第二王子の婚約者に転生したので、流れに身を任せて気ままに生きていきます 作:シグル
トラ転した。
この一言で結構多くの人は私の状況を察してくれると思う。とても便利な言葉を先人たちは広めてくれたと感謝したいしなんなら金一封でも差し上げたいのだがとりあえずまずは私の話を聞いてもらってもいいだろうか。需要はないかもしれないが私は語りたいので勝手に話すね。
冒頭でも言ったようにトラ転したのだ。
どこにでもあるありきたりな学生生活を送り、漫画、アニメ、ラノベ、二次創作と順調にオタク街道を突っ走り、極々普通の会社に入り、ブラックなのかホワイトなのかいまいちわからない日々を送っていた最中、歩道に突っ込んできたトラックに跳ねられたのだ。多分。
正直その辺りの記憶は曖昧だし、私も詳細は思い出したくないので今は置いておく。これから話す内容にも特に関係ないしね。
とりあえず、そう。あ、これ死んだなと思って暫くよくわかんないところをふよふよしてたら気づいたらベビーベッドに寝かされていたのだ。
とってもふかふかしてるし、なんだか広そうな部屋だし、なんなら天井に吊るされている照明がやたら豪華だったから「ここはきっとお金持ちのおうちなんだな」と察した私はその数日後に認識を改めることになった。
「ルクシア、起きてるかしら?」
ベビーベッドを覗き込んでくる綺麗な女の人がそう言葉を落としてくる。小さな小さな声で囁くように降り注ぐその問いは、寝ている子を起こさないように配慮されていたし、できるだけ怖がらせないようにという優しさがふんだんに込められたものだった。
「あぅあ〜」
「ふふ、おはよう。今日もご機嫌さんね」
「ぁや!」
何を話しても喃語にしかならないのにももう慣れた。だから気にせずあうあう言ってにこにこ笑うのだ。こうしてると無条件に「可愛いわねぇ、いい子ねぇ」と褒められるのだから赤子って素晴らしい。
さて。この綺麗な女の人──まあ言わずもがな私の母親なのだが、見た目がもう日本人じゃない。そして格好から察するに現代でもない。
綺麗に結い上げられた金髪にふさふさのまつ毛に縁取られた蒼眼。本当に産後ですか?と聞きたくなるくらい美しく保たれたそのプロポーションを飾るのはフリルとレースがあしらわれた上品なドレスだ。
私は察した。
これは時代がいくつか遡ったか転生ものによくあるファンタジーな世界線だな、と。そしてこの部屋の内装とやってくる人物──母親以外に若いお姉さんたちがたくさん来る。どこからどう見てもメイドさんですありがとうございます──からただの"お金持ちのおうち"でもないのだ、と。
これらの予想は外れることなく、寧ろ寸分違わず当たっていることになるのだが、それが判明するのは私が二足歩行を始める頃だったりする。
あっお母様、そんないきなり抱き上げられると困ります!心の準備が…はわ、やわらか…いい匂いするぅ…。
✽✽✽✽✽
生まれてから早数年。我が家は公爵家だったと判明した。
貴族なんて遠い国のお話か創作の中だけの存在だったから特に実感もわかなかったんだけど、ある程度成長してから開始された"貴族教育"が否が応でもその事実を突きつけてくる。
テーブルマナー、歩き方、言葉の選び方、会話の進め方、ダンス、楽器、乗馬、刺繍、剣術、国内外の基本情報、周辺諸国との関係、エトセトラ…。
きぞくってたいへん。
思わず舌っ足らずにもなるってもんである。
だがしかし!!!
そんな目も回るほどの忙しさも気にならないほど、今私の心を捕らえて離さないものがあるのだ!
「お嬢様、そろそろ魔術の授業のお時間ですよ」
「はい!」
そう、魔術!
かつて現代日本に生きていた私が夢に見るまでに惹かれていたあの!小さい頃は勿論、大人になっても指パッチンで炎出ないかなとか、ささっと掃除できないかなとか色々と妄想を繰り広げていたけれども!まさか転生先で出会えるとは思わなかったから、魔術の存在に気づいた瞬間は本当にテンション上がりすぎて熱が出たくらいで!
