クレアは高級ホテルのロビーに足を踏み入れた瞬間、その豪華さに息をのんだ。
さらにクリスマスという 欧米で一番のお祭りの時期だからだろうか?
建物中に豪華なデコレーションが施してある。
シャンデリアの光が大理石の床に反射し、静かなクラシックの調べが空気を満たしている。
出張先のこのホテルは、彼女の普段の生活とはかけ離れた贅沢な空間だった。
雪の降り積もった街路を歩いてきて、すっかり冷え切った手をロビーの豪華な暖炉にかざし温める。
部屋に行ってゆっくり風呂につかろうかと、クレアはスーツケースを引いてフロントへ向かう途中、彼女の目はふとエレベーターの前に立つ二人の人影に釘付けになった。
レオンだった。
彼の特徴的なブロンドの髪、広い肩、鋭い目つき。
間違いようがない。
だが、彼の隣には見知らぬ美女がいた。
黒いドレスをまとい、優雅に笑うその女は、レオンの腕に軽く手をかけていた。
二人は親密そうに会話を交わし、エレベーターの扉が開くと、まるで吸い込まれるようにその中へ消えていった。
クレアの心臓が早鐘を打った。
レオンとクレアは恋人同士ではない。
長年の戦友、信頼できる仲間。
それだけのはずだった。
だが、胸の奥で何かがひどく軋んだ。
部屋に消えていく二人の背中を見ながら、彼女は知っていた。
あの部屋の中で何が起こるのかを。
恋人でもないのに、なぜかその想像がクレアの心を締め付けた。
一気に血の気が引いたように感じて、冷たくなった体を両手で抱きしめると、クレアは部屋に駆け込んだ。
スーツケースを部屋に放り込むと、クレアはその足でホテルのバーへと向かった。
やけを起こしていた。
自分でもその感情を抑えきれなかった。
バーは薄暗く、ウイスキーの香りとジャズの音色が漂っていた。
クレアはカウンターの端に座り、グラスを傾けながら、頭の中でレオンの姿を何度も反芻していた。
彼女は誰だったのか。
なぜレオンはここに?
考えれば考えるほど、胸のモヤモヤが膨らんだ。
「もう一杯、ダブルで。」
バーテンダーにそう告げると、彼女は一気にグラスを空けた。
アルコールの熱が喉を焼き、頭が少しずつぼんやりしていく。
「こんな綺麗な人が、一人で飲んでるなんて勿体ない。」
突然、隣から低く滑らかな声が聞こえた。
クレアが顔を上げると、そこには見知らぬ男が立っていた。
ブロンドの髪、整った髪型、鋭い目つき。
背丈も体格も、どこかレオンに似ている。
いや、そっくりだった。
目の色まで同じ深い青。
「…あなた、誰?」
クレアの声は少し掠れていた。
男は微笑み、まるで彼女の心の隙間を見透かしたかのように言葉を続けた。
「ただの旅人さ。
君と同じで、このホテルに泊まってる。
話したい気分なら、付き合うよ。」
男の口調は軽やかだったが、どこか危険な魅力があった。
クレアは一瞬、レオンの顔を思い出した。
あの女と一緒にいたレオン。
自分を置き去りにして部屋に消えたレオン。
彼女の心に火がついた。
「いいわ。一緒に飲む?」
彼女は挑むように微笑み、グラスを掲げた。
時間が溶けるように過ぎ、クレアは彼の部屋のドアをくぐっていた。
理性はどこかに置き去りだった。
アルコールのせいか、レオンへの苛立ちのせいか、それとも彼のレオンそっくりの顔立ちに惹かれたのか。
彼女自身、理由をはっきりさせられなかった。
ただ、部屋に入った瞬間、彼の手が彼女の肩に触れたとき、クレアは一瞬だけ後悔の波に襲われた。
だが、それを振り切るように、彼に身を委ねた。
翌朝、クレアは彼と共にロビーに降り立った。
少し乱れた髪を整えながら、彼女は昨夜のことをぼんやりと思い出していた。
すると、視界の端で誰かが動くのが見えた。
レオンだった。
彼は鋭い目でクレアと男を見つめていた。
その視線に、クレアの心臓が再び跳ねた。
「クレア。来ていたのか……。」
レオンの声は低く、なぜか抑えきれない怒りを滲ませていた。
「彼は誰だ? 何をしていた?」
クレアは一瞬言葉に詰まったが、すぐにやけになった気持ちが口をついて出た。
「バーで飲んでたら、彼に口説かれたの。
たまには遊びたいと思っただけ。
だって、彼、好みのタイプだったから。
そのまま彼の部屋に行ったのよ。」
彼女はわざと挑戦的な口調で言った。
レオンの顔から表情が消えていく。
「好みのタイプ? 遊びたい?この男がか?」
レオンの声には感情が消えていた。
レオンは男に一歩近づき、顔をまじまじと見ると、クレアを真っ直ぐに見つめた。
「気味の悪い男だな。
俺と同じ顔。同じ髪。同じ体格。目の色も。」
トゲのあるレオンの声に、クレアも意地になってくる。
「それだけじゃないわ。
声もそっくりよ。昨日の夜たくさん聞いたもの。」
レオンの顔がさらにこわばる。
クレアは少し 怯えたが、その怯えを務めて表には出さなかった。
冷たさを孕んだ目でレオンを見つめるクレアだったが、次の瞬間、レオンがクレアを責めるように言った言葉に仰天して目を潤ませた。
「それなら、なんで俺じゃないんだ?
