薬屋と料理人は幼馴染み   作:ボルメテウスさん

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光福の論

陽泉酒家の朝は、鍋の音より先に人の声が起きる。

声が起きると手が動き、手が動くと火がつき、火がつくと僕の頭も勝手に回り出す。

後宮にいた頃は、火をつける前に耳を澄ませる癖が抜けなかったが、ここでは耳を澄ませるより先に腹が鳴る。

腹が鳴る日常は平和で、平和だからこそ、ふいに思い出すものも増えてしまう。

 

「マオ兄、こっち、皿が足りない」

シロウの声が飛んできて、僕は返事より先に棚を開け、足りない皿を滑らせるように渡した。

返事をする時間があるなら手を動かした方が早いし、早い方が店は回る。

陽泉酒家の忙しさは、後宮の忙しさと違って、誰かの顔色より先に客の腹が基準になるのが救いだった。

 

「ありがと、やっぱマオ兄いると助かるわ」

シロウは皿を抱えて走り出し、走りながら振り返ってまた口を開いた。

「それにしてもさ、マオ兄って数年前に姿が見えなかった時があったけど、どこにいたんだ」

 

嫌なところを突いてくるのは、こういう平和な場所の特権だ。

僕は包丁の刃先で葱の白い部分を揃えながら、笑い方だけを先に決めた。

決めた笑い方は軽くて、軽いほど深掘りされにくいという経験則がある。

 

「んっ、まぁちょっとした場所で働いていたんだ」

僕が言うと、シロウは面白がった目で身を乗り出してくる。

面白がる目は後宮では危険だったが、ここではただの好奇心で、好奇心は火より扱いが難しい時がある。

 

「働いていたって、どこなの」

シロウはしつこくて、そのしつこさを悪意に見せない才能がある。

僕はその才能が羨ましいと思ってしまい、羨ましいと思った瞬間に口が滑りそうになった。

 

「あはははぁ、それは少し話せなくて」

笑って誤魔化すと決めたのに、笑いの中に変な間が混ざり、僕は自分の喉が乾いたのを自覚した。

後宮の話は、話すと面倒が増えるより先に、僕の中の何かが落ち着かなくなる。

 

「話せないって、まさか裏とか」

シロウが声を潜めたつもりで潜めきれていない声で言い、周りの耳が少しだけこちらを向いた。

耳が向くと噂が生まれるのはどこでも同じで、違うのは噂が刃になるか笑い話になるかの差だけだ。

 

「ちょ、シロウ、あんたねぇ」

メイリンの声が飛んできて、手にしていたお玉の音が叱りの代わりになった。

メイリンは店の空気を守るのが上手くて、守り方が上手い人間ほど怒り方も上手い。

 

「あははぁ、いや、それはないよ」

僕は急いで否定し、否定の仕方を柔らかくして笑い話の方向へ押し戻した。

押し戻したつもりでも、僕の中では小さな石が転がっていて、その石がいつか音を立てる気がした。

 

「ほら、手が止まってる」

メイリンが言い、僕は慌てて包丁を動かし直した。

包丁は手が止まると音が変わるし、音が変わると周りの職人はすぐに気づく。

気づかれたくない時ほど気づかれるのが人の癖で、癖は隠そうとすると濃くなる。

 

「マオ兄、今の笑い方、なんか怪しい」

シロウはまだ諦めていなくて、僕は息を吐きながら火口のほうへ目を向けた。

火の前を見ると落ち着くのは、火は人の事情を聞かずに燃えてくれるからだ。

 

「怪しくないよ、ただ、話すと長くなるってだけ」

僕がそう言うと、シロウは納得したふりをして、しかし納得した目ではないまま皿を運びに戻った。

納得したふりをする目は後宮で何度も見たが、ここではせいぜい次の茶化しの種になる程度だ。

 

忙しさは昼に向かって増え、客の声と鍋の音が重なり、陽泉酒家はいつもの賑やかさに戻っていく。

僕は蒸籠の蓋を開け、湯気の匂いを吸い込み、味を整えるために舌の裏で塩の量を計算した。

こういう計算は後宮でもここでも同じで、同じだからこそ、違うことが余計に目立つ。

 

