薬屋と料理人は幼馴染み   作:ボルメテウスさん

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ふと、思った中華一番と薬屋のひとりごとのクロスオーバーって面白いのか、試しに書いてみました。
同じ中国大陸という事もあるので、もしかしたら相性が良いのかなという程度で書かせて貰いました。
色々と設定が違う部分がありましすが、良かったらぜひ。


宮廷毒膳事件録

 大陸を渡る旅は、いつだって腹が減る。

 

 空腹という意味だけじゃない。

 知らない土地、知らない人、知らない味。

 それらを前にすると、胸の奥が妙にざわつく。料理人としての欲だと、俺はそれを呼んでいる。

 

 その日、俺は街道沿いの市場で簡単な仕事を終えたばかりだった。露店の料理人が困っていた火加減を少し見直しただけで、思いのほか人が集まった。こういうことは珍しくない。旅の途中で、時々起きる。

 

 だが、その日の視線は、いつもと違った。

 

 食べ終えた客の向こう――人垣の外に、明らかに場違いな一団が立っていた。無駄のない衣、背筋の伸びた立ち方、そして料理ではなく「俺」を見ている目。

 

 嫌な予感がした。

 

 片付けを終え、市場を離れようとしたところで、その一団の中心にいた男が近づいてきた。細身で、どこか芝居がかった所作。だが、目だけは笑っていない。

 

「いやあ、見事な火入れだった」

 

 振り返ると、細身の男が一人、妙に芝居がかった仕草で立っていた。

 扇子を軽く揺らし、笑ってはいるが、その目は料理ではなく、こちらを測っている。

 

「……ありがとうございます」

 

 反射的に、そう答える。

 だが、この距離感は好きじゃない。

 

「通りすがりに見ていただけですよね」

 

「そうとも言えるし、そうでないとも言える」

 

 男は楽しそうに肩をすくめた。

 

「市場はどこも似たようなものだが、今日ここで一番面白かったのは、君の鍋だ」

 

 面倒な類だ、と直感した。

 

「失礼ですが、どちら様でしょうか」

 

「おっと、これは失敬」

 

 男はわざとらしく一礼する。

 

「漢羅漢。料理を見るのが趣味でね。

 ……いや、料理人の“来歴”を見るのが趣味と言った方が正しいかな」

 

 嫌な言い回しだった。

 

「来歴、ですか」

 

「四川省の国営菜館、菊下楼。

 それから陽泉酒家。どちらも、短いが確かな在籍記録がある」

 

 心臓が一拍、遅れて鳴った。

 

「……よく調べていますね」

 

「偶然さ」

 

 羅漢はあっさり言う。

 

「優秀な料理人は、店を辞めても噂が残る。

 特に君の場合はね。どこに行っても、厨房の空気が変わる」

 

 逃げ道を塞がれた感覚があった。

 

「俺は、どこかに仕えるために旅をしているわけではありません」

 

 言葉は丁寧に、しかし距離を取る。

 

「菊下楼でも、陽泉酒家でも、学ぶべきものは学びました。

 今はただ――料理を知るために歩いているだけです」

 

「素晴らしい」

 

 羅漢は即座に頷いた。

 

「だからこそ、今の君に声をかけた」

 

 扇子を閉じ、少しだけ声を落とす。

 

「後宮で宴がある。

 宮廷に染まりきった料理人ではなく、“旅の途中の料理人”が必要だ」

 

 後宮。

 その二文字が、場の温度を変えた。

 

「冗談でしょう。俺は宮廷付きじゃありません」

 

「承知している」

 

 羅漢は微笑んだ。

 

「だが、宮廷にいたことがない料理人ほど、

 時に、後宮に必要な味を作る」

 

 理屈は分かる。

 分かるからこそ、危険だった。

 

「断ったら?」

 

「何も起きない」

 

 羅漢は軽く首を振る。

 

「君は旅を続け、私は別の料理人を探す。

 ただ、それだけの話だ」

 

 一拍置いて、続ける。

 

「もっとも――」

 

 視線が、こちらを正確に射抜く。

 

「菊下楼でも、陽泉酒家でも得られなかった“食卓”が、

 後宮にはある。

 君が架けたい“味の橋”の材料は、案外そこに揃っているかもしれない」

 

 胸の奥が、静かに熱を帯びた。

 

「……身一つで行けばいいんですか」

 

 気づけば、そう聞いていた。

 

 羅漢は満足そうに頷く。

 

「話が早い。

 ただの寄り道だ。帰り道があるかどうかは――行ってから考えればいい」

 

