東方帰還録 ~ Reclaiming the Bond ~ 作:地軸
夜の博麗神社は、昼とはまるで別の顔をしていた。
境内に満ちるのは、風が木々を揺らす音と、虫の鳴き声だけ。
人の気配は薄く、静けさがそのまま形を持ったようだった。
凪は縁側に腰を下ろし、夜空を見上げていた。
月は澄んでいる。欠けも曇りもなく、妙に遠い。
花が咲き乱れ、死神や閻魔と対峙し、ひとまずの決着はついた。
本来なら、胸の奥に何か残っていてもおかしくないはずだった。
だが、凪の内側は静まり返っていた。
生き延びた理由を考えることを、彼はいつの間にかやめていた。
考えれば考えるほど、答えが「なかった」からだ。
ただ生きている。
それだけの状態。
――その静けさに、声が割り込む。
「ずいぶんと暗い顔だねぇ」
声は、すぐ隣から聞こえた。
凪が反射的に身構えるより早く、そこには赤い服の少女が座っていた。
小柄な体。気の抜けたような態度。手には徳利。
現れた気配はほとんどない。
だが凪は、即座に理解した。
伊吹萃香。
鬼。
――強大な妖怪だ。
本来なら、背筋が凍ってもおかしくない相手。
それでも凪の身体は、極端な拒絶反応を示さなかった。
理由は単純だった。
彼はすでに、「死に直結する存在」を何度も見てきたからだ。
紫。
黄泉。
死神と閻魔。
それらと比べれば、目の前の鬼は――不思議なほど現世的だった。
「……こんばんは」
凪の口から出たのは、妙に落ち着いた挨拶だった。
自分でも、少し遅れて違和感を覚える。
(……警戒していないわけじゃない)
頭のどこかでは、はっきり理解している。
相手は危険だ。力の格も、経験も、圧倒的に違う。
それでも、逃げようという衝動が湧かなかった。
――逃げたところで、意味がない。
そう感じてしまうほど、凪は「死」という概念に慣れてしまっていた。
「おや、丁寧だね」
萃香は楽しげに目を細め、徳利を軽く振る。
「最近の人間は、鬼を見ても逃げないのかい?」
凪は一瞬、答えに迷い――正直に言った。
「逃げる理由が、特にないので」
萃香の眉が、ほんの僅かに動く。
鬼にとって、人間の反応は分かりやすい。
恐怖、緊張、敵意――いずれも、匂いや気配として伝わる。
だが、この男からは、それらが薄い。
無防備というより、諦観に近い。
生きているのに、死を遠ざけようとしない匂い。
「へぇ」
萃香は肩をすくめる。
「それはそれで、随分と危なっかしい理由だ」
酒の匂いが、夜風に混じって流れる。
凪は反射的に一歩距離を取ろうとして――やめた。
この距離で何かが起きれば、どうせ避けられない。
それを理解しているからこそ、身体が動かない。
萃香は徳利を差し出した。
「飲むかい?」
凪は一瞬、盃を見る。
喉が渇いているわけではない。酒が嫌いなわけでもない。
だが、今の自分がそれを口にしていいのか、判断がつかなかった。
「……いえ」
「即答だねぇ」
萃香は笑い、特に気にした様子もなく徳利を引っ込める。
「ま、いいさ。
無理に飲ませるほど野暮じゃない」
そう言って、一口。
「それにしても」
萃香の視線が、凪に向く。
「生きてるやつの顔してないのに、心臓の音だけはやけにしっかりしてる」
凪は、胸の奥で小さく何かが跳ねるのを感じた。
自分では、あまり意識していなかった部分だ。
生きていることを、評価された覚えがない。
「……そう見えますか」
「見えるねぇ」
即答だった。
「鬼は嘘つきじゃない。
特に、身体のことについてはね」
凪は視線を外し、境内の石畳を見る。
月明かりが淡く落ち、影が揺れている。
言葉を選ぶ間が、妙に長く感じられた。
「生きてる実感が……あまりなくて」
彼自身、なぜそんなことを口にしたのか、少し遅れて気づいた。
言うつもりのなかった本音が、自然に零れ落ちた。
萃香は、茶化さない。
遮らない。
ただ、聞いている。
「生き延びただけです」
凪は続ける。
「生きたいと思って、生きてきたわけじゃない」
感情を込めたつもりはなかった。
事実を並べただけの言葉。
萃香は徳利を揺らし、酒の音を鳴らす。
「なるほど」
そして、こちらを見ずに、ぽつりと言った。
「じゃあさ」
一拍。
「死にたいと思って、生きてるわけでもないんだろ?」
凪の言葉が、そこで止まる。
死にたいか、と問われれば。
即座に頷くことはできない。