「マオ、次はお前が味見しろ」

料理長の声が飛び、僕は「はい」と返して鍋へ顔を寄せた。

味見は仕事で、仕事の味見は信頼で、信頼は積み重ねでしか増えない。

積み重ねが増えるほど、数年前に消えた時間が小さな穴として残っているのが、ふと怖くなる。

 

「なぁ、マオ兄」

シロウがまた寄ってきて、今度は声を落とし気味にした。

「その時期さ、誰かに追われてたとかじゃないよな」

 

僕はお玉を持ったまま、思わず笑いかけて、笑いを途中で止めた。

止めた笑いは不自然で、不自然は目立つが、目立つ不自然はここではまだ冗談として扱われる。

後宮なら、その不自然はそのまま命取りになったかもしれない。

 

「追われてないよ」

僕は言い切り、言い切ることで自分にも言い聞かせた。

追われていたのは僕ではなく、僕の肩書きだった、と言うのは簡単だが、簡単な言葉ほど余計なものを呼ぶ。

 

「じゃあ、恋人でもできたんじゃね」

シロウがにやにやして言い、メイリンがまたお玉の音を鳴らした。

恋人という言葉は軽いのに、軽い言葉ほど人の心を勝手に揺らすことがある。

僕は揺れたくないのに、揺れた記憶があるせいで、火が少しだけ熱く見えた。

 

「恋人じゃないよ、そういうのじゃない」

僕は笑って押し返し、押し返しながら、自分が何を押し返しているのか分からなくなった。

猫猫の顔が一瞬だけ浮かんで、浮かんだ瞬間に消して、消す作業に余計な力が入った。

 

「はいはい、分かった分かった」

シロウは適当に手を振って離れていき、メイリンが僕の横へ来て小さく息を吐いた。

息を吐く音が「面倒の芽が増えた」と言っているみたいで、僕は苦笑いを飲み込んだ。

 

「変な話は広げないの、客が聞いてる」

メイリンが言い、僕は素直に頷いた。

頷ける指示は楽で、楽な指示ほど今の僕にはありがたい。

 

「ごめん、助かった」

僕が言うと、メイリンは少しだけ目を細めた。

細めた目が怒りなのか心配なのか分からないのは、分からないままにしておいた方がいい時もある。

 

昼の波が一度引き、厨房の隅で湯気が薄くなる時間が来た。

僕は布で手を拭き、棚の整理をしながら、数年前の「いなかった時間」を思い出さないようにしていた。

思い出さないようにするほど思い出すのが人間の癖で、癖はやっぱり厄介だ。

 

その時、表の方から声が飛んできた。

声は店の喧騒に混ざっているのに、なぜか僕の名前だけがはっきり聞こえた。

 

「すみません、マオさんを呼んでるお客さまがいるんですけど」

運びの子がそう言い、僕はお玉を置く手を一瞬だけ止めた。

名指しで呼ばれること自体は珍しくないが、呼ばれ方の温度がいつもと違う。

違う温度は、皿より先に胸の奥を叩いてくる。

 

「えっと、僕に用事でしょうかって」

僕は自分で言い直しながら、表へ向かう足を動かした。

疑問はあるのに、疑問より先に、なぜか予感が背中を押していた。

 

表へ出ると、陽泉酒家の昼の残り香がまだ濃くて、油と湯気と人の声が絡み合っていた。

絡み合った匂いは嫌いじゃないが、名指しで呼ばれた時の胸のざわつきは、匂いでは誤魔化せない種類だった。

客席の間を抜けるたびに視線がついてきて、ついてくる視線の質が「期待」なのか「好奇」なのかを、僕は勝手に測ってしまう。

後宮で身についた癖は、平和な店の中でも簡単には抜けないらしく、抜けない癖ほど思い出を連れてくる。

 

「こっちです」

運びの子が小声で言い、奥の席へ僕を導いた。

奥の席は壁際で、背中が守られる位置なのに、守られる位置ほど“誰が座っているか”が目立つことがある。

僕は息を一つ整え、笑い方を用意してから、席の前へ立った。

 

「失礼します。えっと、僕に用事でしょうかって」

口に出した言葉は丁寧だったが、声の裏に自分でも気づくほどの緊張が混ざっていた。

緊張の理由は相手の顔を見る前から分かっている気がして、分かっているのに見ないふりをしたくなるのが情けない。

 