遊びたいなら、どうして俺にしない?」
クレアは息をのんだ。
レオンの言葉を理解するのに時間がかかった。
いや、反応がかろうじてできただけで、理解は全く 追いついていない。
クレアの頭は混乱していた。
「レオン、なに…?」
彼女は言葉を失い、ただ彼の顔を見つめた。
だが、熱と 険しさのこもった、レオンのその視線に耐えきれず、クレアは目をそらした。
「遊ぶって…、あなたは友達でしょ!
そんな失礼なことができるわけないわ。
バカなこと言わないで!」
本心だった。
彼との間に遊びは必要ないのだ。
誠実であれば、一生、ただの友達という関係でも構わない。
彼はそれすら分かっていないのかと思うと、やっと苛立ちは収まり、代わりに悲しみが浮かんできた。
「ごめん、私、部屋に戻る。」
隣で無反応で2人のやり取りを見ていた男に、クレアは一言断って、逃げるようにエレベーターに乗った。
ドアが閉まる瞬間、レオンの困惑した表情が一瞬だけ見えた。
ホテルの自分の部屋のドアを閉め、クレアはベッドに崩れ落ちた。
心臓がまだ激しく脈打っていた。レオンの言葉が頭の中で反響する。
『どうして俺にしない?』
腹が立った。
どうかしてる。
自分が女と遊びすぎて、おかしくなってるんじゃないか?
そんな関係なんていらない。
クレアは枕に顔を埋め、ふつふつと湧き上がる 苛立ちに苛まれながら、ホテルの静寂に身を委ねた。
クレアがエレベーターに飛び乗り、ドアが閉まるのを見届けたレオンは、ロビーの中央に立ち尽くしていた。
彼の頭の中では、彼女の動揺した表情と『どうして俺にしない』という不意に漏らした自分の言葉がぐるぐると渦巻いていた。
後悔と苛立ちが交錯し、彼は拳を握りしめた。
「随分と熱くなってるな、あんた。クリスマスみたいな おめでたい時期だ。もっと楽しそうな顔しろよ」
振り返ると、そこには先ほどの、自分に瓜二つの男が立っていた。
ブロンドの髪を軽くかき上げ、口元に皮肉な笑みを浮かべたその男は、レオンと同じ顔なのに、どこか軽薄な雰囲気を漂わせていた。
レオンの目が細められ、警戒心が一気に高まった。
「お前、誰だ?」
レオンの声は低く、敵意を隠さなかった。
「ただの旅行者だよ。
ノエル・ラファエル・ヴァルモン。
クレール(クレア)と一晩を過ごした男さ。覚えててくれると嬉しいな。」
その言葉に、レオンの胸の奥で何かが弾けた。
「ノエル(noel)?甘ったるい名前だな。
フランス野郎か?」
「ウィ、ムッシュー、レオン(獅子)・スコット(不屈の魂)・ケネディ(鎧の戦士)だろう?猛々しい名前で羨ましい限りだ」
ありとあらゆることで、自分の神経を逆なでするために生まれたような男だ、とレオンは思った。
ノエル(救世主の誕生)ラファエル(癒しの天使)ヴァルモン(熟練の誘惑者)。
偽名かとすら思う。
特にそのファーストネーム。
noel、自分の名前leonの逆。
からかってるのか。
だが、レオンは感情を抑え、冷ややかな視線で男を見据えた。
「クレアに何をした? 彼女を巻き込むな。」
男はくすりと笑い、レオンの言葉を軽く受け流した。
ノエルは一歩近づき、声を低くして続けた。
「巻き込む?
随分と偉そうな物言いだな。
昨夜、俺はクレールと楽しく過ごしただけだ。で、」
ノエルは一瞬言葉を切り、レオンの顔をじっと見つめた。
「あんたは?昨夜は楽しく過ごせたか?」
レオンの眉がピクリと動いた。
ノエルの言葉は、自分の神経を的確に逆なでしてくる。
「何が言いたい……?」
男は動じず、むしろその反応を楽しむように微笑んだ。
「落ち着けよ兄弟。
昨夜、俺はクレールを癒してやっただけだ。
1人でバーで飲んでた彼女を見つけてね、危なっかしくて放っておけなかった。
見たことあるか?