 その言い方が、何よりも胡散臭かった。

 

 漢羅漢に連れられ、俺はそのまま後宮へ向かうことになった。

 

 馬車は使われなかった。

 歩いて進む理由を、彼は特に説明しなかったが――この距離感もまた、試されているのだと直感した。

 

 道は次第に整えられ、人の声が遠のいていく。

 市場の喧騒が背後に薄れていくにつれ、空気が変わっていくのが分かる。

 

 重い。

 音が、匂いが、感情そのものが抑え込まれている。

 

 裏料理界を歩いたことがある。

 命と腕を賭けた場所で、剥き出しの欲と殺気が渦巻いていた。

 だが、ここは違う。

 

 後宮の気配は、刃を隠したまま微笑んでいる。

 

 派手さはない。

 だが、一歩間違えれば、何かを失う――そんな静かな圧が、常に背中に張り付いていた。

 

「……妙な場所ですね」

 

 思わず漏れた言葉に、羅漢は振り返らずに笑った。

 

「表に出ないものほど、よく整えられているものさ」

 

 納得はできないが、否定もできない。

 

 道中、ふと視界の端に色が差した。

 高い塀の向こう、わずかに覗く華やかな灯り。

 香の匂いと、甘い酒の気配。

 

 華街だ。

 

 後宮の影に寄り添うように、静かに息づいている。

 

 その匂いを嗅いだ瞬間、胸の奥が、きゅっと締め付けられた。

 

 懐かしい。

 

 あの場所も、似たような匂いがしていた。

 薬草と酒、脂と鉄、そして――苦いほどの現実。

 

 思い出そうとすれば、自然と浮かぶ背中がある。

 小さくて、やけに落ち着いた歩き方をする背中。

 人混みの中でも迷わず、危ないものからは距離を取る癖。

 

 ……名前を呼んだ記憶は、なぜか喉の奥で止まった。

 

 あの頃の俺は、料理のことしか見えていなかった。

 だから、気づかなかったのかもしれない。

 

 羅漢が足を止めた。

 

 目の前には、高く、重厚な門。

 装飾は控えめだが、隙がない。

 

「ここから先は、もう外じゃない」

 

 彼はそう言って、ちらりとこちらを見る。

 

「振る舞いには気をつけたまえ。

 ここでは、料理も、人も、見られている」

 

 頷くしかなかった。

 

 一歩、門をくぐる。

 

 瞬間、世界が切り替わった。

 

 音が消える。

 風が止まる。

 そして、視線だけが増える。

 

 誰かが見ている。

 だが、誰か分からない。

 

 背筋を、冷たいものが走った。

 

 厨房の匂いは、まだしない。

 だが、確かにここには“食卓”がある。

 

 味ではなく、

 栄養でもなく、

 人の立場と命を並べるための食卓が。

 

 羅漢は何も言わず、先を歩く。

 俺は、その背中を追いながら、無意識に手を握っていた。

 

 包丁を持っていないのに、だ。

 

 不思議と、不安ばかりではなかった。

 

 この場所に足を踏み入れたことを、後悔していない自分がいる。

 それが正しいのかどうかは、分からない。

 

 ただ――

 

 この奥に、

 昔と同じように、

 俺の知らない“正解”を、淡々と見ている誰かがいる。

 

 そんな気がしてならなかった。

 門をくぐってから、しばらく歩いた。

 

 後宮の中は、外から見た以上に広く、そして静かだった。

 人の気配は確かにあるのに、足音も話し声も、必要以上に抑えられている。

 

 漢羅漢は、まるで自分の庭でも案内するかのように、迷いなく歩く。

 

「まず覚えておくといい」

 

 不意に、彼が口を開いた。

 

「後宮には“中心”があるが、“主役”はいない」

 

「……どういう意味ですか」

 

「誰もが主役になれるし、同時に、いつでも切り捨てられるという意味だ」

 

 さらりと言うが、冗談には聞こえなかった。

 

 建物の配置、回廊の幅、視線の通り方。

 どれもが計算されている。

 

 料理の盛り付けを考える時と、どこか似ていた。

 目立たせるものと、隠すもの。

 強調する香りと、消す雑味。

 

「君の立ち位置だが」

 

 羅漢は、少しだけ歩調を緩める。

 

「表向きは“外部から招かれた料理人”だ。

 宮廷付きではない。だから、自由もある」

 

 一拍置いて、続ける。

 

「その代わり、常に見られる。

 厨房も、食材も、動線もだ」

 