そこに座っていたのは、旅の衣装をまとった猫猫だった。

髪はまとめていて、肌は少し日に焼けていて、目は相変わらず乾いた光をしている。

後宮の壁の中で見た猫猫とは違うのに、違うはずなのに、僕の中の呼び方だけが勝手に昔へ戻りかけた。

 

猫猫は僕を見るなり、ほんの少しだけ口元を上げた。

上げ方が笑いというより、狙いが当たった時の小さな勝利みたいで、僕はそれを見た瞬間に全身の熱が一度上がった。

驚きは声より先に手に出て、僕は危うく何もない空間でお辞儀を二回しそうになった。

 

「……猫姉」

声が漏れてから、僕は慌てて周りの耳を思い出し、声量を落とした。

陽泉酒家は後宮ほど耳が怖い場所じゃないのに、僕の体はまだ後宮のつもりで動く。

 

「おっ、本当にここで修行をしていたのは本当のようだね」

猫猫はさらりと言い、旅の塵のついた袖を軽く払った。

その仕草が妙に堂々としていて、堂々としているからこそ、店の人間が「只者じゃない」と勘づきそうで怖い。

 

「なんで、ここに」

僕が言いかけたところで、猫猫は目だけで僕を止めた。

止め方が昔のままで、昔のままだから胸の奥が勝手に落ち着いてしまうのが腹立たしい。

 

「驚いた顔、久しぶりに見た」

猫猫はそう言って、悪戯に成功した子どもみたいに少しだけ笑みを深くした。

深くしたのに笑い声は出さないから、余計に僕だけが揺れているみたいで悔しい。

 

僕が言葉を探しているうちに、後ろからすぐに声が飛んできた。

飛んできたのは当然、シロウで、飛んでくる前に止める術はこの店にはない。

 

「うわぁ、すっげぇ美人だなぁ。しかも、なんだか結構親しそうだけど、これってもしかして」

シロウは声がでかくて、声がでかい分だけ店の空気を簡単に変える。

猫猫が嫌がるかと思ったが、猫猫は眉ひとつ動かさずに湯飲みへ手を伸ばした。

 

「ちょっ、シロウ、何を馬鹿な事を言っているの」

メイリンがすぐに叱り、叱る音が店の秩序を戻す。

メイリンはこういう時だけ妙に頼もしく、頼もしい分だけ僕は余計なことを言えなくなる。

 

「えぇ、もしかして焦っているのか姉御」

シロウがさらに煽り、煽り方が雑で、雑だからこそ場が笑いへ転がりやすい。

僕は笑って受け流そうとして、受け流す笑いが今は作れないことに気づいた。

 

「そっそんな訳ないでしょ」

メイリンが言い、しかし言い方が少しだけ硬くて、僕はその硬さがどこから来るのか考えないふりをした。

考えた瞬間に僕の足元が揺れる気がして、揺れる床は包丁より怖い。

 

猫猫はその騒がしさを気にした様子もなく、むしろ店の空気を測るように一度だけ周囲を見回した。

見回し方が後宮の癖に似ていて、僕は自分の中で笑いとため息が同時に出そうになった。

猫猫はどこにいても猫猫で、猫猫だからこそ僕は今ここに立っていられる気がする。

 

「賑やかな所で働いているようだけど、とりあえずマオ」

猫猫は僕の名前を呼び、名前の呼び方だけが少しだけ柔らかかった。

その柔らかさが僕の胸を殴り、殴られた胸が勝手に笑いを作りたがる。

 

「何かな?」

僕は返すだけで精一杯で、返した声が少しだけ高くなったのが自分でも分かった。

猫猫はそれを見て、やっぱり悪戯が成功した時みたいな顔をした。

 

「とっておきの料理を一つ、私が望む料理は分かっているよね」

猫猫の言い方は命令ではないのに、命令より断ち切れない形をしている。

分かっているよね、と言われた瞬間、僕の中で数年前の匂いが一気に立ち上がった。

香油の油膜、布の畳み目、薬草の筋、あの夜の冷たい空気が、ここにいないはずなのに戻ってくる。

 

僕はその匂いを飲み込み、代わりに陽泉酒家の湯気を胸いっぱいに吸った。

湯気は熱くて、熱い湯気は今の僕を現実に戻してくれる。

戻った現実の中で、僕は猫猫の目を正面から見た。

正面から見ても、猫猫は逸らさないし、逸らさない猫猫の目だけが少しだけ期待の色をしている。

 

