東方帰還録 ~ Reclaiming the Bond ~   作:地軸

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第九話 鬼が来りて

夜の博麗神社は、昼とはまるで別の顔をしていた。

 境内に満ちるのは、風が木々を揺らす音と、虫の鳴き声だけ。

 人の気配は薄く、静けさがそのまま形を持ったようだった。

 

 凪は縁側に腰を下ろし、夜空を見上げていた。

 月は澄んでいる。欠けも曇りもなく、妙に遠い。

 

 花が咲き乱れ、死神や閻魔と対峙し、ひとまずの決着はついた。

 本来なら、胸の奥に何か残っていてもおかしくないはずだった。

 

 だが、凪の内側は静まり返っていた。

 

 生き延びた理由を考えることを、彼はいつの間にかやめていた。

 考えれば考えるほど、答えが「なかった」からだ。

 

 ただ生きている。

 それだけの状態。

 

 ――その静けさに、声が割り込む。

 

「ずいぶんと暗い顔だねぇ」

 

 声は、すぐ隣から聞こえた。

 

 凪が反射的に身構えるより早く、そこには赤い服の少女が座っていた。

 小柄な体。気の抜けたような態度。手には徳利。

 

 現れた気配はほとんどない。

 だが凪は、即座に理解した。

 

 伊吹萃香。

 鬼。

 

 ――強大な妖怪だ。

 本来なら、背筋が凍ってもおかしくない相手。

 

 それでも凪の身体は、極端な拒絶反応を示さなかった。

 

 理由は単純だった。

 彼はすでに、「死に直結する存在」を何度も見てきたからだ。

 

 紫。

 黄泉。

 死神と閻魔。

 

 それらと比べれば、目の前の鬼は――不思議なほど現世的だった。

 

「……こんばんは」

 

 凪の口から出たのは、妙に落ち着いた挨拶だった。

 自分でも、少し遅れて違和感を覚える。

 

(……警戒していないわけじゃない)

 

 頭のどこかでは、はっきり理解している。

 相手は危険だ。力の格も、経験も、圧倒的に違う。

 

 それでも、逃げようという衝動が湧かなかった。

 

 ――逃げたところで、意味がない。

 そう感じてしまうほど、凪は「死」という概念に慣れてしまっていた。

 

「おや、丁寧だね」

 

 萃香は楽しげに目を細め、徳利を軽く振る。

 

「最近の人間は、鬼を見ても逃げないのかい?」

 

 凪は一瞬、答えに迷い――正直に言った。

 

「逃げる理由が、特にないので」

 

 萃香の眉が、ほんの僅かに動く。

 

 鬼にとって、人間の反応は分かりやすい。

 恐怖、緊張、敵意――いずれも、匂いや気配として伝わる。

 

 だが、この男からは、それらが薄い。

 

 無防備というより、諦観に近い。

 生きているのに、死を遠ざけようとしない匂い。

 

「へぇ」

 

 萃香は肩をすくめる。

 

「それはそれで、随分と危なっかしい理由だ」

 

 酒の匂いが、夜風に混じって流れる。

 凪は反射的に一歩距離を取ろうとして――やめた。

 

 この距離で何かが起きれば、どうせ避けられない。

 それを理解しているからこそ、身体が動かない。

 

 萃香は徳利を差し出した。

 

「飲むかい?」

 

 凪は一瞬、盃を見る。

 喉が渇いているわけではない。酒が嫌いなわけでもない。

 

 だが、今の自分がそれを口にしていいのか、判断がつかなかった。

 

「……いえ」

 

「即答だねぇ」

 

 萃香は笑い、特に気にした様子もなく徳利を引っ込める。

 

「ま、いいさ。

 無理に飲ませるほど野暮じゃない」

 

 そう言って、一口。

 

「それにしても」

 

 萃香の視線が、凪に向く。

 

「生きてるやつの顔してないのに、心臓の音だけはやけにしっかりしてる」

 

 凪は、胸の奥で小さく何かが跳ねるのを感じた。

 

 自分では、あまり意識していなかった部分だ。

 生きていることを、評価された覚えがない。

 

「……そう見えますか」

 

「見えるねぇ」

 

 即答だった。

 

「鬼は嘘つきじゃない。

 特に、身体のことについてはね」

 

 凪は視線を外し、境内の石畳を見る。

 月明かりが淡く落ち、影が揺れている。

 

 言葉を選ぶ間が、妙に長く感じられた。

 

「生きてる実感が……あまりなくて」

 

 彼自身、なぜそんなことを口にしたのか、少し遅れて気づいた。

 言うつもりのなかった本音が、自然に零れ落ちた。

 

 萃香は、茶化さない。

 遮らない。

 ただ、聞いている。

 

「生き延びただけです」

 

 凪は続ける。

 

「生きたいと思って、生きてきたわけじゃない」

 

 感情を込めたつもりはなかった。

 事実を並べただけの言葉。

 

 萃香は徳利を揺らし、酒の音を鳴らす。

 

「なるほど」

 

 そして、こちらを見ずに、ぽつりと言った。

 

「じゃあさ」

 

 一拍。

 

「死にたいと思って、生きてるわけでもないんだろ?」

 

 凪の言葉が、そこで止まる。

 

 死にたいか、と問われれば。

 即座に頷くことはできない。

 