…こほん。
とはいえ、やはりこの世界でも魔術を扱えるのは一部の者だけらしい。適正というか、素質というか。そういう要素もファンタジーらしくて大変よろしいとは思うが、せっかくなら自分も、と思うのは致し方ないと主張したい。
「魔術師として大切なものは、先ずは家柄。次に才能。そして最後に努力である」とは魔術師の祖、ウィリアム・ボルドーの言葉である。
確かに、遺伝子とかもそうだけど、十分な環境が整っているかどうかは学ぶ上で結構重要だものね。
幸い、私はその点はクリアしている。だって公爵家だ。それも最近知ったが、どうやら我が家は結界術に秀でていて国防の一角を担っているのだとか。こうして幼いうちから専門の先生を招いていることからも察せられるが、私にもその才を期待されているらしい。
望むところである。是非とも溢れんばかりの才能を爆発させたい所存。
結界術だけと言わず、炎も水も風も、なんなら治癒魔術だって使えるようになってもいい。──なんて、世の中はそんなに甘くないのだと私は早々に悟ることになるのだが、それはまた別の話だ。
✽✽✽✽✽
さて。そんなこんなで貴族令嬢らしい教育を施されながら、真っ当に愛情を注いでくれる両親と、優しく時に厳しく見守ってくれる使用人たちに囲まれて育っている私だが、これまた貴族令嬢らしく婚約者がいる。
アルベルト=ディ=サルーム第二王子殿下。
そう。もう字面からも分かる通り第二王子だ。この国で、上から数えたほうが早い存在。いや、私も上から数えたほうが早くはあるけどね。限度っていうものがあるでしょう?
紹介されたときはびっくりした。
よく手入れの行き届いた柔らかな金髪に、青空をそのまま閉じ込めたのかと疑うほどの美しい蒼の双眼。薔薇色に染まった頬は幼児特有の柔らかさときめ細やかな肌をしていて思わず手が伸びそうな程だった。
まあつまり。総評:とても可愛らしい天使のような男の子。
母親同士が友達だったらしく、お互いの子どもに会いたいという共通の目的の元開かれたお茶会で「そこまで相性も悪くなさそうだし…え、婚約させちゃう?」ときゃいきゃいはしゃぎながらトントン拍子に決めた、らしい。お花を飛ばしたお母様に聞いた。
第二王子の婚約者そんなノリで決めていいの?と思ったが、ちゃんと国益はあるのでいいのだろう。
前述の通り、我が家は結界術に秀でた血筋だ。
お父様が張る結界はとても硬く、しかも持続性が高い。有事の際には城を中心に首都を覆ったというのだから、範囲に関しても他の魔術師の何段も上をいく。
お母様の生家は封印術に特化しているようで、国のどこかに封印されている凶悪な魔物の監視を代々行っているらしい。例に漏れずお母様も国を代表する封印術の使い手だ。
とはいえ、二人とも無くしたり壊したりしたくないものをしまっている部屋の扉だったり厨房の戸棚の一角だったりと、サルーム国一と謳われる術師としてはもったいない使い方をしているのだが。