「勿論、とっておきのを用意するよ」

僕はそう言って、これまで自分でも見たことのない笑みを浮かべていた。

笑みは勝ち負けの笑みじゃなくて、ようやく会えた時の笑みに近くて、近いからこそ隠す気がなくなった。

 

「……厨房、借りるね」

僕が言うと、メイリンが一拍遅れて頷き、シロウは目を輝かせた。

目を輝かせたのは料理が見たいからで、それもまた陽泉酒家らしい平和な欲だ。

 

「なぁマオ兄、さっきの女の人とは知り合いなの」

シロウが追いすがるように言い、僕は足を止めかけて、止めかけた瞬間に猫猫の視線を感じた。

視線は「余計なことを言うな」ではなく、「好きにしろ」に近くて、好きにされるのは逆に困る。

 

「うん、猫姉。俺の姉さんのような存在なんだ」

僕は口にしてから、一人称がぶれたことに気づき、慌てて咳払いで誤魔化した。

誤魔化した咳払いに、猫猫がほんの少しだけ口元を緩めた気がした。

 

「えぇ、とてもそれだけには見えんけどなぁ」

シロウが言い、メイリンが睨んだ。

睨んだ目が僕にも刺さって、刺さった目の熱が妙に痛い。

 

「シロウ、余計な事を言わないのったく」

メイリンが言い、シロウは肩をすくめる。

肩をすくめる軽さが羨ましいが、僕にはその軽さが今は少し重い。

 

「どうしたのメイリン?なんか怒っているようだけど」

僕がつい聞くと、メイリンは短く言った。

 

「…知らない」

知らないという言葉は便利で、便利だからこそ刺さる。

僕はそれ以上聞けず、聞けない自分を情けなく思いながら厨房へ逃げ込んだ。

 

背中で店のざわめきを聞きながら、僕は包丁を握り直した。

握り直した瞬間、指先の感覚が数年前とは違っているのに気づく。

違っているのは力だけじゃなくて、守りたいものの形が変わっているせいだ。

守りたいものの中に、今は目の前の席に座る猫猫が混ざっている。

 

「猫姉と言えば、毒料理だよ」

僕は独り言みたいに呟き、火を見た。

火は答えをくれないが、答えを作るのは僕の手だ。

そして今日は、その答えを待っている人がいる。

 

厨房へ戻ると、さっきまでの賑やかさが嘘みたいに音が変わった。

音が変わったのは静かになったからではなく、僕の耳が「火の音」だけを選び始めたからだと思う。

猫猫が来たという事実が、鍋の音まで少しだけ違って聞こえさせるのは、たぶん僕の負けだ。

負けだと思うのに嫌じゃなくて、嫌じゃないから余計に困る。

 

「マオ兄、特性料理って何?」

シロウが戸口から顔を出し、好奇心を隠す気もなく目を輝かせていた。

好奇心がここまで素直だと、後宮の耳よりずっと扱いやすいのに、扱いやすい分だけ逃げ道がなくなる。

 

「とっておきだよ」

僕はそう言って、包丁を置く場所を整えた。

整える動作は手順の始まりで、手順が始まると余計な言葉が減るので助かる。

 

「とっておきって、何?」

シロウが重ねると、メイリンがお玉で戸口を軽く叩いた。

叩き方が「邪魔するな」ではなく「焦るな」で、メイリンの叱り方はいつも店の空気を守る。

 

「見てれば分かる」

僕が返すと、シロウは口を尖らせて引っ込み、引っ込む瞬間に「絶対覗く」と目で言った。

覗く目は後宮なら刃だったが、ここではただの野次馬だ。

 

僕はまず皿の数を決めた。

満漢全席と言っても、本当に全部出せるわけじゃないし、全部出したら猫猫が検分する時間が足りない。

猫猫が欲しいのは腹いっぱいではなく、疑って確かめられる余白だと僕は知っている。

だから、量を減らして皿を増やすことにして、皿の名前だけを大げさにするのが一番いい。

 

「猫姉、全部は出さないよ」

僕は独り言みたいに呟き、火口の前で手を擦り合わせた。

独り言のつもりだったが、猫猫はきっと聞いている気がしたし、聞いているならそれでいい。

 

