震える手でノブを回すと、鍵はかかっていなかった。
ゆっくりと隙間を広げ、僕は息を飲んでその光景を覗き込んだ。
その部屋はリビングの明るさとは隔絶され、ひどく冷たい静寂が支配していた。
微かに湿った、人工的な香りが鼻腔を突く。
「えっ……」
そこにいたのは、昼間僕に優しく微笑みかけてくれる、あのおねいさんではなかった。
「これは、一体……?」
無数のチューブに繋がれた"おねいさん"──いや、"おねいさんだった物体"が、ガクリと首を垂れていた。
歯科医院のような椅子に座り、眠っているように動かない。
その傍らでは、先ほどの男が、彼女の後頭部から伸びたケーブルを自身のノートPCに繋ぎ、流れるログを見ながら無表情にキーボードを叩いていた。
そして。
僕を出迎えたのは、気まずそうに頭を掻いている人物だった。
ヨレヨレのジャージを着た、ひとりの女。
「……え、誰?」
瓶底のような分厚い眼鏡。
手入れされていないボサボサの髪。
猫背で、どこか卑屈なオーラを全身から放っている。
街ですれ違っても、記憶にすら残らないであろう、地味で冴えない容姿の女性。
僕の問いかけに、女は深いため息をつくと、聞き覚えのある――毎日僕を励まし、喘ぎ、愛を囁いてくれたあの"声"で言った。
「あーあ……だから覗くなって言ったのに」
「え……その声……おねい、さん?」
脳が理解を拒絶する。
美貌の美女と、目の前の冴えない女。
共通点は声だけ。
「自己紹介、し直したほうがいいかな? 私は綾香……の中の人。当院の医療事務兼、清掃員の田中です」
「中の、人……?」
「そ。君が必死に腰を振ってたその美人は、遠隔操作型の生体アンドロイド。最新鋭の医療機器ってわけ」
田中と名乗った女は、チューブに繋がれた"おねいさん"の頬を、ぺちぺちと無造作に叩いた。
「なんで、こんな……?」
「院長の趣味よ。『ブサイク救済プログラム』とか言ってたかな」
彼女は眼鏡の位置を指で直し、淡々と語り始めた。
「世の中、結局見た目が全てでしょ? 君だって、相手が私みたいなドブスだったら、悩みなんて打ち明けなかったはず」
「……」
「だからガワ(見た目)だけ最高品質を用意したの。でも、中身のAIはまだ未完成だから、操作担当(オペレーター)が必要だった。そこで白羽の矢が立ったのが、コミュ障で彼氏いない歴=年齢、おまけに金欠だった私」
彼女は自嘲気味に笑う。
「条件は簡単だった。『患者を愛せ』。それだけ」
「愛せ……?」
「そう。私みたいなブスが普通に生きてたら、誰からも愛されないし、誰かを愛する資格もない。でも、この"綾香"という最強のスキンを被れば、誰かに必要としてもらえる」
彼女は立ち上がり、僕の方へと歩み寄ってきた。
ジャージ姿の彼女からは、あの上品な香水の匂いはしない。湿布のような生活感のある匂いがした。
「君が扉を開けたのは、院長の想定通り。ここからが本当の実験(テスト)なんだって」
「テスト……」
「君は、"綾香"を愛してたよね? 優しくて、話を聴いてくれて、体を許してくれる美女を」
彼女は僕の胸元に指を突きつける。
「その中身が、こんな冴えないオバサンだと知っても――君のその『愛』は本物か? ってね」
彼女の瞳が揺れていた。
挑発するような口調とは裏腹に、その目は怯えているように見えた。
拒絶されることを、汚物を見る目で見られることを、何よりも恐れている目。
それは、鏡の中で僕がいつもしている目と同じだった。
「騙してたことは謝るわ。ごめんなさい。……さ、幻滅したでしょ? 解約手続きは明日――」
彼女が背を向けようとした瞬間。
僕は、そのジャージの袖を掴んでいた。
「なーんだ、安心した!」
「……はあ?」
拍子抜けしたような僕の声に、彼女が怪訝な顔で振り返る。
僕は肩の荷が降りたように、深く息を吐き出した。
「僕はおねいさんを雲の上の人だと思ってた」
「えっ……?」
「完璧で、優しくて、どうしようもない僕をただ優しく包み込んでくれる。でも手の届かない存在。だから、一緒に居てどこか自分が惨めだった」
彼女は目を丸くして僕を見つめている。
僕は畳み掛けるように続けた。
「でもおねいさんも、僕と同じだとわかったから」
「同じ……?」
「あの、ゲームで僕が勝ったとき、本気で悔しがってくれたのも、あなたですよね」
「……そりゃ操作してるの私だし」
「僕が泣いたとき、一晩中背中をさすってくれたのも?」
「……だから、そうだってば。アンドロイドにそんな自律機能ないし」
彼女のぶっきらぼうな答えに、僕は確信を得て、強く頷いた。
「なら、やっぱり僕が好きなのはあなただ」
僕は目の前のジャージ姿の彼女と、奥で項垂れる美しい抜け殻を交互に見る。
「醜いとか、ブサイクとか、そんなことはどうでもいい。僕が好きになったのは、その完璧な虚像を維持しようと努力してくれた、あなた自身だった」
「……っ、あんた、バカなの?」
田中さんは顔を真っ赤にして、眼鏡の奥で涙ぐんだ目をこすった。
その表情は、作り込まれたアンドロイドの微笑みよりも、ずっと人間らしくて美しかった。
「……週二、三回のセックス、まだ有効?」
「えっ」
「契約期間、残ってるでしょ。ガワはメンテナンス中だけど……中身(オリジン)でも、いいなら」
蚊の鳴くような声で、彼女は言った。
部屋の隅で唸る機械音が、やけに心地よく響いていた。
「ゴメン、たまにガワ着てヤってほしい!」
「殺す!」