ちなみに前者には、婚約者時代に互いに贈りあったプレゼントや私が書いた絵が中心にしまわれているらしい。多分家宝とかそれに類するものもあるが、比率としては9:1くらいだろう。ちなみに1の方が家宝の割合である。それでいいのかと思わなくもないが、本人たちの好きにすればいいんじゃないかな。そして厨房の戸棚だが、私の記憶が正しければあそこには包丁が収納されていた筈だ。登録者は自由に開け閉めできるとのことだが、わざわざそんな仕組みになったのはもしかしなくても私が原因。いや違うの。小さい頃ってなんでもかんでも開けたくなるでしょう?その好奇心を厨房でも発揮して包丁が収納されているところを開け放っただけなの。だから決して危険行為に及んだわけでは…。
…こほん。まあ小さな子ども()がいるんだもの。万が一事故があっては目も当てられないということなのだろう。そこまでやんちゃをするつもりはないが、これも両親の愛だ。受け入れよう。
とまあ話は逸れたが、結界術と封印術に長けた両親から生まれた私も、その恩恵を余すことなく受けていた。つまり結界も封印もお任せあれなハイブリッドお嬢様になったのだ。一人でどちらもできるなんてお得だね。そりゃ国内に留めておきたいし、なんなら囲っておきたい存在だろう。そして我が家にとっても相手が第二王子ならば将来安泰言う事無し。どちらの家にもメリットがあるのだ。
ちなみにどんなに修行を積んでも炎も水も風も起こせなかったから、今は結界そのものに条件を付与できないか検証中だったりする。いつか結界ごと浮いたりできないかな。
✽✽✽✽✽
公爵令嬢で第二王子の婚約者となった私は察した。ここ悪役令嬢ものの世界線ね、と。そのうち王立学園を舞台にヒロインと攻略対象たちの恋愛ドラマが始まって最終的に悪役令嬢として卒業記念パーティーで断罪からの国外追放ルートに突入するのね、と。
いいわいいわ、私元は庶民だもの。両親と使用人たちが心配だけど、国にとっても貴重な才ある結界術師と封印術師だからそう簡単に切り捨てられることはないだろう。娘への仕打ちに怒って国出てくかもしれないけど。使用人たちも、今から次の就職先を探しておけばもしものときに路頭に迷わなくて済む。
うん、いける。
一つ頷いた私だったが、ここではたと気づく。果たしてあの婚約者殿が断罪なんてそんな真似をするだろうか、と。
金髪蒼眼の大層可愛らしい少年は、年を経るごとに端正な顔立ちへと成長を遂げた。なんなら貴方本当に10代ですよね?と聞きたくなる色気まで感じる瞬間もある。そして顔だけではない。自分の地位にあぐらをかくわけでも鼻にかけるわけでもなく、重臣や使用人とも円満な関係を築き、日々剣術と魔術の鍛錬に励んでいる。私のことも放置するでもなく、かと言って束縛するわけでもない適度な距離感で接してくれている。要所要所でアクセサリーやお菓子を贈ってくれるし、なんならお忍びで城下やピクニックに出かけたこともあった。そう。ちゃんと婚約者をしているのである。
顔と声と人柄がいいのとついでに実家も太いので大層おもてになるのが玉に瑕だが、王子なのだから国民から好かれてなんぼだろうし、なんなら狙ってにこにこしてるときもあるから我が婚約者殿はきっと世渡りが上手なタイプなんだなと勝手に解釈している。
そんなこんなでちゃんと婚約者をしつつ数年が経ち、いよいよ王立学園に入学する時期になり一人気合いを入れ直して正門を潜った私は──。
──特に何か起こるわけでもなく順調に進級して卒業していく運びとなった。
あれ?ヒロインは?悪役令嬢は?卒業記念パーティーで断罪からの国外追放ルートは?