一皿目は前菜の見本市で、見本市は「匂いの嘘」を並べるのが肝だ。

嘘を並べると言っても、危険な嘘はつかない。

猫猫が喜ぶのは、危険がないのに危険に見える仕掛けで、それを見抜く時間そのものだ。

 

僕は青菜を湯通しし、冷水で締めて、黒胡麻を多めに擦った。

黒胡麻の香りは甘いのに、見た目は暗くなるから「黒翡翠」という名前が似合う。

香草をほんの少しだけ混ぜ、薬棚の匂いに似た青さを一筋だけ入れて、猫猫の鼻に刺す準備をする。

仕上げに器の縁を拭き、油膜が光らないように整えると、余計に怪しく見えるのが面白い。

 

二皿目は白い豆腐の冷菜で、白いものは何でも「粉」を連想させるから便利だ。

粉山椒をほんの少し、陳皮の乾いた香りを少し、見た目の白さを壊さない程度に影を作る。

香りは一息で消えるように薄くして、薄いからこそ猫猫が追いかけたくなるようにする。

追いかけたくなる香りは、追いかける癖を露わにするので、猫猫の仕草が見られる。

 

三皿目は紅い酢で根菜を軽く締め、唾液が一瞬引く酸の刃を作る。

毒じゃないのに危ないと錯覚する瞬間が好きなのは猫猫だけじゃなくて、僕も同じなのかもしれない。

危ないと錯覚した瞬間に人の顔が出るので、顔が出る料理は記憶に残る。

僕は根菜の切り口を揃え、揃えた上で少しだけ尖らせて、舌に当たる角度を調整した。

 

四皿目は香味油の小皿で、葱油と花椒油を並べて置く。

猫猫は油膜の光り方を見る癖があるから、油膜が見える浅い器を選び、光が当たる位置へ置く。

匂いだけ嗅いでもいいし、舐めてもいいし、何もしなくてもいい。

選べる余白があると猫猫は必ず自分で手順を組むので、そこが“とっておき”になる。

 

「マオ兄、なんか怖いもの作ってない?」

シロウの声が背後から飛び、僕は振り返らずに返した。

 

「怖いのは見た目だけ」

返した声が思ったより柔らかくて、僕は猫猫がそこにいることをまた思い出した。

 

「見た目だけって、余計怖いんだけど」

シロウが言い、メイリンがお玉の音を鳴らした。

鳴らし方が「黙れ」ではなく「ほどほどにしろ」で、陽泉酒家の叱りは優しい。

 

前菜を整えたら、主菜へ移る。

主菜は清蒸魚の二段仕立てで、二度香りを立てるやり方は、後宮で身についた癖みたいなものだ。

あの頃は匂いの底を掘り返すためにやっていたが、今日は猫猫を笑わせるためにやる。

同じ手順でも目的が違うと、火の当て方まで少し変わるのが面白い。

 

魚は身の張りが良いものを選び、葱生姜を山にして蒸す。

一回目の熱油は穏やかに回し、月の輪郭だけ作る。

二回目の熱油は香りが跳ねる温度へ寄せるが、跳ねさせるのは危険ではなく「驚き」の方だ。

驚きは毒と違って、後から笑えるので、猫猫が選ぶならこっちだと僕は信じている。

 

もう一つの主菜は「黒い刃」という名前にして、黒胡麻と醤の色で黒く見せた炒め物にする。

墨色を連想させれば毒々しく見えるのに、実際の匂いは胡麻と香ばしさで安心へ寄る。

猫猫が「本物の墨の匂いじゃない」と言う顔が想像できて、その想像が僕の手を少しだけ軽くした。

 

ここまでで十分に“疑う遊び”はできるが、最後は胃を落ち着かせる皿が必要だ。

猫猫は毒が好きというより、毒の後に来る「解毒の顔」を見るのが好きだ。

だから蓮の葉の香りを移した粥を挟み、香りで息を整える時間を作る。

粥は薄いのに、薄いからこそ誤魔化しが効かず、誤魔化しが効かないものほど腕が出る。

 

