黙った。
「器が広い、というより――」
永琳は言葉を探す。
「耐性が形成されている」
「……耐性」
「短期間で、致死量の穢れに晒された結果、
生き残るために体が適応した。
理屈としては、それで説明がつく」
凪は天井を見たまま、ぽつりと呟く。
「……つまり、慣れたってことですか」
「言い方は悪いけど、そうね」
永琳は否定しない。
「ただ」
少し、声が低くなる。
「普通は、そこまで“慣れる前に死ぬ”」
凪の喉が鳴る。
「……ですよね」
「ええ」
永琳は、じっと凪を見る。
「博麗の巫女は、例外よ」
凪は少しだけ視線を動かした。
「一度、死んでいる。
黄泉を挟んで戻ってきた。
だから耐性が跳ね上がっている」
「……」
「あなたは」
一拍。
「死んでいないのに、そこに近づいている」
部屋が静まり返る。
凪は、しばらく考えてから言った。
「……変、ですよね」
「変よ」
即答だった。
「医学的には説明できる。
でも――」
永琳は小さく息を吐く。
「気持ち悪い治り方ね」
凪は、なぜか少し安心して笑った。
「……よかった。
ちゃんと変なんですね」
「ええ」
永琳は視線を外す。
「だから断定はしない。
今のところは“極端な後天的適応”。
それ以上でも、それ以下でもない」
「それ以上……だったら?」
永琳は答えない。
代わりに、診察を終える音がした。
「今日はここまで。
無茶はしないこと」
「はい」
寝台から降りるとき、永琳が一言だけ付け足す。
「……生きている理由を、
無理に探さなくていいわ」
凪は、少し驚いて振り返った。
「理由があって生きてる人ばかりじゃない」
永琳はもう、記録に目を落としている。
「生きてしまった、という結果だけで十分な場合もある」
凪は、何も言えなかった。
廊下に出ると、胸の奥に残っていた違和感が、
少しだけ重くなった気がした。
――それでも。
歩けている。
息ができている。
だから、今日も生きている。