おねいさんお出ししておきますね   作:ジョン・アラサーフェチ

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第1話

『────おねいさんの部屋は、決して覗かないこと────』

 

 

 医師から告げられた奇妙な条件が、頭の片隅で警鐘のように鳴り響いていた。

 だが、今の僕にはそれを深く怪しむ気力すら残っていない。

 

 

 そんなこんなで僕は、謎の女性──"おねいさん"に連れられ、都内の一等地にそびえ立つ高級マンションのエレベーターに乗っていた。

 上昇する浮遊感と共に、僕の心は重力に引かれるように沈んでいく。

 

 

 密室に漂うのは、彼女から香る甘く上品な匂いだけ。

 沈黙に耐えきれなくなったのか、あるいは僕の態度が気になったのか、彼女が口を開いた。

 

 

「ねえ」

「はい……?」

 

 

 視線は床に落としたまま、かろうじて返事をする。

 

 

「聞かないの? わたしが何者だーとか、あの病院はどうなってんだーとか」

 

 

 彼女の声は弾んでいた。まるでこれから遊園地にでも行くかのような明るさだ。

 だが、僕にとっては拷問台へ連行されているのと大差ない。

 

 

「……いえ別に」

「どうして?」

「……だって、怖いですし……」

 

 

 素直な感想だった。

 怪しい治療、謎の美女、そして『部屋を覗くな』という禁忌。

 これだけの要素が揃っていて、怖くないわけがない。

 

 

「あっはは、それってわたしが美人だから?」

 

 

 自分で言うのか、というツッコみは喉元で止まった。

 事実、彼女は美人だ。

 悔しいが、見惚れるほどに。

 だが、僕の恐怖の根源はそこではない。

 

 

「いえ、普通に、女性の方なので……」

「そこからか!」

 

 

 彼女がずっこける気配がした。

 

 

「すみません……」

「でも、気になるよね? わたしのこと」

 

 

 覗き込むように顔を近づけられ、僕はあわてて身を引いた。

 

 

「…………まあ、はい」

「よしよし、よかった。そこがいいえだったら、わたしも困っちゃうところだった」

 

 

 彼女は満足げに頷くと、少しだけ声を潜めた。

 

 

「まあ立場上、私のことはあんまり話せないんだけどね」

 

 

 その言葉が、余計に謎を深める。

 やはり、何か裏があるのだろうか。

 

 チン、と軽やかな電子音が鳴り、エレベーターが目的の階に到着した。

 鏡のように磨かれたドアが静かに開く。

 

 

「さ、こっち」

 

 

 おねいさんに促され、僕は重い足取りで廊下へと踏み出した。

 

 ふかふかの絨毯が足音を吸い込む。静かすぎる廊下は、ここが生活の場であることを忘れさせそうだ。

 彼女はある一室の前で足を止め、電子キーを操作しながら何気ない口調で言った。

 

 

「私はごくごく普通のパートの主婦、綾香だよ」

「主婦!?」

 

 

 開錠の電子音と同時に放たれたその言葉に、僕は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。

 静かな廊下に僕の声がこだまする。

 

 

 主婦?

 パート?

 え、じゃあ旦那さんは?

 この治療は?

 

 

「ちょ、声大きいってば」

「あ、すみません……いや、でも」

 

 

 混乱する僕を尻目に、彼女──おねいさんは「どうぞ」とドアを開けて招き入れる。

 色々大丈夫なのかそれ……

 倫理的にも、法的にも、そして僕の身の安全も。

 

 

 新たな不安を抱えながら、僕は恐る恐るその敷居を跨いだ。

 

 

 着いた部屋は、シンプルながらも高級感のある内装だった。

 壁も床も天井も、白を基調としたミニマルなデザイン。

 

 

 豪華すぎる……

 僕が住んでいたアパートとは、比べ物にならない。

 緊張の面持ちのまま、リビングを見回す。

 

 

 そして、見つけた。

 

 

 リビングの奥。

 それは、周囲が白を基調としている中で、周りの壁に馴染むシンプルなドアだった。

 おねいさんのミニキャラが描かれた「おねいさんの部屋(ヒミツ)」と書かれた木製のプレートがかけられている。

 

 

「おねいさんの部屋って、あれかよ……」

 

 

 鍵はかかっていないように見える。

 むしろ開けろと言っているような演出に、思わず苦笑が漏れる。

 まあ、やるなと言われたら、やらないけど。

 

 

「疲れたでしょ。まずは荷物を置いたら?」

 

 

 おねいさんの声が、静かな部屋に響いた。

「はい」とだけ答え、僕は大きなスーツケースを引きずりながら部屋の奥へと進んだ。

 

 

 慣れない環境に戸惑い、僕はしばらく広いリビングの真ん中で棒立ちになっていた。

 モデルルームのように生活感のない空間に、薄汚れたスーツ姿の自分が異物のように混入している。居心地が悪いなんてものではなかった。

 

「そんなところで突っ立ってないで、楽にしていいよ」

 

 キッチンの方から、おねいさんの明るい声が飛んでくる。

 楽にしろと言われても、この高級そうな革張りのソファに腰を下ろす勇気はない。

 かといって、突っ立っているのも落ち着かない。

 

 僕はそそくさと部屋の隅へと移動した。

 壁と床の角。

 そこだけが、今の僕に許された安住の地のように思えた。

 フローリングに直に座り込み、膝を抱えて小さくなる。

 

 そうして背中を丸めていると、不意に視界に影が落ちた。

 顔を上げると、おねいさんが僕のすぐ目の前にしゃがみ込んでいた。

 

 

「……あの」

 

 

 至近距離にある美貌にドギマギして身を引こうとすると、彼女はさらに顔を寄せてきた。

 

 

「くんくん」

 

 

 鼻をひくつかせ、僕の匂いを嗅ぐような仕草をする。

 彼女からは甘く上品な香りが漂ってくるのに対し、僕からは淀んだ空気が漏れ出している気がした。

 数秒後、彼女は顔を離すと、にこりともせずに言い放った。

 

 

「くさい」

「えっ……」

 

 

 あまりの直球に、言葉が詰まる。

 

 

「ひ、ひどい……」

「事実だもん」

 

 

 まあ、ここ数日まともに風呂に入っていないのは事実だ。

 自分でも薄々気づいてはいたが、初対面の異性にそこまでストレートに言われると、さすがに傷つくものがある。

 

 

「ほら、おいで」

 

 

 おねいさんは立ち上がると、僕に向かって手を差し伸べた。

 

 

「いや、あの……」

「ほら、立って」

 

 

 躊躇う僕の手を、彼女は強引に掴み取った。

 柔らかく、温かい手のひら。

 その温もりに触れた瞬間、僕は反射的に手を引っ込めようとした。

 

 

「あの、僕の手も……その、きれいじゃないかもなので……」

 

 

 汚いものを触らせてしまったという罪悪感が、胸を刺す。

 だが、おねいさんは僕の手を離さなかった。むしろ、逃がさないと言わんばかりに力を込める。

 

 

「だったら洗えばいいでしょ。おいで」

 

 

 有無を言わせぬ力強さで、僕は部屋の隅から引き剥がされた。

 そのまま手を引かれ、連行された先は脱衣所だった。

 

 

 広々としたバスルームからは、すでに湯気が立っている。

 あろうことか彼女は袖をまくり、一緒に入ってきそうな勢いだ。

 

 

「背中流してあげよっか?」

「け、結構です! 自分で洗えます!」

 

 

 必死に断ってドアを閉めると、外からは楽しげな笑い声が聞こえてきた。

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