締めは甘味で、黒胡麻団子に桂皮と陳皮の香りを移した蜜をかける。

甘いのに薬棚の匂いがする後味は、猫猫の趣味に合うし、後宮の後味も笑い話に変えられる。

笑い話に変えられるなら、数年前の匂いも少しだけ軽くなる気がした。

 

皿を並べ終えると、僕は布で手を拭き、深く息を吸った。

息を吸うと湯気の匂いが胸に満ち、満ちた匂いが「今」を強くする。

僕は「今」を守るために、この皿を作ったのだと遅れて気づいた。

 

「運ぶの、僕がやるよ」

メイリンが言い、僕は首を振った。

 

「最初の四つは僕が運ぶ」

僕が言うと、メイリンは目を細めた。

細めた目が「分かった」と言っているのに、どこか面白がっているようにも見える。

 

「特別扱い?」

メイリンが小さく言い、僕は返事を失いかけた。

返事を失うと余計なことが顔に出るので、僕は急いで笑って誤魔化した。

 

「とっておきだから」

それだけ言って、僕は前菜の盆を持ち上げた。

盆の重さは軽いのに、軽い盆ほど心臓が重くなるのが不思議だった。

 

猫猫の席へ近づくと、猫猫は湯飲みを置いてこちらを見た。

見方は後宮の時と変わらないのに、旅の衣装がそれを柔らかく見せる。

僕は盆を置き、皿を一つずつ並べ、並べ終えたところで猫猫の目を見た。

 

「毒の満漢全席、まずは前菜」

僕が言うと、猫猫は口元だけで笑った。

その笑いは「待ってた」に近くて、僕は胸の奥が妙に熱くなった。

 

「全部、検分できる量にしてあるね」

猫猫が言い、言い方が褒めではないのに褒めに聞こえるのが悔しい。

 

「猫姉が欲しいのは毒じゃなくて、疑える皿だろ」

僕が返すと、猫猫は一拍置いてから箸を取った。

箸の取り方が丁寧で、丁寧だからこそ、次に来る言葉が刺さる予感がする。

 

「分かってるなら、早く出して」

猫猫はそう言い、黒翡翠の青菜を一口だけ口へ運んだ。

一口だけで止めるのが猫猫らしくて、僕は思わず笑いそうになり、喉の奥で押し殺した。

 

「……香草、入れたね」

猫猫は淡々と言い、視線だけで僕を刺した。

刺し方が「当てた」ではなく「見てる」なのが、猫猫の怖いところだ。

 

「入れたよ。猫姉が当てるから」

僕が言うと、猫猫は次の皿へ箸を伸ばした。

その動きが軽いのに、軽い動きほど僕の心を揺らすから困る。

 

後ろでシロウが「うわ、なにそれ、毒?」と騒ぎ、メイリンが叱る音が聞こえる。

騒がしいのに、猫猫の席の周りだけ空気が薄く澄んでいるように感じた。

その澄んだ空気の中で、僕は次の皿を運ぶ段取りを頭の中で組み直していく。

猫猫が望んだ「とっておき」は、料理の形をしているけれど、たぶん料理だけじゃない。

 

僕は次の盆を持ち上げ、主菜の前に、香味油の小皿をそっと置く準備をした。

猫猫が油膜の光り方を見る癖を、今も変わらず持っているか確かめたかった。

確かめたいのは癖だけじゃなくて、癖の向こう側にある「変わらないもの」だ。

変わらないものがあるなら、数年前に途切れた時間にも、ちゃんと意味が残る気がしていた。

 

前菜の盆を下げる時、猫猫の箸の止まり方を見てしまう。

止まり方は後宮の頃と同じで、一口ごとに匂いを拾い、舌の上で転がし、結論を口に出す前に一拍だけ置く。

その一拍が猫猫の癖で、癖が残っていることが妙に嬉しくて、嬉しいと思った瞬間に自分が馬鹿みたいに感じた。

馬鹿みたいでも手は動くので、僕は次の盆を持ち上げ、香味油の小皿を先に置いた。

 

「こっちは葱の油、こっちは花椒の油」

僕が言うと、猫猫は器の縁を指先で軽く押さえ、油膜の光り方を眺めた。

眺め方が真剣すぎて、周りがざわついているのが遠くなる。

 

「……光が均一」

猫猫が呟き、言葉の端がほんの少しだけ柔らかい。

「変な混ざり方はしてない」

 

