猿猴捉月   作:嘘風

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Ifだから許してください


《燐子:3》猿猴捉月

「白金さんとならこれか、と思っていたんです」

 

 珍しく氷川さんの方から飲みに誘ってくれて一も二もなく頷いた。浅草の本家本元ではないけど電気ブランがある、と嬉しそうにしていて、長く私と氷川さんの間にだけ通じていた文学的繋がりをまだ大切にしてくれていることに胸が温かくなる。

 彼女に案内されたバーは清涼飲料水メーカー直営で大きく広かったけど、適度に離れた座席に他のお客さんがいることで却って落ち着けた。人目があるからか「下品」な飲み方の人はいそうにない。テーブルの予約席へ通されて対面で座る。

 ブーツカットパンツに覆われた長い脚──何を着ていけばと聞かれたから私が見たいものをお願いした──を揃え斜めに流して座った氷川さんは……自惚れでなければ、とても楽しそうだった。

 

「もっとも、ここのものはいわゆる『偽電気ブラン』になってしまうのでしょうが……私たちならこちらでもいいか、と」

「偽電気ブラン……そういえば、森見を読んでいましたね」

「覚えていましたか」

 

 ちょっとバツの悪そうに苦笑する氷川さん。確か『夜は短し歩けよ乙女』だっただろうか。

 

「最近読み返しまして……『口に含むと花が咲き』という表現を見て、Roseliaの誰かを連れて行こうかと思ったんです」

「あぁ……」

 

 バツの悪さにも見当がついた。電気ブランを飲んだ湊さんが目をパチクリさせながら「まるでお腹の中がお花畑になっていくよう」なんて感想を零したら面白いかも、と考えてしまった。私も苦笑した。罪悪感とおかしみも氷川さんと等分する。

 備え付けのメニューをふたりで軽く流し見て、氷川さんが通りかかった店員さんを呼び止めた。多少は成長したものの、私はいまだにこういうことが得意じゃない。ちょっぴり申し訳なくて首を竦めている間に注文が進む。

 

「電気ブランの……ストレートと、アーモンドを。白金さんは?」

「私も電気ブランの、えっと、ジンジャー割りを。……あと、チェイサーをふたつ」

 

 電気ブランは度数がキツい。今井さんから「紗夜はお酒強そうで弱いよ」と聞いていて少し心配していたけど、彼女は「ありがとうございます」と微笑んで平然としている。

 ……正直なところ、お酒に弱い氷川さんが想像できなかった。弱いとしてもペースは自分で保てそうというか、潰れるような飲み方をするイメージがない。

 ……いや、今井さんが言うくらいだから弱いのだろうし、事実として青葉さんや羽沢さんも交えて飲んだときに酔い潰れて日菜さんを迎えに呼んだと顛末まで聞かされてるから、そうなんだろうけど。

 私はいまだに、氷川さんのだらしないところは知らないままだった。

 

「氷川さん……その、お酒は強いんですか?」

「いえ、あまり。……まあ今回は電気ブランを味わってみたかっただけですし、白金さんとなら変に調子に乗ってしまうこともないでしょうから。少々、油断はしているかもしれません」

 

 テーブルに両肘をついて組んだ絡めた手の、交差した親指に額を預けて氷川さんは息を吐いた。細く、長い、吐息。流し目、たわんだ笑み。左の薬指をゆっくり屈伸する変わらないクセ。

 あこちゃんの感じていただろう憧れに、今になってぞわりと共感できた。「いつも凛としていてかっこいいオトナの女性」なのに、稀に見せる気怠げな仕草はどことなく男性的で、背徳感……は、ちょっと言葉が強い。いけないものを見ちゃったような、薄暗い魅力があった。

 そう──青いヴェールの向こうを、覗き見る魅力。

 

「……氷川さん」

「はい」

「そういうこと、あんまり……言っちゃダメ、です」

「……似たようなことを羽沢さんにも言われましたね。相手は選んでいるんですが」

「わかっていますけど……でも、ダメです」

「はあ……」

 

