猿猴捉月   作:嘘風

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こんなことがあったんですか?
さあ……


《燐子:1》シーグラス

 ギターの音がする。

 氷川さんのベースから。

 

「……手慰み程度の練習ではこんなものね」

 

 嫌になるわ、と唇で呟く氷川さんは組んだ足に乗せたベースをひと撫でして、ボディの上で手指も噛み合わせた。左手の薬指をゆっくり屈伸するクセ。不思議な色っぽさの漂う仕草で、あこちゃんが一時期コッソリと真似していたのを覚えている。

 CiRCLEで交流のあるバンドの三年生メンバーで文化祭ライブに出よう、という運びに便乗した。垣間見ることの難しい青いヴェールの内側に想像よりずっとRoseliaを大切に抱え込んでくれて、なのに当初の通りに手放してしまった彼女について窺い知る最後のチャンスと思って。

 放課後の音楽室。他のメンバーは各々の用事でおらず、吹奏楽部やここを使いそうな人たちもたまたま出払っている。

 氷川さんのRoselia脱退以来の、ふたりきりだった。

 軽く触れ合わせるような拍手をして素直な感想を述べる。

 

「ピック弾きだから、でしょうか……違うパートなのに、聞き慣れたような心地がします」

「だとすればよくないですね、ベースの仕事ができていないことになる。間違っても今井さんには聞かせられません……いえ、間違えなくともですか」

 

 とぼけた冗談を言ってピックを手放し、今度は指でオーソドックスな八分のルート弾きをし始める。なんの曲というわけでもなさそうなありがちな進行をなぞる細い生の低音の、タイトなリズム感と必要十分程度に抑えられたニュアンス、控えめな強弱表現に代わって多彩に工夫されたアクセント──几帳面で美しい完璧主義の響き。どれだけ濾過しようと洗い落とせないほど私たちに根付き、色付けた、私たちが愛したギタリストのシグネチャートーンだった。

 

「私は……むしろ、今井さんにも聞いてほしいです。彼女もきっと、ギターと同じ音だって言いますよ」

「白鷺さんに言わせれば日菜に似ているそうですが」

「それは……それは、そうかもしれませんけど」

 

 姉と一緒に音楽を始めたベーシストの妹を引き合いに出すのはずるい。

 パスパレの曲を思い出してみる。氷川さん……氷川日菜さんのベースはアイドルソングらしくアグレッシブで、ときにはメロディのように華やかで──ああ、でも、言われてみれば。

 

「フレージングや手癖は結構、違いがありますけど……この仕事を完璧に、みたいな意識は、お二人に共通して感じ取れる気がします。役割を十二分に果たそうとする……真面目さ、ううん、丁寧さ、というか……」

「丁寧、ですか」

 

 小さく吹き出すような笑い方だった。意外なことを言われた、というような。

 今井さんたちや白鷺さんの世間話からときどき漏れ聞こえる限りだと日菜さんは飄々としつつも厳然としたストイックさがあって、丁寧という表現が的外れになるイメージはあまりない。もちろん氷川さんは言うに及ばず。

 

「綺麗に言えば言えるものですね。事前準備したことしかできない、融通が利かないという自認なんですが」

「事前準備の範囲が広く、ライブ中の事故にもスマートに対応できるのなら……それは、真面目で丁寧、ということになりませんか」

「……宇田川さんのときのことを言ってるんですか? スティック飛ばしの」

 

 話しながらも止まらない演奏は記憶を探るように少しだけテンポダウンされた。

 

「あのときは各々で勝手に対応しようとしたら湊さんと偶然うまく連携できた、というだけなのですが……」

「それでも……その偶然を成り立たせるだけの即応性は、生半可な準備では培えない、はずです」

 

 演奏じゃなくてNFOを思い出してしまうけど……便利なスキルや強力なアイテムだって使い方を知らなければ活用できない。それをセオリーから外れて仲間をカバーする状況で上手く使えるほどに練習しているなら、やっぱり真面目だと思う。

 氷川さんと一緒にゲームが出来たら楽しいかな。あこちゃんが前に誘っていた気がするけど、どうだろう。のめり込んでしまうから、と断っていたっけ。

 

「……湊さんも大概ですが、白金さんもかなり買い被っていますね」

「そうで、しょうか」

「ミスと言っても、宇田川さんだって真面目ですし演奏を丸々飛ばすようなことはありませんから、ほんの一瞬時間を稼いで体勢を整えるくらいのことは湊さんの要求水準を満たす程度に出来ていれば難しくはないでしょう。……私が十全に満たしているという話ではないです」

「は、はい」

 

 氷川さんで十全じゃないなら誰も百パーセントで応えることは叶わないことになってしまうけど、口を噤んだ。言いたいことはわかってるから。

 演奏が止まった。何度か右手を開閉して力を抜くと、彼女はベースをスタンドに立てかけて立ち上がる。

 

「飲み物を買ってきます」

「……私も行きます」

「白金さんも? ……いえ。一緒に行きましょうか」

 

 一瞬考えるような素振りを見せられて胸が痛んだけど、彼女は薄く微笑んで踵を返した。すっとスマホを取り出して何かを打つ。通知音。グループチャットに「飲み物を買うので一度離れます」と残されていた。

 私は……ちょっと、わざとらしくじっとり見つめてみる。

 

「なんですか」

「一事が万事だと、そう思います」

「……ああ、なるほど。意識していませんでした」

 