確かに平民出身の女子生徒はいた。とてもいい子で真面目に勉学に励んでいたし、なんなら私とはお友達になった。でも我が婚約者殿とは恋愛のれの字も始まらなかったし、他の男子生徒とも始まらなかった。むしろ恋愛よりも魔術楽しい!って子だった。わかる。魔術楽しいわよね。私も他の魔術がからっきしだったから結界術と封印術を極めてる最中だし。
他になにか目立った出来事はなかったのかと言われれば、婚約者殿をめぐったキャットファイトに巻き込まれたことと──詳細は記憶から消した。とりあえず恋する乙女は怖いってことだけは覚えてる──我が婚約者殿が彼のご友人に「政略結婚じゃなくて恋愛結婚がしたいんだ」って言っていたくらいだ。つまり些事。
…うん、まあいいか。別に進んで断罪されたいわけでもないし。今の環境最高だし。好きなだけ魔術を極めることができるとか本当に素晴らしいと思う。
よしじゃあこのままゆるゆると生きるとしますか、と断罪からの国外追放ルートから路線変更し、ついでに何故か実家ではなく城の一角に住居を移すことになった矢先。私はやっと自分がどの世界線に生まれ落ちたのかを理解したのである。
「あ!ルーシャ義姉さん!」
この国で唯一、私を"ルーシャ"という愛称で呼ぶ声が聞こえて振り返る。
長く伸びた青い髪をリボンの髪飾りで一つに纏めた可愛い男の子。今よりもうんと幼かった頃、"ルクシア"と呼べずに"ルーシャ"と舌っ足らずに紡がれたあの時から、私はこの子限定で"ルーシャ義姉さん"と呼ばれていた。
「ロイド様。ご機嫌よう」
ロイド=ディ=サルーム第七王子殿下。我が婚約者殿の弟君で──私が生前、社畜時代に見ていたアニメの主人公である。
✽✽✽✽
『転生したら第七王子だったので、気ままに魔術を極めます』
漫画化もアニメ化もしていた、ショタが主人公のなろう系ファンタジー小説。魔術に魅せられた前世貧乏魔術師が第七王子に転生して自由気まま興味の向くまま魔術を極めていく、主人公最強系のお話だ。
私はアニメしか見ていなかったけど、作画がとても綺麗で好きだった。何より主人公が強いから安心して見ていられたのがいい。ハラハラドキドキ系って落ち着いて見れなくてちょっと苦手だったから。
それにしても、と先程までキラキラした瞳でこちらを見上げてきた主人公様──基ロイド様を思い出す。
…なんで気づかなかったかなぁ!
ロイド様の生後すぐに起きた爆発騒動とか。この城の禁書庫に封印されている魔物についてとか。第六王女殿下のアリーゼ様が使役しているレッサーフェンリルとか。やたら剣術に長けている戦闘系メイドヒロインのシルファとか。気づく要素はこれまでにも沢山あったのに…。我が婚約者殿だって結構な頻度で登場してたんだから名前を聞いた時点で気づけ私。前世で夢見た魔術に浮かれてるんじゃない。
…いや、うん。一回落ち着こう。
侍女に頼んで淹れてもらった紅茶に口をつける。うん、さすが王宮勤めの侍女。とっても美味しい。一緒に用意してくれた焼菓子は後でいただこう。
音を立てないようにカップをソーサーに戻す。あくまでも優雅に。貴族令嬢として、そして第二王子殿下の婚約者として、常に誰かに見られていると意識していなくては。たとえ今、この部屋に私一人しかいなかったとしても。
…。
……。
うん、大丈夫。落ち着いてきた。
ここが創作の世界だったとしても私にとっては紛れもなく現実だし、周囲の人たちだって皆生きているのだから。これまで通り生活していけば大丈夫。
それにしても、アニメで見た限りアルベルト様に婚約者がいた描写はなかったけれど、原作の方では登場していたのだろうか。主人公はあくまでロイド様だから、そこまで細かい設定を出さなかった可能性は十分考えられる。あるいは、学生時代に恋愛結婚がしたいと仰っていたから本編開始前に婚約を解消したか。父と母が健在なら最悪私はいなくてもいいし、長い目で見て国益のために囲っておきたいなら別に第二王子の婚約者でなくてもいいものね。なにせこの国には王子が7人いる。第一王子は他国の姫君に嫁いできてもらう可能性が高いが、他の王子たちは国内外の有力貴族令嬢であれば言い方は悪いが誰でもいいだろう。
まあ、兄君の元婚約者を弟君に充てがう、なんて外聞があまり良くないからしないかもしれないけれど。とにかく、これに関しては流れに身を任せよう。白い結婚になったとしても、まあ別に構わないし。
