焼かれど絶えず   作:水狗丸

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三重県・菰野町編
杉谷さん菰野町出身説を採用しています。


焼かれど絶えず

 春先の某日昼前、天候は小雨。私は一年ぶりに三重県北部に位置する菰野町へやってきた。近鉄四日市駅から湯の山温泉行に乗って20分ほど揺れた先にある菰野駅で下車。初めの目的地は駅から車で15分ほど走った先にある旧引接寺尾高山観音堂である。

 

 同地は修験道の開祖と名高き役行者が巡錫の最中、霊夢に従い釈迦ヶ岳山中に聖徳太子作の千手観音を祀ったことが始まりとされる。村の寺たちは天台宗或いは熊野信仰の混交を経て杉谷寺と総称され栄えたが、永禄11年、織田信長による北伊勢侵攻の際の悉く焼討ちに遭った。その後は廃藩置県や廃仏毀釈を経て、明治5年、杉谷にあった観音寺、引接寺、そして円導寺は慈眼寺という一つの寺となり、尾高観音は同寺の奥の院として守られてきた。

 

 今日の空は鈍色の霧で覆われている。雨を吸った落ち葉を踏み、樹齢300年の檜の列を抜けていく。何度も目を閉じ、嘗て此処に在ったであろう景色を空想する。荘厳な寺、朝霧を抜ける僧兵の背中。猪、羚。銃声、金の音──焼ける杉と寺の群れ。

 

『杉まふく 峯のあらしや谷川の 音もあまねく 御法なるらむ』

 私はここを想う度、小野篁の歌を詠う。聴衆は檜と霧だけだと思いきや、右から林檎を齧ったような音が聞こえてきた。人か、もしや猪かもしれない。斯様に思って振り返ると檜の狭間から時代錯誤な身形をした女性が歩いてきたではないか。角傘に藍の僧衣までは理解が及ぶ一方で太ももを包む黒い下履には眉間に皺が寄る感覚を覚えてしまう。

 

「おっと驚かせて悪かった。懐かしい歌が聞こえたからつい聞き入っちまった。……勝手に聞いたからには、そうだな。『分け登る 尾高の峯の 雲晴れて 向かう朝明の影ぞさやけき』」

 あちらもまた己の身分を示すように小野篁の歌をなぞった。

 一つ深呼吸をすると酔いが覚めていく。より鮮明になったところで私は漸く彼女が見覚えのある恰好をしていることに気が付き、しかし他者の何某に文句をつける権利は無いと敢えて何も問わなかった。足元を見ると草履と素足が少々土を被っている。

 

「お前さん、ここには来たことがあるようだな。他の観光客とは空を見る目が違う」

「去年、ここと慈眼寺。あとは見性寺と湯の山の三嶽寺に」

 彼女は思案に耽ったのか刹那視線を外していた。相手の顔をしっかり見ると白い肌と狐目が目を惹いた。

 

「寺が好きなのか?」

 私はにわかに口を噤んでからより正しい答えで返事した。

 

「寺そのものではなく、そこに在る空気と歴史が好きなのでしょう。御朱印帳だってまだ一冊も埋まっていませんし」

 愛とは目に見えぬが故に具体的な姿を成してない。故に何かと問わればまた答えに窮すると思ったが、彼女はそれ以上訊かなかった。ただ私の答えを受け入れているように映って、気楽なものだ。

 

 それから私は女性を伴って檜の道を抜け奥の院の前に立った。去年来たときは人が多くて長く眺めることはできなかったが、今はもう一人しかいない。私は一人、霧と雨で濡れた寺を歩くことを殊に好んでいる。

 

「かの役行者は岩窟の草庵で霊夢を見、大和国より千手観音を運び安置した。お前さんは知っているかもしれないが、ここ杉谷の地もまた、役行者が名付けたというな」

「以前、この地の住職さんから聞いたところです」

 私はこの杉谷の名を由来を知ったが故に、一層菰野町が気に入り再び足を運んだのだ。まだ見ぬ星、或いはその欠片を見つけるために。雨に濡れた六角堂と此れを飾る緑を暫く眺め、気が済むなり振り返る。女性は手前に置かれていた沿革及び縁起解説の文を眺めていた。この解説の終わりは円導寺の住職佐々木善住坊が根平峠で信長を鉄炮で狙い、失敗し、惨死を遂げた話で〆られている。彼は金のために六角義賢に従ったのか、将又故郷たる杉谷の地を焼かれた報復か。史料の乏しさ故人々は彼への想像を尽かさぬだろう。

 

「杉谷善住坊は、何もなせずに死んだ有象無象の敗北者だ」

 斯様に語る彼女の声はさっきと打って変わって沈んでいた。まるで彼女自身がその人であるかのように。

 

「ですが地元の人々に伝わったということは、彼らにとって杉谷善住坊は名を残す価値のある人だったのでしょう」

 綺麗事ばかりと自嘲しつつ、私は答える。私は目の前にいる人物とよく似た者を切っ掛けにして、改めて見話していた物語に触れたのだ。当然、その過程で火縄銃を手に偉業を成した人物を多く知った。遠藤兄弟、津田監物、往来左京、下間頼簾、鈴木孫一、的場源四郎、そして佐武伊賀。彼らと比べれば杉谷善住坊の功など無いに等しいのかもしれない。

 

「今でも杉谷善住坊の話をしてくれる人がこの町にはいます。彼を否定するのは、その人たちにも失礼でしょうから」

「ふぅむ。それはそうだな。その、急に辛気臭い話をしちまって悪かった……。ところでさ、これから何処に向かう予定だ?」

「杉谷遺跡です」

 尾高高原東端、標高百メートルの丘陵にある遺跡である。平安末期から室町期の墓地跡があり、杉谷仏教文化の反映を示している。

 

「あとは正眼寺にも。彼処には平安期に作られた薬師如来像があって、話によれば信長による兵火に遭った際里の者たちが隠したことで難を逃れた像だそうで」

 正眼寺には他にも菰野藩初代藩主土方雄氏と彼の正室にして織田信長の孫娘玉雄院が嫡男七右衛門の健康を願うため寄進した涅槃図があり、現在は菰野町文化財に指定されている。

 

「そうか、そうか。寺は焼かれど信仰は絶えず、湯の山も復興した。人々の願いは戦火に勝ったんだな」

「それどころか、祭りとして昇華していますよ。毎年十月の三嶽寺の僧兵祭り」

「なおのこといい」

 彼女の声はそれ迄で最も優しく、震えていた。見開かれた栗色の瞳が空へ向く。いつの間にか霧が晴れ、緑の網の目から黄金色の陽光が射し落ち葉を赤く染めていた。

 

『この坂を上った先に、杉谷善住坊が住職を務めていた円導寺がありました』

 その後、嘗て住職さんから聞いた言葉を胸に私は尾高観音を去っていった。

 別れ際の女性の背──根結された髪が鳶が飛び立つように揺れていた。

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