 自由と監視。

 なるほど、後宮らしい。

 

「今回の宴は、皇帝一族が関わる」

 

 その言葉に、自然と背筋が伸びた。

 

「形式は祝いの席。だが、実際は――」

 

 羅漢は言葉を切り、扇子で軽く柱を叩く。

 

「顔合わせ、牽制、確認。

 誰が健在で、誰が衰えているかを見るための場だ」

 

 料理も、その一部だということだろう。

 

「味が良ければいい、という話ではありませんね」

 

「察しがいい」

 

 羅漢は満足そうに笑う。

 

「食べた後に、どうなるか。

 それが重要だ」

 

 嫌な言い方だった。

 だが、否定はできない。

 

 後宮の宴では、料理は武器になる。

 毒だけではない。

 体調、印象、力関係――すべてを揺らす。

 

「今回、特に注意すべきなのは」

 

 羅漢の声が、わずかに低くなる。

 

「主賓の体調だ。

 万全とは言えない」

 

 その一言で、胸の奥に引っかかるものが生まれた。

 

「毒、ですか」

 

「さあ?」

 

 肩をすくめる。

 

「毒は分かりやすい。

 だから使われないことも多い」

 

 ――嫌な予感が、はっきりと形を持った。

 

 廊下を曲がり、さらに奥へ。

 厨房へ続くであろう分岐点の手前で、羅漢は足を止めた。

 

「ここまでだ」

 

「ここまで?」

 

「この先は準備がある。

 君は少し、頭を冷やすといい」

 

 意味深な言い方だったが、追及する前に、彼は離れていった。

 周囲には、誰もいない。

 

 静寂。

 

 張り詰めていたものが、ふっと緩む。

 

 その時だった。

 

 回廊の向こうから、一人の人物が歩いてくるのが見えた。

 控えめな足取り。

 視線は前方ではなく、やや下。

 

 どこか見覚えのある歩き方。

 

 胸の奥で、何かが弾けた。

 

 ――そうだ。

 

 思い出せなかった人物。

 さっきまで、形にならなかった輪郭。

 

 それが、一瞬で結びついた。

 

「猫姉!」

 

 考えるより先に、声が出ていた。

 

 後宮の静けさを切り裂くような、大声だったと思う。

 

 相手は、明らかに驚いた様子で足を止める。

 一拍遅れて、振り返る。

 

 その顔を見た瞬間、確信した。

 

 間違いない。

 

 懐かしさと、安堵と、どうしようもない嬉しさが、一気に込み上げる。

 

 ここが後宮だということも、

 立場も、

 さっきまでの緊張も、

 一瞬、全部吹き飛んだ。

 

 ――ああ。

 

 俺は、

 本当に、とんでもない場所に来てしまったらしい。

 振り返ったその人は、しばらく俺を見つめていた。

 

 驚きはあった。確かに。

 だが、それ以上に――測るような視線だった。

 

 距離を詰めた俺に対して、一歩引くでもなく、かといって懐かしむでもない。

 まず最初に来たのは、確認だ。

 

「……」

 

 視線が、顔から肩、手元へと移る。

 昔と変わらない癖だ。

 

「……面影は、ある」

 

 独り言のようにそう言ってから、ようやく目が合った。

 

 次の瞬間、猫のように細められた目が、わずかに見開かれる。

 

「……マオ?」

 

 その呼び方に、胸の奥が一気に緩んだ。

 

「そう! 久しぶり、猫姉!」

 

 俺がそう言った瞬間、周囲の空気がぴしりと固まったのが分かった。

 

 ――まずい。

 

 後宮で、思い切り私的な呼び名を使うべきじゃない。

 だが、もう遅い。

 

「……ちょっと待って」

 

 猫姉――いや、猫猫は、こめかみを押さえながら俺を見上げる。

 

「マオが、どうしてここにいるの」

 

 声は低い。

 感情を抑えた、仕事の声だ。

 

「それは――」

 

 説明しようとした、その瞬間。

 

 猫猫は、じっと俺の腰回りを見た。

 

 嫌な沈黙。

 

「……切った?」

 

 思考が、一瞬止まった。

 

「え?」

 

「ここ、本来は去勢されないと入れない場所だけど」

 

 淡々と、事実確認の口調で言う。

 

「その様子だと……切ったようには見えない」

 

 ――ああ、久しぶりだ。

 この人の、遠慮のなさ。

 

「切ってないよ!? 何でそうなるの!?」

 

 思わず声が裏返った。

 

「じゃあ、どういう理由で後宮に?」

 