ロイド様のキラキラお目目はあれね、私の結界術と封印術に興味があるからだわ。純粋に好いてくれているのもわかるんだけど、魔術の話をしているときの瞳の輝きが段違いだもの。私も私なりに極めていたつもりだったけれど、ロイド様ほどの熱は向けられない。さすがに現在進行系で燃やされてるのに「素晴らしい魔術だ…!」とはならないし、効果を知りたいからって自分の身体に傷ができるのを無防備に受け入れることはできない。魔術馬鹿の一言で終わらせていいのか疑問である。
それよりも、今後のストーリーだ。
アニメしか見てなかったから特定の時期のことしかわからないけれど、特に誰かが亡くなるような描写はなか、った…いや、いた。いたわ…。
思わず額を手で覆って項垂れる。もういいや。今だけお嬢様辞めよう。
えっと、確か暗殺者ギルドのリーダーでロードスト次期領主のジェイドが魔族に身体を乗っ取られてたわよね。あれ、もう領主なんだっけ?まあ今は関係ないから置いておくとして。それで領民たちも魔界から連れてこられた配下の魔人たちに身体を乗っ取られていたはず。
身体を乗っ取られたら心が死んでしまうとアニメでは言っていた。追い出したとしても、その人の命を助けることはできない。
──今なら、間に合うのだろうか。
アニメだとロイド様は10歳だったから、まだあと数年は時間があるはず。ああでも、いつ乗っ取られたのか覚えてないし、暗殺者ギルドの拠点もわからない。そもそもジェイドは瞬間移動の
"ノロワレ"とは、蔑称だ。
生まれ持った魔術の性質が特異で、特に周囲に害を成す者たちがそう呼ばれる。暗殺者ギルドは、ノロワレと蔑まれ爪弾きにされた者たちの集まりだった。
そんな、きっと人間不信になっているだろう人たちが私の話を聞いてくれるだろうか。いやそもそも、直接会ってなんて言うの?今後ジェイドの身体が魔族に乗っ取られますって?そんなの誰が信じるっていうの。
何も言わずにどうにか画策して阻止する?現実的じゃないし、なにより小細工なんかしてこちらが目をつけられたらどうするの。下手したら国が滅ぶでしょう。…ああいや、元々国を滅ぼすつもりだったんだっけ。ジェイドの瞬間移動能力が目当てだったのは覚えてるんだけど。
だめだ。そこまで覚えてない。
ぎり、と食いしばった歯から音がなって慌てて力を抜いた。一度深く呼吸をして、身体の強張りを解していく。乾いた口内を潤すために冷えてしまった紅茶に手を伸ばし一気に煽った。
ジェイドの身体を乗っ取ったのはギザルムという名前の魔族だった。私はダンジョンに出てくる魔物しか知らない。その上位種である魔人よりもさらに上の魔族を、果たして相手取ることができるのか。
アニメのロイド様もアルベルト様も、他のみんなだってあんなに苦戦してたのに?私の武器は結界術と封印術だ。どう考えたって防御に全振りで、攻撃力なんてたかがしれている。
…でも、じゃあ、諦めるの?死んでしまうってわかってるのに、どうにか足掻けば助けられるかもしれないのに、見殺しにするの?
「…はぁ」
堂々巡りになる思考を一旦止める。
やりたいことと実現できることが一致しないなんてよくあることだ。今でも指パッチンで炎とか水とか風を出したいしなんなら瞬間移動だってしたい。でもできない。実現できるだけの実力がないから。
ジェイドのことだってそう。
私は、彼個人のために自分の命を賭けることはできない。
貴族令嬢として所謂ノブレスオブリージュは幼少期から叩き込まれているし、なんならアルベルト様の婚約者になったときからその心構えも追加で叩き込まれている。私の命の使い所は多々あるけれど、少なくとも"そこ"ではないことだけは確かだった。
「この件は一旦保留ね…」
ぽつりと溢れた言葉は、誰に拾われることなく落ちていく──筈だった。
「ルクシア?」
「?!」
私一人しかいない筈の空間に、第三者の声が響く。思わぬ出来事に肩が大きく跳ねた。
「すまない、そんなに驚くとは思わなくて」
「殿下…」
「声は掛けたんだけどね、返事がなかったから」
すまなかった。
眉を下げて心底申し訳なさそうにするのは我が婚約者殿であるアルベルト殿下だった。
しまった、外の音が全然入ってきてなかった。
扉付近で立ち止まったまま動かない殿下に、こちらも申し訳なくなってくる。
先程辞める宣言をした自分の中のお嬢様を連れ戻しつつ立ち上がる。
「こちらこそ気づかず失礼いたしました。どうぞ、お入りくださいな」
「ありがとう」
部屋に足を踏み入れローテーブルに近づいていく殿下と、二人分の紅茶やクッキーを手に続く侍女。元々あった紅茶と焼き菓子を片して手早くセッティングしていく侍女の動きに無駄はない。
あっという間に小さなお茶会の準備が整った。
「なにか考え事かい?」
「え?」
「お菓子に手をつけていないようだったから」
いつもなら紅茶を半分飲んだあとにお菓子を食べるだろう?