 怪訝な顔をされた。

 氷川さんが美人であることを説明しては腑に落ちない顔をされている間にグラスが届いた。冷たく曇ったショットグラスが対面に、泡立つゾンビグラスが私のもとに。それから大きなジョッキになみなみと注がれたお水。……必要だとして、これはこれで飲み切れるかな。

 アーモンドを盛った器も真ん中に置かれ、とりあえずは、という構えになった。

 

「では……何に、乾杯しましょうか」

 

 尋ねると、氷川さんがいたずらっぽく目を細めた。

 

「黒髪の乙女に」

「……歩んだ月日に、しませんか……?」

「なるほど……では、月面歩行のこれからに」

 

 チン、とグラスを触れ合わせた。濃淡の違う蜂蜜色が揺れる。

 月明かりの色、だなぁ。

 ぼんやり思った。

 

「……これは、結構……」

「大丈夫、ですか」

「まだ一口目ですよ。アルコールより思いのほか甘いことに驚いています。前は……」

「前……初めてでは、ないんですか……?」

「……まあ、以前に一度だけ。勉強にと思って有名どころを、ざっくり一通り」

 

 アブサンとか、と名前を挙げられて相槌を打つ。チョイスが教養的でらしい気がした。

 

「……素焼きのアーモンドと合わせてちょうどいいくらいですね」

「ストレート、そんなに甘いんですか……?」

「交換でもしますか?」

「……い、いえ……」

「そう。ジンジャー割りも少し、興味があったのだけれど……」

 

 独り言ちてまた一口、氷川さんはショットグラスを傾けた。思いのほかと言うのなら彼女の飲み方というか……どうしても印象深い学生の頃のイメージより柔らかいと言うか、距離感が近い気がする。

 

「……あの」

「はい」

「あこちゃんとバーに行ったときも、しましたか……? その、回し飲みみたいな……」

「流石にしてませんよ。比較的大衆的なここと違って如何にもなバーをご所望だったので、雰囲気もあってとても」

 

 精一杯格好つけましたよと言う氷川さんは、既に薄っすらと頬を赤らめていた。

 

「歳下に格好つけたいと思うくらいの人情は、私にもあります」

「……じゃあ、私たちにも敬語を外してくれたって、いいんじゃないですか……?」

「今井さんみたいなことを言いますね……」

 

 不貞腐れたような口振り。ちょっとわざとらしいトーンについ笑いがこみ上げる。普段から格好いいのだから、格好つけない姿を見せてくれる方が私には嬉しかった。

 

「……白金さんも敬語じゃないですか」

「……それは、そうですけど……」

 

 なんとなく、はっきり歳下という認識のあこちゃん以外に敬語は外し難い。……うん。

 

「……無理は、よくないですね」

「白金さん、少しずるくなりましたか」

「誰かのせいです……ずっと逃げ回った、誰かの」

「藪蛇でしたね……」

 

 氷川さんはショットグラスを少し深めに傾けた。

 それからしばらく小説の話や、あこちゃんを次にどこへ連れて行こうなんてネタ作りを伺いながら、少しずつ飲み進めた。モスコミュール、ズブロッカ、カシスオレンジ。各々で頼んで互いに分け合って。

 氷川さんは、なんだか目がとろんとしてきた。

 

「……白金さんは……」

 

 思考が深いような、だけど冴えてはいないような。

 そんな面持ちの彼女が口を開いた。

 

「……生まれ変わりを、どう思いますか」

「生まれ変わり……」

 

 大きく飛んだ話題に一瞬追いつけなくて鸚鵡返しする。

 宗教的な輪廻転生よりアニメで見るようなファンタジーを連想してしまうのは性だろうか。転生。死後の世界。いくつかのタイトルがふわふわと浮かんでは消えていくのをまとめ切る前に、氷川さんは言葉を続けた。

 

「……当然、普通は、前世の記憶なんてありません。人格は成長と共に、周囲の影響を受けながら培われる」

「は、はい……」

「であれば……じゃあ、やり直しは。果たして、良いことなのでしょうかね……」

 