 だが、生きたいかと問われても、同じだ。

 

 沈黙が落ちる。

 萃香は、その沈黙を壊さない。

 

「違うよね」

 

 穏やかな声だった。

 

 そして、ようやく凪を見る。

 

「だったら、あんたは――」

 

 夜風が、二人の間を通り抜ける。

 

「生きるのが、下手なだけだ」

 

 その言葉は、凪の胸に静かに落ちた。

 責めでも、慰めでもない。

 

 ただ、位置を示されただけ。

 

 凪は何も言えず、立ち尽くした。

否定するには、力が足りない。

 肯定するには、まだ実感が追いつかない。

 

 萃香は、その反応を急かさなかった。

 徳利を傾け、酒を一口含む。

 

 鬼にとって、沈黙は敵ではない。

 生き物が考える時間も、身体が追いつくまでの間も、すべて“今”のうちだからだ。

 

「下手、って言われると腹が立つかい?」

 

 萃香は、どこか面白がるような声音で言った。

 

 凪は、首を横に振る。

 

「……いいえ。

 たぶん、合ってます」

 

 言葉にした瞬間、胸の奥が僅かに軋んだ。

 痛みではない。

 長い間、触れずにいた場所を押されたような感覚。

 

「生きるのが上手い人って、どんな人ですか」

 

 自分でも意外な問いだった。

 萃香は、少し考える素振りを見せる。

 

「さあねぇ」

 

 そして、あっさりと言った。

 

「腹が減ったら食う。

 眠くなったら寝る。

 酒が飲みたくなったら飲む」

 

 徳利を軽く振る。

 

「怒ったら殴るし、楽しかったら笑う。

 それだけさ」

 

 凪は思わず、苦笑に近い息を吐いた。

 

「……それは、随分と単純ですね」

 

「単純だよ」

 

 萃香は、あっさり頷く。

 

「でもね、人間はそこをややこしくする。

 理由だの意味だの、後から山ほど積み上げる」

 

 萃香は空を見上げる。

 月はまだ高い。

 

「理由があるから生きるんじゃない」

 

 その声は、静かだった。

 

「生きてるから、理由が後から増えるんだ」

 

 凪の呼吸が、わずかに止まる。

 

 その言葉は、教訓めいていない。

 押し付けでもない。

 

 ただ、世界の仕組みをそのまま口にしたようだった。

 

「生きる理由を探して、立ち止まるやつは多いけどさ」

 

 萃香は、凪をちらりと見る。

 

「理由なんて、あとでいくらでも増える。

 誰かと酒を飲んだ、とか。

 風が気持ちよかった、とか」

 

 凪の脳裏に、何気ない光景が浮かぶ。

 

 境内を掃く霊夢の背中。

 朝の神社に差し込む光。

 湯気の立つ茶碗。

 

 どれも、大した理由には見えない。

 だが、確かに“生きていた証”ではある。

 

「……それでも」

 

 凪は、ゆっくりと言葉を選んだ。

 

「俺は、守る側に立っていたはずなのに……

 いつの間にか、何を守っているのか分からなくなってました」

 

 萃香は、少しだけ目を細める。

 

 鬼の目には、凪の姿がはっきり映っている。

 肉体は生きている。

 だが、意識だけが一歩後ろに引いている。

 

「守る、ねぇ」

 

 萃香は、軽く鼻を鳴らした。

 

「守るってのは、立派な言葉だ。

 でもさ――」

 

 一拍置いて、続ける。

 

「守る側が、勝手に死ぬ顔してたら、守られる側は困るんだよ」

 

 その言葉は、凪の胸に深く沈んだ。

 

 直接名前を出されたわけではない。

 だが、誰の顔かは分かってしまう。

 

 凪は、視線を落とす。

 

「……俺は」

 

 言いかけて、止まる。

 

 自分がここにいること。

 神社に戻ってきたこと。

 それ自体が、すでに“誰かの場所”に含まれている事実を、無視できなくなっていた。

 

「無理に変わらなくていい」

 

 萃香は、凪の迷いを断ち切るように言った。

 

「急に生き方を上手くしろ、なんて言わない」

 

 徳利を地面に置き、立ち上がる。

 

「ただね」

 

 振り返り、穏やかに告げる。

 

「もう十分、死なない理由は抱えてる。

 あんたが気づいてないだけだ」

 

 夜風が、二人の間を抜ける。

 空気が、少しだけ軽くなった気がした。

 

 次の瞬間、萃香の姿はふっと薄れた。

 まるで最初から、そこにいなかったかのように。

 

 縁側には、徳利と盃だけが残されている。

 

 凪は、しばらく動けずに立っていた。

 胸の奥に、名前のつかない感覚がある。

 

 生きたい、とはまだ思えない。

 だが、生きていてはいけない、という感覚も――確実に薄れていた。

 

 彼は、そっと盃を手に取る。

 

 一口だけ、酒を含む。

 

 苦くて、強くて、喉を焼く。

 それでも、不思議と嫌ではなかった。

 

(……生きてる酒の味だ)

 

 空が、わずかに白み始めている。

 

 凪は空になった盃を縁側に置き、

 まだ眠る神社の奥を、静かに見つめた。

 

 ここは、誰かが帰ってくる場所だ。

 

 そして――

 少なくとも今は、自分もその中に立っている。

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