柔らかく笑いながらカップに口をつけるアルベルト殿下を呆然と見つめる。
そんなに、優しい顔をしないでほしい。自分でも気づいていなかった私の癖を、当たり前みたいに口にしないで。
「──…」
ロードストへは、ロイド様だけでなくこの方も出撃するのだと、今唐突に思い出した。
暗殺者ギルドの面々とロードストへ向かったロイド様を、攫われたのだと勘違いして他の面々を引き連れて助けに行くのだ。そしてロードストの惨状を知り、魔人たちとの戦いに発展していく。
あの戦いで、魔人と乗っ取られた人たちを除けばこちら側の陣営に死者は出なかった。それは間違いない。
もし。私がジェイドと接触できて、彼を救うことができたとして。そのあとはどうなるのだろう。ギザルムがジェイドの能力を諦めるとは思えない。このままならまだロードスト領ひとつで事は済むけれど、もしもっと被害が拡大すればどうなる。もし相手の戦力が上回ってこちら側の誰かが怪我を、それこそ最悪死んでしまったら。
…そうなったら、私は私自身が許せなくなる。
ジェイド及びロードストの民たちの命とアルベルト殿下を始めとする皆の命なら、私は迷うことなく後者を選ぶだろう。
だって、私は──…。
私の視線に気づいたのか、伏せていた目を上げてこちらを見る殿下と視線が交わる。一度瞬きをした後、殿下はカップをソーサーに戻してそのままクッキーへと手を伸ばし、何を思ったのかそのままこちらへ差し出してきた。
「ルクシア。はい、あーん」
「…えっぁ、殿下?」
「前に好きだって言っていただろう?ほら」
にこやかな、それでいてこのまま食べるまで決して引かないという圧を含んだ表情に小さく口を開く。僅かにできた隙間にクッキーが差し込まれて反射的に閉じれば、殿下の指先に唇が触れたのがわかった。
「っ、」
殿下は最近、私と二人のときはいつもつけている手袋を外すようになった。特に何かを言われたわけではないし私からも何も言わないけれど、こういうとき困ってしまう。
顔が熱い。私、今絶対真っ赤だわ。
触れたのはほんの一瞬なのに。クッキーの方がしっかりと食んでいるのに。どうして、こんなにも殿下の指の感触がしっかりと残っているの。
もはや味のわからないクッキーを無心で咀嚼していれば、正面に座る我が婚約者殿は満足そうに笑っていた。
「何をそんなに思い悩んでいるのか無理に聞いたりはしないけど、せめて僕といる間だけは、僕のことで頭をいっぱいにしていてほしいな」
…。
……。
……はっ!
気づけば夕食も湯浴みも終えて私室のベッドの中だった。
え、あれから記憶がない。何話したっけ。殿下が終始楽しそうにしていたのは覚えてるんだけど…って。
「〜〜〜っ」
叫び出したくなる衝動をなんとか抑えて、それでもやっぱり声が出てしまいそうで枕に顔を押し付けた。
なん、な、え…?なにあの人。なにあの顔。なんであんなに楽しそうに…というより。なに、あの目。
「あっつい…」
目は口ほどに物を言う、なんて諺があるけれど、あんな…心底大事なものを見るみたいな。
勘違いしそうになる。
殿下は恋愛結婚がしたいはずで。私は政略結婚相手で。だから、その相手は私じゃないのに。なのに、なんで。
──なんであんな目で私を見るの。