ああいう女は、放っておくと寂しさに飲まれちまうんだ。」
ノエルの言葉は鋭く、レオンは昨夜のことを思い出し、一瞬だけ視線を逸らした。
その隙を見逃さず、ノエルはさらに畳み掛けた。
「それにさ、君はなんでクレールを責めるんだ?
だって、君はただの友達だろ?
恋人でもなんでもない。
なのに、なんでそんなにムキになってるんだ?
まさか、クレールに気があるなんてわけじゃないよな?」
ノエルの声には、挑発と嘲笑が混じっていた。
彼はレオンの苦手なこと、つまり自分の感情を素直に認められない性格とクレアとの曖昧な関係に踏み込めない弱さ、を見抜いているかのようだった。
レオンの表情が消え、唇が一瞬引き結ばれた。
「黙れ。」
レオンの声は低く、抑えた怒りが滲んでいた。
だが、ノエルは一歩も引かず、逆にレオンに近づいた。
「クレールは俺にとって、ただの遊びじゃない。
遊びで 一緒に過ごしていい相手じゃないとすぐにわかった。
どこかの安っぽそうな黒いドレスの女と違ってね。
たから彼女を大切に扱った。」
その言葉に、レオンの自制心が限界を迎えた。
彼は一歩踏み出し、ノエルの胸ぐらを掴もうとしたが、その瞬間、ロビーにいた他の客の視線を感じて動きを止めた。
男はニヤリと笑い、囁くように言った。
「ほら、冷静になれよ、兄弟。クレールが選んだのは俺だ。
君がいまさら彼女に何を思ってても、彼女は君のものじゃない。
俺のだよ。この俺の。
彼女にとって君は『俺にそっくりな男』でしかないってことだ」
ノエルはそう言い残し、軽い足取りでロビーを去っていった。
レオンは立ち尽くし、握った拳をゆっくりと下ろした。
彼の胸の中では、怒りと後悔、そしてクレアへの抑えきれない感情が渦巻いていた。
男の言葉は、彼が無自覚に避けてきた真実を突きつけていた。
クレアへの気持ち。
彼女との関係の曖昧さ。
そして、自分が彼女を傷つけたかもしれないという事実。
レオンは深く息を吐き、クレアの部屋がある階を見上げた。
彼女に何を言うべきか、どう向き合うべきか。
彼の心はまだ答えを見つけられずにいた。
レオンがロビーに立ち尽くす中、ノエルは静かにエレベーターに乗り込み、クレアの部屋がある階へと向かった。
彼の顔には、先ほどレオンに向けた皮肉な笑みは消え、代わりにどこか落ち着いた、思慮深い表情が浮かんでいた。
ノエルはクレアの部屋のドアの前で立ち止まり、軽くノックした。
「クレール、俺だよ。ノエルだ。」
しばらくした後、ドアがゆっくりと開いた。
クレアの顔は疲れ果て、目元はわずかに赤く腫れていた。
彼女は無言でドアを大きく開け、ノエルを招き入れた。
部屋の中は薄暗く、先ほどまでクレアが倒れていたベッドのシーツが乱れていた。
クレアはソファに腰を下ろし、膝を抱えるようにしてノエルを見上げた。
クレアが感情を抑えているのが明らかだった。
ノエルは彼女の隣に腰を下ろし、静かに話し始めた。
「さっき、レオンと話したよ。…少し、挑発しちまった。」
クレアの目が見開かれた。
「挑発? どういうこと?」
彼女の声には驚きと不安が混じっていた。
ノエルは軽く息を吐き、昨夜のことを思い出した。
最初、彼女がこの部屋のドアをくぐった時、やけを起こしているのは明らかだった。
そういった 女性につけ込むのはどうかと思ったが、傷ついてる女性を放っておけないのは自分の性だ。
何かの慰めができたらとは思っていた。
何度も交わす キスが次第に激しくなって、互いの服が1枚ずつ 床に落ちていく。
彼女の髪をほどいて、ベッドに倒れ込んだ時ですら、冷静に彼女を観察している自分には、我ながら 呆れた。
自分の先祖のヴァルモン子は、18世紀にフランス古典文学の作品に書かれたほどの、名うてのプレイボーイの貴族だったらしい。
おもしろ半分に淑女を誘惑する手紙を、娼婦の背中をデスクがわりにして書いていたそうだ。
そんな先祖に反発を感じていたからだろうか?
