里樹妃が私を呼んだ理由は、ひどく控えめなものだった。病と呼ぶほどではない。ただ、最近どうにも食が進まない。何を口にしても、美味しいと思えない――それだけだ。だが後宮において、それは十分すぎるほどの異常だった。
「猫猫が、珍しい料理人を連れていると聞きました」
里樹妃はそう切り出し、少しだけ視線を伏せた。
「もし可能でしたら……私にも、何か作っていただけないでしょうか」
声音は柔らかく、幼さが残る。自分の願いがわがままだと思っているのが、はっきり分かった。私は一礼し、「承知しました」とだけ答えると、控えさせていたマオを呼んだ。
彼が姿を現した瞬間、里樹妃は驚いたように目を瞬かせ、それから慌てて姿勢を正す。マオはすぐにその場の空気を察し、深く頭を下げた。
「初めまして。劉昴星と申します。本日はお声がけいただき、ありがとうございます」
余計な馴れ馴れしさもなく、過度な緊張もない。里樹妃はほっとしたように頷いた。
「こちらこそ……突然で、すみません」
「いえ。お話は猫猫さんから伺いました。今日は、体に負担のないものをお作りします」
厨房が用意され、私は毒見役として同席する。もっとも、今日の料理に毒の入る余地はほとんどない。それでも後宮では形式が重要だ。
マオが選んだのは、鶏と米のとろとろ粥だった。
丸鶏から取った出汁を使うが、煮詰めすぎない。脂は丁寧に取り除き、塩は最小限。米は崩れるまで煮込み、舌に当たる抵抗をなくす。調理の様子を見ていると、技術というより「加減」を知っている料理人だと分かる。
「火は強くしないんですね」
里樹妃が、少し身を乗り出して尋ねた。
「はい。強くすると、味が前に出すぎます」
マオは穏やかに答え、鍋から目を離さない。
「今日は“分かる味”より、“疲れない味”を優先しますから」
その言葉に、里樹妃はよく分からないながらも、興味深そうに頷いていた。
出来上がった粥は、見た目にも柔らかく、香りは控えめだ。私は形式通り毒味を行い、問題がないことを確認する。味は……正常だ。むしろ、後宮の料理としてはかなり薄い。
里樹妃の前に差し出されると、彼女は慎重に一口含んだ。
「……あ」
小さく声が漏れる。
「美味しいです」
その言葉は嘘ではない。匙も止まらない。口に運び、飲み込み、また口に運ぶ。だが、次に出た感想が、明らかにおかしかった。
「でも……」
里樹妃は首を傾げる。
「味が、来るのが遅い気がします」
マオの動きが、ほんの一瞬止まった。
「匂いは分かるのに、舌が……追いつかないというか」
さらに一口食べて、困ったように笑う。
「嫌じゃないんです。ただ、前に食べたものの方が……もっと、はっきりしていたような」
読者にも、ここで分かるはずだ。
彼女は「味がない」と言っているのではない。
「味を感じ取れなくなっている」のだ。
それでも里樹妃は、最後まで粥を食べ切った。
「ごちそうさまでした」
満足そうに言うその表情が、逆に異常を際立たせていた。
部屋を辞した後、廊下でマオが私を呼び止める。
「猫姉」
声は低く、里樹妃に聞かれないよう配慮している。
「今の反応……変だ」
「ええ」
私は即座に肯定した。
「薄味だからじゃありません。あれは……」
「舌が、疲れてる」
マオがそう言った瞬間、私の中で点が線につながった。
「強い味を、短時間で大量に摂った後の反応ですね」
「ああ。旅の途中で、何度か見たことがある」
彼はそこで言葉を切り、私を見る。
「本人には、言わない方がいい」
「同意見です。幼い方ですし、心配させるだけ」
私は息をつき、静かに結論を出した。
「……また、事件になりますね」
「なるな」
毒ではない。病でもない。
だが確実に、人為的な“何か”が介在している。
後宮で起きる異常は、いつも静かだ。
そして、静かな異常ほど、厄介なのである。