 首を傾げる。

 本気で不思議そうだ。

 

 周囲が、ざわつく。

 

「……今、切ったって……」

「いや、名前じゃないのか?」

「マオ? マオマオ……?」

 

 小声の困惑が、あちこちから聞こえる。

 

 宦官の一人が、眉をひそめて囁く。

 

「どちらが……マオだ?」

 

「……両方、でしょうか」

 

 誰かが小さく答える。

 

 完全に混乱していた。

 

 猫猫は、そんな周囲を一瞥し、ため息をついた。

 

「……分かった。話がややこしくなるから」

 

 俺を見て、きっぱり言う。

 

「ここでは大声で名前を呼ばないで」

 

「ご、ごめん……」

 

「それと」

 

 視線が鋭くなる。

 

「後で説明。

 どうしてここにいるのか、

 誰に呼ばれたのか、

 何をさせられるのか」

 

 最後の一言が、重かった。

 

「……宴?」

 

 ぽろっと漏らすと、猫猫の目が一瞬、細くなる。

 

「やっぱり」

 

 その反応で、分かった。

 

 俺が来た理由と、

 この場所で起きようとしていることが、

 もう彼女の中で繋がり始めている。

 

「……マオ」

 

 少しだけ、声が柔らいだ。

 

「ここは、あんたが思ってるより、面倒な場所だよ」

 

 それでも。

 

 こうして再会できたことが、嬉しくないわけがなかった。

 

「うん」

 

 俺は、はっきり頷いた。

 

「でも、猫姉がいるなら――」

 

「いらないこと言わなくていい」

 

 即座に遮られる。

 

 周囲の視線は、相変わらず混乱したままだ。

 

 マオと、マオマオ。

 切ったのか、切ってないのか。

 料理人と、薬師。

 

 後宮の静かな回廊で、

 明らかに場違いな再会だった。

 猫姉は、しばらくその場で立ち尽くしていた。

 

 こめかみに指を当て、軽く押さえたまま、深く息を吐く。

 昔から、何か厄介ごとを押し付けられた時の癖だ。

 

「……はあ」

 

 短く、だが心底面倒そうな溜め息。

 

 次の瞬間、俺の袖を掴まれた。

 

「とりあえず、来て」

 

「え、あ、うん」

 

 有無を言わせない力で引かれ、回廊の奥へと連れて行かれる。

 後宮の人目を避けるように、少し外れた通路へ。

 

 背後では、まだ混乱が続いていた。

 

「今の……どういう関係だ?」

「名前が似ているだけか?」

「いや、切ったとか言ってなかったか?」

 

 聞こえないふりをして、猫姉は歩く。

 俺も、それに倣った。

 

 少し離れたところで、ようやく足が止まる。

 

「……説明」

 

 振り返らずに言われた。

 

「簡単に」

 

「えっと……」

 

 頭の中で、漢羅漢とのやり取りを思い返す。

 

「旅の途中で料理をしてたら、声をかけられて。

 宴があるから、腕の立つ料理人が必要だって」

 

「それで来た?」

 

「うん」

 

 猫姉は、ぴたりと足を止めた。

 

 振り返って、俺を見る。

 

 その目には、呆れと納得が半分ずつ。

 

「なんというか、あんたは面倒な事に巻き込まれたようだね」

 

 再び歩き出しながら、肩をすくめる。

 

「後宮に関わってて、知らない方が珍しい」

 

 なるほど、と頷く。

 

「それで」

 

 今度は、ちらりとこちらを見る。

 

「切ってないんだよね?」

 

「切ってない!」

 

 即答すると、猫姉は一瞬だけ口元を緩めた。

 

「でしょうね」

 

 淡々とした声だが、どこか安心したようにも聞こえた。

 

「じゃあ、去勢されてない外部人員。

 しかも宴担当」

 

 ぶつぶつと、独り言のように整理を始める。

 

「……立場、面倒だな」

 

 他人事みたいに言うが、明らかに自分の仕事が増えた顔だ。

 

「ごめん……」

 

「別に、あんたが悪いわけじゃない」

 

 即座に否定される。

 

「悪いのは、大体あのおっさん」

 

 それを聞いて、少しだけ気が楽になった。

 

 しばらく無言で歩く。

 

 後宮の回廊は相変わらず静かで、足音だけが響く。

 

「……それにしても」

 

 猫姉が、ふとこちらを見る。

 

「よく、こんな所に来る気になったね」

 

「料理人だから」

 

 正直に答える。

 