 独り言のように呟いて、氷川さんは片肘をついて手の甲に額を乗せた。ゆっくりずり落ちて、腕の半ばを支えにして眠たげに項垂れる。乱れた前髪から除く瞳は茫洋としていた。

 なんの、話だろう。わからない。

 ときどき妙な例え話をする人だから、もしかしたらRoseliaに再加入したことをまだ消化しきれていなくて、私たちのよく知る生真面目さで悩んでいるのかもしれない。

 だけど──だけど。

 この「わからない」が芯か、そうでなくても今まで知らなかった氷川さんの深い一面なんだと直感した。

 

「……もしも」

 

 息を吸う。

 

「もしも……生まれ変わりがあるのなら。私はたぶん、来世でも気弱だと思います」

「しろかね、さん……?」

「同じ魂、ですから。記憶がないのなら、Roseliaに出会って磨かれた心も、きっと引き継げない……でも」

 

 あの日。文化祭の準備に賑わう校舎で、静かに話したとき。私はヴェールの奥にあるものを覗き込まなかった。

 氷川さんが戻ってきてくれてから、少しずつ裡にあるものの輪郭を覚えていった。優しさ。聡明さ。誰も困らないことでなら案外いい加減なこと。実はいたずら好きなこと。相変わらずの自己嫌悪と、だけど徐々に、周りに愛される自分を愛そうと努力していること。

 

「同じ魂、だから。きっとまた、氷川さんと……Roseliaの魂たちと、巡り会おうとする」

 

 あなたを知りたいと思っていた。

 生まれ変わり、輪廻転生──思い当たることは、ある。

 ホームズは言った。「全ての不可能を消去して、最後に残ったものが如何に奇妙な事であっても、それが真実となる」。

 暴くことも、もしかすれば。

 でも、傷つけたいとは思えない。

 それならば、真実でなくていい。

 

「……だから、やり直すことも、生まれ変わることも。悪いとは思いません。同じカルマの繰り返しですから」

 

 偽でいい。空でなく、湖面の月に手を伸ばす。

 

「きっと同じことをします……いま、氷川さんがいて、私たちが幸福なように。前世だって来世だって、きっと……あなたは、どんな形でも、誰かを幸せにしたはずだから」

 

 氷川さんの手を握る。アルコールで互いに体温が上がっていて、指先は熱いような、冷たいような。

 

「……夢の足を引っ張った挙句、無様に死んだとしてもですか」

「きっと……来世の私は、亡くした穴の形をもって。幸福だったと信じて、生きていきます」

「……時間があべこべですよ」

「いいんです。……あこちゃんと見たアニメに、死後の世界をテーマにした作品があるんです。その世界には、主人公よりずっと後に亡くなった人が先に訪れていたりもして……もしかしたら、来世の私は……前世の氷川さんと、お知り合いかもしれませんよ」

「……それは……あぁ、どうかな……」

 

 氷川さんはゆっくりと体を起こして、だけど眠気に抗えないのか腕枕を組んだ。常に見ない仕草。女性的な警戒心が解けてどこか乱暴な、気怠い無防備さだった。

 指先が覗く。

 左手の薬指を、ゆっくりと屈伸するクセ。

 

「氷川さん」

 

 その指に、そっと触れる。

 

「いまは、幸せですか」

「…………自分だけ」

 

 呟きが聞こえる。

 

「……自分だけ、自分、ばかり。申し訳ない……くらい──」

 

 声がゆっくりと寝息に変わっていく。

 波が満ち引きするような、呼吸が聞こえる。

 あどけない寝顔からそれがなくなって初めて、彼女の眉間にかすかな皺があったのだと気づく。あっさり寝入ってしまったのは心を許してくれている証拠なのかな。

 

「……少しくらいなら、寝ててもらっても大丈夫、かな」

 

 触れないように、乱れた前髪をそっと整えた。

 もう少し。

 この波打ち際で、もう少しだけ──

 

 

 




思いつき次第他のキャラ視点も書く予定です
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