だが、生きたいかと問われても、同じだ。
沈黙が落ちる。
萃香は、その沈黙を壊さない。
「違うよね」
穏やかな声だった。
そして、ようやく凪を見る。
「だったら、あんたは――」
夜風が、二人の間を通り抜ける。
「生きるのが、下手なだけだ」
その言葉は、凪の胸に静かに落ちた。
責めでも、慰めでもない。
ただ、位置を示されただけ。
凪は何も言えず、立ち尽くした。
否定するには、力が足りない。
肯定するには、まだ実感が追いつかない。
萃香は、その反応を急かさなかった。
徳利を傾け、酒を一口含む。
鬼にとって、沈黙は敵ではない。
生き物が考える時間も、身体が追いつくまでの間も、すべて“今”のうちだからだ。
「下手、って言われると腹が立つかい?」
萃香は、どこか面白がるような声音で言った。
凪は、首を横に振る。
「……いいえ。
たぶん、合ってます」
言葉にした瞬間、胸の奥が僅かに軋んだ。
痛みではない。
長い間、触れずにいた場所を押されたような感覚。
「生きるのが上手い人って、どんな人ですか」
自分でも意外な問いだった。
萃香は、少し考える素振りを見せる。
「さあねぇ」
そして、あっさりと言った。
「腹が減ったら食う。
眠くなったら寝る。
酒が飲みたくなったら飲む」
徳利を軽く振る。
「怒ったら殴るし、楽しかったら笑う。
それだけさ」
凪は思わず、苦笑に近い息を吐いた。
「……それは、随分と単純ですね」
「単純だよ」
萃香は、あっさり頷く。
「でもね、人間はそこをややこしくする。
理由だの意味だの、後から山ほど積み上げる」
萃香は空を見上げる。
月はまだ高い。
「理由があるから生きるんじゃない」
その声は、静かだった。
「生きてるから、理由が後から増えるんだ」
凪の呼吸が、わずかに止まる。
その言葉は、教訓めいていない。
押し付けでもない。
ただ、世界の仕組みをそのまま口にしたようだった。
「生きる理由を探して、立ち止まるやつは多いけどさ」
萃香は、凪をちらりと見る。
「理由なんて、あとでいくらでも増える。
誰かと酒を飲んだ、とか。
風が気持ちよかった、とか」
凪の脳裏に、何気ない光景が浮かぶ。
境内を掃く霊夢の背中。
朝の神社に差し込む光。
湯気の立つ茶碗。
どれも、大した理由には見えない。
だが、確かに“生きていた証”ではある。
「……それでも」
凪は、ゆっくりと言葉を選んだ。
「俺は、守る側に立っていたはずなのに……
いつの間にか、何を守っているのか分からなくなってました」
萃香は、少しだけ目を細める。
鬼の目には、凪の姿がはっきり映っている。
肉体は生きている。
だが、意識だけが一歩後ろに引いている。
「守る、ねぇ」
萃香は、軽く鼻を鳴らした。
「守るってのは、立派な言葉だ。
でもさ――」
一拍置いて、続ける。
「守る側が、勝手に死ぬ顔してたら、守られる側は困るんだよ」
その言葉は、凪の胸に深く沈んだ。
直接名前を出されたわけではない。
だが、誰の顔かは分かってしまう。
凪は、視線を落とす。
「……俺は」
言いかけて、止まる。
自分がここにいること。
神社に戻ってきたこと。
それ自体が、すでに“誰かの場所”に含まれている事実を、無視できなくなっていた。
「無理に変わらなくていい」
萃香は、凪の迷いを断ち切るように言った。
「急に生き方を上手くしろ、なんて言わない」
徳利を地面に置き、立ち上がる。
「ただね」
振り返り、穏やかに告げる。
「もう十分、死なない理由は抱えてる。
あんたが気づいてないだけだ」
夜風が、二人の間を抜ける。
空気が、少しだけ軽くなった気がした。
次の瞬間、萃香の姿はふっと薄れた。
まるで最初から、そこにいなかったかのように。
縁側には、徳利と盃だけが残されている。
凪は、しばらく動けずに立っていた。
胸の奥に、名前のつかない感覚がある。
生きたい、とはまだ思えない。
だが、生きていてはいけない、という感覚も――確実に薄れていた。
彼は、そっと盃を手に取る。
一口だけ、酒を含む。
苦くて、強くて、喉を焼く。
それでも、不思議と嫌ではなかった。
(……生きてる酒の味だ)
空が、わずかに白み始めている。
凪は空になった盃を縁側に置き、
まだ眠る神社の奥を、静かに見つめた。
ここは、誰かが帰ってくる場所だ。
そして――
少なくとも今は、自分もその中に立っている。