「知らない食卓があるなら、見てみたかった」

 

 一瞬、猫姉は言葉に詰まった。

 

 そして、小さく鼻で笑う。

 

「変わってない」

 

 それだけ言って、前を向いた。

 

「とりあえず、今は大人しくしてて」

 

「分かった」

 

「目立たないように。

 大声で名前も呼ばない」

 

「……気をつける」

 

「それと」

 

 ちらり、と鋭い視線。

 

「後で、ちゃんと話すから。

 昔のことも、今のことも」

 

 胸の奥が、少しだけ温かくなった。

 

「うん」

 

 後宮という場所の異質さも、

 宴に漂う嫌な予感も、

 今は、少しだけ遠のいていた。

 

 こうして猫姉と並んで歩いていると、

 まるで、昔の続きみたいだ。

 猫姉の背中を追いながら、俺は改めて違和感を噛みしめていた。

 

 歩き方は、変わっていない。

 人混みの中でも無駄がなく、足音を立てない癖もそのままだ。

 

 けれど――

 

 肩の力の抜き方が違う。

 視線の配り方が違う。

 何より、ここが後宮だという事実を、当たり前の前提として受け入れている。

 

 昔の猫姉は、もっと露骨だった。

 危ない場所では眉をひそめ、胡散臭い相手にははっきり距離を取っていた。

 

 今は違う。

 

 危険を避けるのではなく、

 危険の中でどう立つかを知っている。

 

 それが、少しだけ――怖かった。

 

「……なんか、変わったね」

 

 ぽろっと漏れた言葉に、猫姉は足を止めた。

 

 振り返らず、首だけをこちらに向ける。

 

「そう?」

 

「うん。いや、悪い意味じゃなくて」

 

 慌てて付け足す。

 

「前より……落ち着いてる」

 

 一瞬、猫姉は考えるような間を置いた。

 

「そう見えるなら、たぶん慣れただけ」

 

 淡々とした答えだった。

 

「ここは、いちいち感情を表に出してたら、持たない場所だから」

 

 さらりと言うが、その言葉の重さは分かる。

 

 後宮だ。

 毒も、嘘も、沈黙も、全部が日常になる場所。

 

「……大変そうだ」

 

「まあね」

 

 軽く流すように返される。

 

「でも、あんたが思ってるほど、毎日事件が起きてるわけでもないよ」

 

 ちらりとこちらを見る。

 

「基本は、薬を作って、様子を見て、報告して。

 たまに面倒なことが起きるだけ」

 

 その“たまに”が、致命的なんだろうな、と思ったが、口には出さなかった。

 

 俺は、後宮の回廊を見回す。

 

 整いすぎた景色。

 手入れされた庭。

 静かすぎる空気。

 

 料理の匂いが、ほとんどしない。

 

 それが、一番の違和感だった。

 

「……腹、減りそうにない場所だね」

 

 料理人としての率直な感想だった。

 

 猫姉は、少しだけ口角を上げた。

 

「でしょ」

 

 短く笑う。

 

「だから、料理は余計に重要になる。

 味より、結果が見られるから」

 

「結果?」

 

「食べた後、どうなるか」

 

 ぴたり、と言葉が重なる。

 

 漢羅漢が言っていたことと、同じだ。

 

「元気になるか、

 弱るか、

 何も変わらないか」

 

 猫姉は、前を向いたまま続ける。

 

「ここでは、それだけで評価が変わる」

 

 俺は、無意識に拳を握った。

 

 ――料理が、人の立場を動かす。

 

 知ってはいた。

 だが、ここまで露骨な場所は初めてだ。

 

「……やっぱり、面倒な所だね」

 

 そう言うと、猫姉は小さく頷いた。

 

「だから言ったでしょ」

 

 少しだけ、からかうような声。

 

「ここは、あんたが思ってるより、ずっと面倒」

 

 それでも。

 

 並んで歩くこの距離感は、確かに昔のままだ。

 

 俺が何も言わなくても、猫姉は先を行き、

 俺が迷いそうになると、さりげなく進路を示す。

 

 変わったところもある。

 変わっていないところもある。

 

 たぶん――

 

 後宮に馴染んだ猫姉と、

 まだ何も知らない俺が、

 今は並んでいるだけなんだ。

 

 この先、どうなるかは分からない。

 

 けれど。

 

 少なくとも一つだけ、はっきりしていることがあった。

 

 ――ここで起きる面倒事に、

 俺はもう、無関係ではいられない。

 

 猫姉の背中を見ながら、そう確信していた。

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