正月の後宮は、いつにも増して落ち着きがない。
回廊には赤い布が掛けられ、祝いの挨拶を交わす声が途切れない。人の流れは途切れることなく、下女たちは普段よりも速い足取りで行き交い、料理番たちも浮き足立った様子で盆を運んでいる。祝う空気そのものが仕事になっているようで、見ているだけで肩が凝りそうだった。
そんな喧騒を背にして、俺と猫姉は人目につかない小さな一室に身を置いていた。物置として使われていた部屋らしく、壁際には使われていない箱が積まれ、飾り気はない。扉を閉めれば、外のざわめきは一気に遠のき、時間の流れまで緩んだように感じられる。
「ここ、本当に静かですね」
思わずそう言うと、猫姉は小さく鼻を鳴らした。
「正月にわざわざ、こんな所で休もうなんて思う人はいないもの」
猫姉の装いは、正月用ではあるが控えめだった。淡い色の上衣に動きやすい裳。帯の端にだけ赤が差し色として入っている。髪もきっちりまとめられ、簪も実用的なものだ。華やかさより、仕事に戻れることを優先した格好。それが妙に猫姉らしくて、安心する。
俺は膳を整え、小椀に盛った長寿麺と蒸し餃子、それから茶を並べた。
「派手じゃなくて、すみません」
「いいのよ。むしろ助かる」
猫姉は腰を下ろし、膳を一瞥してから箸を取る。
「正月だからって、胃を酷使する理由はないもの」
「ですよね。お仕事もすぐありますし」
「ええ」
麺をすすりながら、猫姉はふっと息を吐いた。
「正月って、余計な人間関係が前に出てくるのよ」
「……壬氏様、でしょうか」
そう言った瞬間、猫姉の視線がこちらに向いた。
「名前を出すと、仕事が増える」
「すみません」
「いいの。事実だし」
猫姉は餃子を一口かじり、淡々と続ける。
「忙しくなると、やたらと様子を見に来るでしょう。気遣いなのか、単なる興味なのか分からない」
「高順さんは……」
「話が通じる分、まだ楽よ」
一度言葉を切り、茶を口にする。
「でも周囲がね。正月だからって、急に距離を詰めてくる人が増えるのが面倒」
「……気を遣われすぎるのも、大変ですね」
「ええ。仕事がしづらい」
その言い方は淡々としているが、どこか疲れが滲んでいた。猫姉は強いが、何でも一人で処理してしまう癖がある。その背中を、こうして正面から見ることは、実はあまり多くない。
「小蘭たちは浮かれてるけど」
「楽しそうですよ」
「ええ。だから、何も言えない」
猫姉の口元が、ほんの少し緩む。その表情を見て、胸の奥が静かに動いた。猫姉が誰かの話題で表情を柔らかくするのは、案外珍しい。
俺は茶を注ぎながら、少し迷ってから口を開く。
「……猫姉は、後宮で一人で抱え込みすぎじゃないですか」
「今さら」
「聞いてるだけで、大変そうだなと」
「だから、今はこうして休んでる」
そう言いながら、猫姉は膳を見下ろす。
「二人分だけで、余計な意味がない食事って、楽ね」
「そう言ってもらえると、嬉しいです」
猫姉はちらりとこちらを見て、すぐに視線を逸らした。その仕草が、ほんのわずかにぎこちない。
「マオは?」
「はい?」
「あなたの方は。周りに、厄介な人はいないの?」
意外そうな問いだったが、正直に答えることにした。
「いますよ。尊敬してる料理人も、負けたくない相手も」
「料理人同士、ね」
「はい。陽泉酒家の人たちもそうですし、旅先で出会った人も」
猫姉は黙って聞いている。
「それから……メイリィって子がいます」
「……女の子?」
声の調子は変わらない。だが、猫姉の箸が一瞬だけ止まった。
「はい。店を手伝ってくれてて、明るい子です」
「そう」
それだけ言って、猫姉は茶を口にする。その仕草が、さっきより少しだけ硬い。
「人の世話を焼くのが上手で……」
「……仲間がいるのは、いいことよ」
言葉は穏やかだが、どこか区切るような言い方だった。猫姉自身も、その違和感に気づいていないのだろう。自分で分からないまま、胸の奥に小さな棘が刺さったような、そんな反応に見えた。
「猫姉?」
「何?」
「いえ……」
それ以上、踏み込むのはやめた。猫姉は再び箸を動かし、何事もなかったかのように餃子を食べ終える。
「こういう話、あまりする相手いないの」
ぽつりと、そう言った。
「……聞き役なら、いくらでもやります」
少し敬意を込めて言うと、猫姉は一瞬だけ目を細めた。
「都合がいいわね」
「猫姉がよければ、です」
少しの沈黙の後、猫姉は小さく息を吐いた。
「……悪くないわ」
その言葉に、胸の奥が温かくなる。猫姉自身は、それをただの会話だと思っているだろう。ただ愚痴を聞いてもらった、それだけの時間だと。けれど俺には、この静かな時間が、正月の喧騒よりもずっと特別に思えた。
外から足音が近づき、現実が戻ってくる。
「そろそろ戻りましょう」
「はい」
立ち上がると、猫姉の衣がわずかに音を立てる。派手ではないが、どこか目を引く。その理由を、猫姉自身はきっと理解していない。
事件は起きなかった。
特別な約束も、はっきりした感情の自覚もない。
それでも、猫姉がこの時間を「悪くない」と感じてくれたなら、それで十分だった。
正月の始まりとしては、きっとそれが一番、穏やかな形なのだろう。
――後になって思えば、あの正月の食事は、特別に美味しかったわけでも、楽しかったわけでもない。
ただ、仕事に戻る前に、ああして一息つけたことを、なぜか今でもはっきり覚えている。それが少し不思議で、理由を考えるのは、面倒だからやめておくことにした。