後宮ならその一言で僕の胃は落ち着かなかっただろうが、ここは陽泉酒家で、混ざり方を疑うのは遊びの範囲で済む。

僕はその差をありがたいと思い、ありがたいと思ったせいで、猫猫の前で余計に笑ってしまいそうになる。

笑ってしまうのが怖いのは、笑いが漏れた瞬間に何かが始まってしまう気がするからだ。

 

「猫姉、今日は安心して疑っていいよ」

僕が言うと、猫猫は僕を見上げ、目だけで笑った。

声にしない笑いが返ってくると、僕の方がうろたえるから不公平だ。

 

主菜の清蒸魚は、湯気を立てたまま運んだ。

湯気が立っていると香りが逃げず、香りが逃げないと二段目が効く。

二段目を効かせるために運ぶ手が丁寧になり、丁寧になりすぎると今度は周りの目が気になる。

それでも今日は気にしないことにしたし、気にしないと決めた瞬間に胸の奥が少し軽くなった。

 

「二回やるよ」

僕が言うと、猫猫は頷き、頷き方は許可ではなく期待だった。

期待を向けられるのに慣れていないわけじゃないのに、猫猫の期待だけは体の奥に直接落ちてくる。

 

一回目の熱油を回すと、葱生姜の香りがふわりと立ち、皿の上に月の輪郭ができた。

二回目の熱油は香りが跳ねる温度へ寄せ、跳ねた瞬間に湯気が一段白くなる。

白くなった湯気の下で、猫猫の目が一瞬だけ細くなり、僕はそれを見て勝手に安心した。

安心した理由が「当てられる」と分かったからなのが、我ながら職人として情けない。

 

「……二度目の方が、意地が悪い」

猫猫が淡々と言い、箸で身を少しだけ崩して匂いを確かめた。

意地が悪いと言われると褒められている気がして、僕は危うく顔を緩めるところだった。

 

「猫姉が喜ぶからね」

僕が言うと、猫猫は口元をほんの少しだけ上げた。

その上げ方が「悪戯の成功」に似ていて、僕は胸の奥が熱くなった。

 

「喜んでる顔?」

猫猫が言い、言い方が挑発に近い。

挑発に乗ったら負けだと思うのに、負けたくないと思う気持ちがすでに負けの形をしている。

 

「今のは、ちょっとだけ」

僕が小声で返すと、猫猫は何も言わずに一口食べた。

一口の後で眉は動かないのに、息の出方だけが少しだけ変わる。

その変化に気づける距離に自分がいることが、急に怖くて嬉しい。

 

二皿目の「黒い刃」を出すと、シロウが席の向こうで声を上げた。

「うわ、真っ黒。絶対毒だろ」

メイリンの叱りがすぐ飛び、店の空気が笑いへ転がる。

転がった笑いが猫猫の席まで届かないのは、猫猫が笑いで場を濁さないからだ。

 

猫猫は黒い皿を見ただけで鼻を動かし、箸を伸ばす前に結論を一つ落とした。

「墨じゃない」

短いのに断定で、断定だからこそ安心に繋がる。

 

「胡麻だよ」

僕が返すと、猫猫は「知ってる」と言わずに一口だけ食べた。

一口の後で「香ばしい」とも言わず、ただ「ちゃんとしてる」とだけ言った。

ちゃんとしてるは猫猫の中では最大級の褒め言葉に近いので、僕はそれを胸の奥にしまった。

 

粥は最後から二番目に出した。

猫猫の検分は熱が入ると止まらないので、止まらない前に一度落ち着かせる必要がある。

落ち着かせるのは料理の役目で、料理の役目を果たせば、言葉で慰める必要はない。

僕は蓮の香りをまとわせた粥をそっと置き、置いた時に湯気の向こうで猫猫のまつ毛が揺れるのを見た。

 

「これは、胃に優しい」

猫猫がぽつりと言い、言った後に自分で言い過ぎたみたいに視線を逸らした。

逸らした視線の先に、昔の壁や噂の耳がないことが分かっているのに、猫猫の体はまだ後宮の癖を残している。

残している癖が愛おしいと思った瞬間、僕は慌てて顔を火口の方へ向けた。

 

「猫姉、優しいのは粥だよ」

僕が笑って言うと、猫猫は湯気越しに僕を見た。

見方が「そういうところだよ」と言っている気がして、僕は笑いを引っ込めた。

 

