里樹妃の部屋を出てから、胸の奥に引っかかっているものが消えなかった。
あの粥の反応だ。味が薄いわけじゃない。作り方も、塩の加減も間違っていない。それでも「遅い」「弱い」と言われた感覚。あれは、舌そのものの問題だ。
猫姉には一言だけ「厨房を見てくる」と伝え、俺は一人で足を向けた。
厨房に入ると、先にこちらに気づいた料理人たちが声をかけてくる。以前の一件――烏骨鶏の料理以来、どうやら俺の印象は悪くないらしい。
「お、あんたか」
「また何か作るのか?」
「今日は点検役か?」
冗談めいた空気に、少しだけ肩の力が抜ける。だが、目的は別だ。
「今日の宴で出た料理を、全部見せてほしい」
そう言うと、料理人たちは顔を見合わせながらも、特に拒むことなく鍋の並ぶ列を指し示した。
一つずつ確認していく。香り、色、浮いた脂。強すぎる香辛料も、怪しい粉末もない。毒物が混入した形跡も見当たらない。
(やっぱり、普通だ)
猫姉が見れば、きっと同じ結論を出すだろう。
だが、そこで終わらなかった。
奥に置かれた一つの大鍋。蓋をしたまま、他の鍋と同じ顔をしている。だが、近づいた瞬間に違和感を覚えた。
(……軽い)
直感だった。
周囲の鍋に比べて、明らかに中身の気配が薄い。具材の存在感がない。
「これ、何の鍋だ?」
俺が尋ねると、近くにいた料理人が答える。
「スープだ」
「宴の締めに出したやつだな」
「具は?」
「途中で引き上げた」
その言葉に、俺は眉をひそめる。
「最初から、具は少なかっただろ」
「まあな」
料理人は肩をすくめた。
「だから、俺たちも変だとは思った」
俺は無言で蓋を外し、鍋の中を覗き込む。そして、そのまま腰を落として鍋底を見る。
そこには、干された素材が敷き詰められていた。
乾燥させた蟹の殻と身。
しかも、雑に放り込んだものじゃない。隙間なく、均等に。水に戻す前提で、旨味だけを引き出す配置だ。
一瞬で、理解してしまった。
(……なるほど)
干し物を鍋底に敷き、具は使わない。
水分は最小限。
長時間、静かに煮出す。
香りは立ちにくい。
だが、味だけは異様なほど濃くなる。
「……他に鍋は使わなかったのか」
俺の問いに、別の料理人が首を振る。
「本当はもう一つ必要だった」
「だが、これで十分だと言われた」
「意味は分からんが、確かにおかしいとは思った」
全員が、違和感は共有している。
だが、それが料理として何を意味するのかまでは、誰も分かっていない。
俺は鍋の縁に手を置いたまま、しばらく黙っていた。
(毒じゃない。だが、善意とも言い切れない)
これは、味で殴る料理だ。
一杯で舌を疲弊させ、基準を狂わせる。
(……昔、見た手口と同じだ)
胸の奥で、嫌な記憶が蘇る。
料理は、人を喜ばせるものだ。
だが、濃すぎれば――壊す。
俺は静かに立ち上がり、蓋を戻した。
「この鍋のことは、覚えておいてくれ」
「理由は?」
「今は、まだ言えない」
料理人たちは首を傾げながらも、それ以上は追及してこなかった。意味が分からなくても、何かおかしいという感覚だけは共有している。
それで十分だ。
俺は厨房を後にする。
次に話す相手は、決まっている。
(猫姉……これは、ただの不調じゃない)
また一つ、後宮で“静かな事件”が動き始めている。