『────おねいさんの部屋は、決して覗かないこと────』
医師から告げられた奇妙な条件が、頭の片隅で警鐘のように鳴り響いていた。
だが、今の僕にはそれを深く怪しむ気力すら残っていない。
そんなこんなで僕は、謎の女性──"おねいさん"に連れられ、都内の一等地にそびえ立つ高級マンションのエレベーターに乗っていた。
上昇する浮遊感と共に、僕の心は重力に引かれるように沈んでいく。
密室に漂うのは、彼女から香る甘く上品な匂いだけ。
沈黙に耐えきれなくなったのか、あるいは僕の態度が気になったのか、彼女が口を開いた。
「ねえ」
「はい……?」
視線は床に落としたまま、かろうじて返事をする。
「聞かないの? わたしが何者だーとか、あの病院はどうなってんだーとか」
彼女の声は弾んでいた。まるでこれから遊園地にでも行くかのような明るさだ。
だが、僕にとっては拷問台へ連行されているのと大差ない。
「……いえ別に」
「どうして?」
「……だって、怖いですし……」
素直な感想だった。
怪しい治療、謎の美女、そして『部屋を覗くな』という禁忌。
これだけの要素が揃っていて、怖くないわけがない。
「あっはは、それってわたしが美人だから?」
自分で言うのか、というツッコみは喉元で止まった。
事実、彼女は美人だ。
悔しいが、見惚れるほどに。
だが、僕の恐怖の根源はそこではない。
「いえ、普通に、女性の方なので……」
「そこからか!」
彼女がずっこける気配がした。
「すみません……」
「でも、気になるよね? わたしのこと」
覗き込むように顔を近づけられ、僕はあわてて身を引いた。
「…………まあ、はい」
「よしよし、よかった。そこがいいえだったら、わたしも困っちゃうところだった」
彼女は満足げに頷くと、少しだけ声を潜めた。
「まあ立場上、私のことはあんまり話せないんだけどね」
その言葉が、余計に謎を深める。
やはり、何か裏があるのだろうか。
チン、と軽やかな電子音が鳴り、エレベーターが目的の階に到着した。
鏡のように磨かれたドアが静かに開く。
「さ、こっち」
おねいさんに促され、僕は重い足取りで廊下へと踏み出した。
ふかふかの絨毯が足音を吸い込む。静かすぎる廊下は、ここが生活の場であることを忘れさせそうだ。
彼女はある一室の前で足を止め、電子キーを操作しながら何気ない口調で言った。
「私はごくごく普通のパートの主婦、綾香だよ」
「主婦!?」
開錠の電子音と同時に放たれたその言葉に、僕は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
静かな廊下に僕の声がこだまする。
主婦?
パート?
え、じゃあ旦那さんは?
この治療は?
「ちょ、声大きいってば」
「あ、すみません……いや、でも」
混乱する僕を尻目に、彼女──おねいさんは「どうぞ」とドアを開けて招き入れる。
色々大丈夫なのかそれ……
倫理的にも、法的にも、そして僕の身の安全も。
新たな不安を抱えながら、僕は恐る恐るその敷居を跨いだ。
着いた部屋は、シンプルながらも高級感のある内装だった。
壁も床も天井も、白を基調としたミニマルなデザイン。
豪華すぎる……
僕が住んでいたアパートとは、比べ物にならない。
緊張の面持ちのまま、リビングを見回す。
そして、見つけた。
リビングの奥。
それは、周囲が白を基調としている中で、周りの壁に馴染むシンプルなドアだった。
おねいさんのミニキャラが描かれた「おねいさんの部屋(ヒミツ)」と書かれた木製のプレートがかけられている。
「おねいさんの部屋って、あれかよ……」
鍵はかかっていないように見える。
むしろ開けろと言っているような演出に、思わず苦笑が漏れる。
まあ、やるなと言われたら、やらないけど。
「疲れたでしょ。まずは荷物を置いたら?」
おねいさんの声が、静かな部屋に響いた。
「はい」とだけ答え、僕は大きなスーツケースを引きずりながら部屋の奥へと進んだ。
慣れない環境に戸惑い、僕はしばらく広いリビングの真ん中で棒立ちになっていた。
モデルルームのように生活感のない空間に、薄汚れたスーツ姿の自分が異物のように混入している。居心地が悪いなんてものではなかった。
「そんなところで突っ立ってないで、楽にしていいよ」
キッチンの方から、おねいさんの明るい声が飛んでくる。
楽にしろと言われても、この高級そうな革張りのソファに腰を下ろす勇気はない。
かといって、突っ立っているのも落ち着かない。
僕はそそくさと部屋の隅へと移動した。
壁と床の角。
そこだけが、今の僕に許された安住の地のように思えた。
フローリングに直に座り込み、膝を抱えて小さくなる。
そうして背中を丸めていると、不意に視界に影が落ちた。
顔を上げると、おねいさんが僕のすぐ目の前にしゃがみ込んでいた。
「……あの」
至近距離にある美貌にドギマギして身を引こうとすると、彼女はさらに顔を寄せてきた。
「くんくん」
鼻をひくつかせ、僕の匂いを嗅ぐような仕草をする。
彼女からは甘く上品な香りが漂ってくるのに対し、僕からは淀んだ空気が漏れ出している気がした。
数秒後、彼女は顔を離すと、にこりともせずに言い放った。
「くさい」
「えっ……」
あまりの直球に、言葉が詰まる。
「ひ、ひどい……」
「事実だもん」
まあ、ここ数日まともに風呂に入っていないのは事実だ。
自分でも薄々気づいてはいたが、初対面の異性にそこまでストレートに言われると、さすがに傷つくものがある。
「ほら、おいで」
おねいさんは立ち上がると、僕に向かって手を差し伸べた。
「いや、あの……」
「ほら、立って」
躊躇う僕の手を、彼女は強引に掴み取った。
柔らかく、温かい手のひら。
その温もりに触れた瞬間、僕は反射的に手を引っ込めようとした。
「あの、僕の手も……その、きれいじゃないかもなので……」
汚いものを触らせてしまったという罪悪感が、胸を刺す。
だが、おねいさんは僕の手を離さなかった。むしろ、逃がさないと言わんばかりに力を込める。
「だったら洗えばいいでしょ。おいで」
有無を言わせぬ力強さで、僕は部屋の隅から引き剥がされた。
そのまま手を引かれ、連行された先は脱衣所だった。
広々としたバスルームからは、すでに湯気が立っている。
あろうことか彼女は袖をまくり、一緒に入ってきそうな勢いだ。
「背中流してあげよっか?」
「け、結構です! 自分で洗えます!」
必死に断ってドアを閉めると、外からは楽しげな笑い声が聞こえてきた。