 表情は変わらなかった。そういえばそうかも、くらいのニュートラルさ。

 彼女にとってはただの常識に則った行動でしかないんだろうけど、『常識的な振る舞い』が当然のものとして染み付くような心配りの行き届いた生き方が丁寧でなくてはなんだろう、とも。

 氷川さんが苦笑した。

 

「正しくありたい、という意識があるのは確かですね。……ですが、自堕落で無気力な生活をしているので、全うできているとは思っていませんでした」

「自堕落……?」

 

 想像がつかなかった。

 文化祭の準備のためか賑やかな校内をふたりで降りていく間、会話は落ち着いてぽつぽつと断続した。青春の空隙を縫うように伸びる廊下を、ときどき細い涼風が行き過ぎる。

 氷川さんとふたりでいると静か……ううん、(のど)か、かな。しんと止まったような空気がいつも心地良かった。

 喧騒の遠さが静寂を一層際立てている。彼女の密やかな足音に私も倣った。自分たちの気配すら取り巻く幽かさに溶けていって、ほどけて、穏やかで。

 

「氷川さんは……(しず)────」

 

 ──いや。

 

「──そう、凪いでいるんですね」

 

 風が吹いたのを咎めのように感じて、言い繕った。

 

「帆は畳まずに広げてゆったりと揺れる、波止場の船なんです。日差しを浴びながら寝転んだらぐっすり眠れてしまいそうな、優しい船」

「漂流、いえ、幽霊船かもしれませんよ」

 

 今度こそおかしそうに吹き出して、どことなく意地悪な笑みを口許に浮かべる氷川さん。知らない表情が見えて嬉しい私のいることが、どこか気恥ずかしい。

 

「こんなに優しい幽霊さんなら、向こうへ行くのも……怖くないです」

「……乗れませんよ。こんな小舟には」

 

 「いいとこ、ボトルシップが精々」という氷川さんの呟きは独り言のようだった。私の耳にかろうじて届いたけど、廊下には響きもしないまま溶け消えていく。

 なぜか、それが、惜しい。

 

「──乗せてください」

 

 気づけばふたりして、足を止めて。

 私は氷川さんの裾をつまんでいた。

 

「どこへ流れていくとしても……私も」

 

 まだ残響していた。まったく勝手が違うはずのベースに滲むギターの色。共にしたひとときが、彼女の頑なさをいくばくかでも研磨した証。

 

「私たちに情を移してくれたこと、過ごした日々で色が移るまで心を寄せてくれたこと……私たちを置いていくのに、傷ついてくれること。……同じ日々を漂流してきたシーグラスも、そのボトルシップの飾りとして。乗せてください」

 

 はっと振り向いた氷川さんの目には、知らない色が浮かんでいた。怯えのような……だけどどこか、それだけでないような。怖がるだけでない、怖いもの見たさ、違う……わからない。

 氷川さんは、私に似ている。読書を好むところ、内省的な心理、自己肯定感の低さ、シンパシーを抱けるところがたくさんある。

 だけど、似ているだけで。

 決定的に違うところがあるだろうことも、なんとなく察せられていて。

 この「わからない」が芯か、そうでなくても今まで知らなかった氷川さんの深い一面なんだと直感した。

 途端、血の気が引いた。優しい人に、私たちに罪悪感を抱いているだろう人に、あまりに踏み込みすぎた。

 

「…………あす──」

「いえ、すみません……押し付けがましかったですよね」

 

 裾から指を離してかぶりを振った。こんなの、暴力と大差ない。

 

「あ、あの……ごめんなさい、やっぱり、音楽室に」

「白金さん」

 

 普段より明瞭に、一音ずつ確かめ直すように呼ばれて踵を返そうとした体がびくりと止まる。構ってほしいみたいだ。自己嫌悪で顔を上げられないでいると、氷川さんがさっきの私のように袖口をそっとつまむ。

 

「丸山さんに白鷺さんに松原さん、それから白金さんと私で、五人分の飲み物を持っていかないといけませんから。お願いです、手伝っていただけませんか?」

「氷川さん……」

「……Roseliaとは、道を分かちますが。でも過ごしてきた日々を無価値として忘れてしまうほど、薄情ではないつもりです。……離れる時点で説得力なんてないでしょうが」

「信じます。……信じてます。いえ──」

 

 氷川さんの声は優しかった。

 私はきっと、触れ得ざるものに触れてしまった。逆鱗か、傷口か。なのにこうして気遣ってくれる姿はそのまま、共にバンドをしてきた中で何度も私たちを助けてくれた彼女と同じものだった。

 

「──知っています。氷川さんは、そう思っていないかもしれませんけど……強くて優しい人だって、知ってるんです」

 

 ふと、思ったことがあった。私たちはずっと彼女を引き止めてばかりで、惜しんでばかりで、送り出す言葉はかけただろうか。

 あんなにも私たちに尽くしてくれた彼女の旅立つ背中を、押そうとしただろうかと。

 

「氷川さん……遅く、なりましたけど」

「はい」

「……したいこと。夢なのか、将来像なのか、存じませんけど……応援します」

 

 彼女の手を取って、だけどまだ少し後ろめたくて、俯いたまま口にした。

 裾をつまんでいた指が解かれて、私の手に重なる。

 

「ありがとうございます」

 

 言葉を返してくれた氷川さんの表情はついぞ見なかったけど。

 固い声だったことは、覚えている。

 

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