自分はどんな女性も、愛して 尊重して癒したい。
自然とそう思って生きるようになった。
改めて 彼女の顔を見つめて唇を落とそうとした時だ。
クレアの目から大粒の涙がこぼれ始めた。
「やっぱり無理……」
ノエルは表情にこそ出さなかったが、かなりの衝撃だった。
自分にはかなりの自信があった。
癒してあげたい。
初めてその気持ちを持ったのは若かかりしあの日。
幼い頃から可愛がってくれていた義理の叔母。
夫の浮気に苦しんでいた彼女を、初めて抱いた、いや抱かれた時だ。
それからの自分は、男に苦しめられている全ての女性を助けたい。
そう思って、数えきれないほどの数を抱いてきた。
いろんな女性がいたが、共通点は身勝手な男に苦しめられていることだった。
そんな自分が女性に拒絶された。
なぜだ。
俺の魅力が足りない?
技巧が足りない?
言葉が足りない?
そんなわけがない。
そんなノエルにクレアが言う。
『レオンに、友達に似てる男に、抱かれるなんてできない……』
目を何度かまた瞬かせた ノエルの口元にようやく 笑みが戻った。
『そうか、分かったよ。じゃあ 飲み直そうか。俺の旅行話でも聞いてくれ。いろんなところを彷徨ってきた。帰る港もたくさんできた。ここでも 、君という素晴らしい出会いがあった』
クレアが涙を流しながら起き上がった。
『ごめんなさい…、ごめんなさい……』
バスローブを羽織ったノエルは、部屋にあったミニバーからワインのボトルを引っ張り出すと、クレアのグラスに注いだ。
彼らの話は尽きることなく 夜明けまで続いたのだった。
クレアの視線が床に落ちた。
昨夜の記憶が蘇り、彼女の胸を締め付けた。
バーの喧騒を抜け、ノエルの部屋に足を踏み入れたとき、彼女は確かにやけになっていた。
レオン行動への理不尽な苛立ちと、アルコールの勢いが彼女を突き動かしていた。
だが、ノエルの腕の中で、彼の顔がレオンと重なった瞬間、抑えていた感情が溢れ出した。
彼女は涙を流し、レオンへの想いを口にしていた。
自分でも気づいていなかったその深さを、ノエルに話すことで初めて自覚したのだ。
ノエルは彼女の沈黙を察し、言葉を続けた。
「今朝、レオンを見たとき、俺はわかったよ。
あいつの身勝手さ。
君を『ただの友達』って言いながら、君が他の男と一緒にいるのを見て、あんな風に怒るなんて。
自分が他の女と過ごしたくせに、君には自由でいることを許さない。
そんな態度、俺は我慢できなかったんだ。」
クレアは顔を上げ、ノエルの目を見つめた。
「挑発って…何て言ったの?」
ノエルは苦笑し、ロビーでの会話を要約した。
「君が俺を選んだってこと、君を癒したのは俺だってこと。
あいつには君を責める資格がないって、な。
まぁ、ちょっと大げさに言ったかもしれないけど…あいつの顔、最高に焦ってたよ。」
クレアは一瞬、笑いそうになったが、すぐに表情が曇った。
「ノエル…そんなこと、言わなくてもよかったのに。」
彼女の声は小さく、どこか悲しげだった。
ノエルは彼女の肩に軽く手を置き、真剣な口調で言った。
「クレール、君はあいつのことで傷ついてた。
俺はあいつが自分の気持ちに気づかないまま、君を振り回してるのが許せなかったんだ。
君が大切にされるべきだって思ったんだよ。
それだけだ。」
クレアの目が再び潤んだ。
彼女はノエルの言葉に感謝しながらも、レオンの
「どうして俺にしない」
という言葉が頭を離れなかった。
レオンが自分に何を求めているのか、彼女自身もまだ答えを見つけられずにいた。
「ありがとうノエル。昨夜、いろいろ話を聞いてくれて…本当に助かったわ。」
クレアは小さく微笑み、ノエルの手をそっと握った。
ノエルは軽く頷き、立ち上がった。
「レオンとちゃんと話した方がいい。でないと、君もあいつも、このまま迷路で彷徨うだけだ。」
そう言うとクレアの頬に触れるような軽いキスを落とした。
「あいつはそろそろここに来るだろうさ。しっかり話し合え。じゃあ、Joyeux Noël.,claire.(ジョワイユ·ノエル·クレール){メリークリスマス、クレア}」
ノエルはそう言い残し、部屋を出ていった。
いや 彼は、使命を終えて天界に戻って行ったのかもしれない。
プレゼントを置いて。
クレアは一人残され、窓の外に広がる街の明かりを見つめた。
レオンへの想い、ノエルの優しさ、そして自分自身の混乱。
彼女は深く息を吸い、決意を固めるように目を閉じる。
そしてその時、 彼女の部屋のドアがノックされ、一呼吸ってクレアはドアノブに手を伸ばした。