鍋の蓋を戻したあとも、胸の奥のざらつきは消えなかった。
理由ははっきりしている。あれは「美味しすぎた」わけじゃない。ただ、濃すぎた。乾貸――乾燥させた素材を、必要以上に使った結果だ。旨味は凝縮され、舌にまとわりつき、嗅覚と味覚を同時に疲弊させる。料理として成立していても、人に出す量とやり方を間違えれば、ただの凶器になる。
猫姉にだけ、見たままを伝えた。
鍋底に敷き詰められた乾貸。素材の種類は多くない。だが配置が異様に整っていたこと。水分を極限まで抑え、香りが立つ前に味だけを叩き出す構造だったこと。里樹妃が食事を拒んだ理由は、病でも毒でもない――一度あのスープを飲み、以後ほとんどの料理が「何も味をしなくなった」からだと。
「やっぱりね」
猫姉は短くそう言った。
彼女の目は、すでに次の段階を見ている。
「問題は二つ。誰が鍋を用意したか。もう一つは……」
「匂いをどう誤魔化したか、だな」
俺がそう続けると、猫姉は小さく頷いた。
本来、あの手のスープは匂いで気づく。乾貸は特徴的だ。近づけば分かる。だが宴では、誰も異変に気づかなかった。
その日のうちに、俺は壬氏に呼ばれた。高順も同席している。二人の前で、俺は厨房で見たこと、里樹妃の反応、そして味覚疲労という結論だけを簡潔に話した。過去の話は出さない。必要ない。
「つまり、毒ではないが、結果として食を奪った」
壬氏は静かに言った。
「はい。濃度の問題です。乾貸を必要以上に使った。あれを一度飲めば、舌は休むまで戻りません」
「里樹妃が最近、食事を避けていた理由は?」
「味が分からなくなったからです。不味いのではなく、感じられない。だから箸が止まる」
高順が一歩踏み出す。
「鍋は誰でも触れたのか?」
「可能です。ただし、違和感は共有されていました。具が少ない、鍋が軽い。意味は分からなくても、おかしいとは皆が思っている」
壬氏は顎に手を当て、しばし黙考した。
「では、残るは二点だ。誰が準備したか。そして、匂いの誤魔化し方」
俺は頷いた。
匂いについては、いくつか心当たりがある。宴の直前に焚かれた香。先に出された、匂いの強い一品。器の選び方と温度。どれも単独では決め手に欠けるが、組み合わされば成立する。問題は、それを意図して組める人物が誰か、だ。
「料理人にその意図があったかは、分かりません」
俺は正直に言った。
「善意の可能性もある。ただ、結果は同じです」
壬氏は視線を上げ、静かに告げる。
「ならば、調べる。だが大事にはしない。里樹妃を不安にさせる必要はない」
「同意します」
高順が頷く。
話はそこで切られた。処分も断罪もない。ただ、鍋は消え、同じ手順は二度と使われない。それが後宮だ。
部屋を出たあと、猫姉と短く言葉を交わした。
「事件になる?」
「なるわね。静かに」
猫姉はそう言って、視線を廊下の先へ向けた。
乾貸が詰まった鍋を、誰が用意したのか。
あの匂いを、どうやって誤魔化したのか。
答えはまだ出ていない。
だが一つだけ確かなことがある。
料理は、人を満たす。
同時に、やり方を誤れば、静かに奪う。