甘味の黒胡麻団子は最後に出した。

蜜に桂皮と陳皮の香りを移し、甘いのに薬棚の匂いがする後味を残した。

後味は後宮では厄介の種だったが、今は「また食べたい」の理由になる。

理由になるなら、後味は悪いものばかりじゃない。

 

猫猫は団子を半分に割り、割った断面を見てから口へ運んだ。

その手順が猫猫らしすぎて、僕は笑いそうになり、喉の奥で押し殺した。

 

「毒じゃない」

猫猫が言い、言った後に蜜を舐めるように少しだけ間を置いた。

「でも、薬棚っぽい」

 

「猫姉の好きな匂いだろ」

僕が言うと、猫猫は一拍置いてから、短く返した。

 

「……嫌いじゃない」

嫌いじゃないは猫猫の中では、たぶん「気に入った」に近い。

近いのに遠回しで、遠回しだからこそ胸の奥に残る。

 

背後でシロウがまだ騒いでいる。

「なぁマオ兄、あの人さ、ほんとに姉さんなの?」

メイリンがまた叱り、叱りが強くなるほど、メイリン自身の機嫌が揺れているのが分かる。

揺れているのが分かるのに、僕はどう扱えばいいのか分からなくて、分からないまま火の匂いへ逃げたくなる。

 

猫猫はシロウたちの声を聞きながら、僕へだけ聞こえる程度の声で言った。

「賑やかだね」

賑やかだね、という一言に、後宮の静けさがどれだけ異常だったかが滲んでしまう。

 

「陽泉酒家はこういう場所なんだ」

僕が言うと、猫猫は湯飲みを持ち上げ、少しだけ口をつけた。

湯飲みの縁に口紅の跡が残らないのが、妙に猫猫らしい。

 

「……ここなら、隠れなくてもいい」

猫猫が言ったのは小さな声で、聞き間違いかと思うほど薄かった。

それでも僕にははっきり聞こえて、聞こえた瞬間に胸の奥が変な音を立てた。

 

「隠れなくていいなら、また来てよ」

僕は自分でも驚くほど素直に言ってしまい、言ってから慌てて湯気を吸い込んだ。

湯気は熱くて、熱い湯気は言い過ぎた言葉を少しだけ曖昧にしてくれる気がする。

 

猫猫は僕を見て、悪戯が成功した時みたいに口元を上げた。

その笑みは後宮で見たどの笑みとも違って、違うのに僕の中の「猫姉」が確かに同じ場所で息をした。

 

「とっておき、また作れる?」

猫猫が言い、質問の形なのに答えは決まっているように聞こえた。

決まっているなら、僕が返すべき言葉も決まっている。

 

「勿論。猫姉が望むなら、何度でも」

僕が言うと、猫猫は箸を置き、湯飲みを置き、そして少しだけ姿勢を正した。

姿勢を正したのは話を終える合図みたいで、終えたくない僕の心が一瞬だけ反発した。

 

「じゃあ、今度は私が持ってくる」

猫猫はさらりと言い、さらりと言ったから余計に意味が分からなかった。

 

「持ってくるって、何を?」

僕が聞くと、猫猫は答えずに立ち上がり、旅の衣装の袖を軽く払った。

払う動作が、最初に見た時と同じ「勝った」みたいな動作で、僕は胸の奥が熱くなる。

 

「来れば分かる」

猫猫はそう言い、席を離れかけてから一度だけ振り返った。

振り返った目が、もう一度驚いた顔を見たいと言っているみたいで、僕は勝手に笑ってしまった。

 

「うん、待ってる」

僕が言うと、猫猫は頷き、頷いたまま店のざわめきの中へ溶けていった。




ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。
本作「薬屋と料理人は幼馴染み 」は、以前からずっと書いてみたかった「薬屋のひとりごと」と「中華一番!」のクロスオーバーとして執筆しました。

世界観や時系列、設定のすり合わせなど、どうしても矛盾点や無理のある部分が出てしまったと思います。
それでもここまで続けてこられたのは、読んでくださった皆さまの反応や感想に支えられたおかげです。

最後までお付き合いいただき、改めてありがとうございました。
またどこかで、別のお話でもお会いできたら嬉しいです。
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