メンヘラエルフは勇者が大好き〜霧害世界で愛が重すぎる最強格ダークエルフと旅する話〜 作:かわうそ☆ゆう
戦闘のない描写・心が休まる時間・
静かな執着表現が含まれます。
何も起きない夜があります。
剣を抜かず、
力を使わず、
ただ呼吸をするだけの時間。
けれど、
静けさは終わりではありません。
それは、
次に進むために必要な、
ほんの短い夜です。
街を出て、三日目の夜だった。
霧は、ない。
空は高く、星ははっきりと瞬いている。
深く息を吸っても、肺の奥がざらつかない。
喉が焼けるように痛むことも、胸が締め付けられることもない。
――それが、まだ少し不思議だった。
霧害の中では、呼吸そのものが意識的な行為だった。
吸って、吐いて、耐える。
ただそれだけで、心のどこかが削れていく。
今は違う。
違いすぎて、落ち着かないほどに。
それだけで、胸が少し軽くなる。
「……静かだな」
焚き火の前で、ライラがそう呟いた。
「音があるのに、静かって感じだね」
ミリナは鍋を火にかけながら言う。
「火の音と、水の音と、虫の声。
全部“ちゃんと自然の音”だからかな」
「……霧の中だと、全部が不自然だったからな」
「そうそう。音があるのに、落ち着かなかった」
ミリナは乾燥肉をちぎりながら、ふっと笑う。
「こういう夜に限って、何も起きないと逆に疑っちゃうの。
“ほら来た”って言う準備だけしてる感じ」
ユナトは焚き火に枝をくべながら、何も言わなかった。
腹部に受けた傷が微かに疼く。痛みと言うより、存在を主張する違和感。
魔力が減っているわけでもない。
身体が動かないわけでもない。
それなのに、確かに“足りない”。
剣を握るとき。
呼吸を整えるとき。
何かが、途中で途切れている感覚。
――奪われたままの、何か。
焦りは、まだ小さい。
だが、無視できるほどではなかった。
だが今は、それよりも。
隣に座るフィリアの体温が、確かにそこにあることの方が大きかった。
◆
「……川、きれい」
フィリアが、ぽつりと言った。
野営地のすぐそばを流れる川は、月光を反射して淡く光っている。
浅瀬で、流れも穏やかだ。
「行くか?」
ユナトが聞くと、フィリアは一瞬だけ考えて、頷いた。
「うん。ユナトと」
その言い方に、ミリナが小さく笑う。
「はいはい。じゃあ私は火の番してるから」
「俺も残る」
ライラはそう言って、剣を膝に置いた。
「……何か来たら、嫌だしな」
フィリアは一度だけライラを見て、頷いた。
「ありがと」
その一言が、少しだけ柔らかい。
◆
川辺は、冷たかった。
水に足を入れた瞬間、ユナトは小さく息を吸う。
「……冷てぇ」
「夏でも、山の川はこんなもの」
フィリアは靴を脱ぎ、迷いなく水に入る。
その動きが、驚くほど軽い。
――昨夜、王域の中心に立っていた存在と、同じ人物とは思えない。
フィリアは水をすくって、指の間から落とした。
月の光が反射しキラキラと輝いていた。
「……水の流れ、ちゃんと速い」
「ちゃんと?」
「うん」
フィリアは小さく笑った。
「王域の中だと、全部が“分かりすぎる”から。
今は……ただ流れてるだけ」
それが、少し嬉しそうだった。
「……ねぇ、ユナト」
「ん?」
「街の人……怖かった?」
一瞬、言葉に詰まる。
ユナトは正直に答えた。
「……正直に言うと、少し」
フィリアは頷く。
「うん」
「でも」
ユナトは続けた。
「それ以上に、助かったって顔してた」
フィリアの指が、水面で止まる。
「……怖いと、助かったは、両立する」
そう言って、視線を落とした。
「昔から……そうだった」
幼い頃。
森で迷子になったユナトの手を取った、あの日。
あの日も、夜だった。
泣きそうになりながら立ち尽くしていたユナトの前に、
フィリアは何も言わず、ただ手を差し出した。
「……迷った?」
それだけ。
慰めも、説明もなかった。
けれど、その手は温かくて、迷いがなかった。
――今も、同じだ。
「……それでも、ユナトは離れなかった」
ユナトは、川の水を手ですくって、顔を洗った。
冷たさが、頭をはっきりさせる。
「離れる理由、ないだろ」
フィリアが、ゆっくりと顔を上げる。
月明かりの下で、その瞳は静かだった。
「……壊れたら?」
「壊れたら、戻せばいい」
「……戻れなかったら?」
ユナトは、迷わなかった。
「一緒に、壊れた場所からやり直す」
フィリアは、少しだけ目を見開いて。
それから、ぎゅっとユナトの袖を掴んだ。
「……それ、ずるい」
◆
その頃、焚き火のそば。
「……あの二人、大丈夫か?」
ライラがぼそっと言う。
「さあ」
ミリナは焚き火を見つめながら答える。
「でもね……」
一度、言葉を切る。
「フィリアちゃん、今日ずっと戦う時とは違う顔してる」
ライラは黙る。
「それって、多分……必要な時間なのよ」
「……だな」
◆
ユナトが焚き火に戻ると、ライラがちらりと視線を向けた。
「……冷たかったか」
「まあな」
それだけで、会話は終わる。
「腹の傷」
不意に、ライラが言った。
「無理するな」
「してないよ」
「……ならいい」
それ以上、踏み込まない。
それが、ライラなりの距離感だった。
川から戻ると、フィリアは少しだけ上機嫌だった。
濡れた髪を軽く拭きながら、焚き火の前に座る。
「魚、いる」
「取ってくるか?」
「うん」
その会話だけで、十分だった。
影は、動かない。
王域も、展開されない。
ただの野営。
それが、今は何よりも貴重だった。
魚を焼いて、簡単な食事をして。
火が小さくなっていく。
「……なぁ、フィリア」
ライラが不意に声をかける。
「この間の夜のこと……」
フィリアは、ちらりと視線を向ける。
「……ごめんって言うつもりなら、いい」
「違う」
ライラは首を振った。
「ありがとう、って言いたい」
短い沈黙。
フィリアは、少し困った顔をしてから。
「……ユナトを守っただけ」
「それで十分だ」
ライラはそれ以上、何も言わなかった。
◆
夜。
全員が寝静まった後。
フィリアは、ユナトの隣で目を閉じている。
手は、しっかりと握られたまま。
腹部の傷が、微かに疼く。
それに気づいたフィリアの指が、きゅっと強く絡む。
「……取らせない」
その言葉には、眠りの曖昧さがなかった。
願いでも、夢でもない。
確かな意志。
――奪われることを、知っている声だった。
ユナトは、静かに目を閉じた。
焚き火の
消えきらない熱。
次の夜まで、残るもの。
この旅は、まだ続く。
静かな夜の中で、
確かに“守られている”と感じながら
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
第13話は、
「守られている時間」を描いた回でした。
戦いも、
霧も、
王域もない。
それでも、
完全な安心ではありません。
傷は残り、
失われたものは戻らず、
握った手だけが、確かでした。
静夜は、
長くは続きません。
だからこそ、この夜は、
忘れられないものになります。
次話では、
この静けさが終わるところから、
物語が再び動き出します。