薬屋と料理人は幼馴染み   作:ボルメテウスさん

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宮廷毒膳事件録 弐

 猫姉に連れられて辿り着いたのは、後宮の厨房だった。

 

 門をくぐった瞬間、俺は思わず息を呑む。

 

 広い。

 清潔だ。

 道具も、火口も、食材の置き方も、すべてが整いすぎている。

 

 ――整いすぎて、息苦しい。

 

「……すごいね」

 

 正直な感想だった。

 

 猫姉は、特に誇る様子もなく言う。

 

「後宮だからね。

 最低限、事故は起こらないようにはなってる」

 

 “最低限”という言い方が引っかかったが、今は流す。

 

 周囲では、数人の料理人たちが既に動いていた。

 下拵え、火入れ、器の確認。

 どれも無駄がなく、よく訓練されている。

 

 腕がないわけじゃない。

 

 それなのに――

 

 何かが、足りない。

 

「……猫姉」

 

 小声で呼ぶ。

 

「ここ、料理の匂いがしない」

 

 猫姉は、少しだけ目を細めた。

 

「気づいた?」

 

「うん。

 油も、香辛料も、出汁もあるのに……混ざってない」

 

 普通、これだけの人数が動けば、空気が変わる。

 だがここは、静かすぎる。

 

「後宮の厨房はね」

 

 猫姉は、作業の邪魔にならない位置で立ち止まる。

 

「味を主張しない料理が基本なの」

 

「主張しない?」

 

「誰かに良く思われる料理は、

 同時に、誰かに悪く思われる可能性があるでしょ」

 

 なるほど、と納得しかけて――

 

 それでも、違和感は消えなかった。

 

「でもさ」

 

 思わず口に出る。

 

「それって、“美味しくしない”理由にはならないよね」

 

 一瞬、猫姉がこちらを見る。

 

 少しだけ、驚いたような顔。

 

「……相変わらずだね」

 

 ため息とも、笑いともつかない声。

 

「ここでは、

 “美味しい”より“安全”が優先される」

 

 安全。

 

 その言葉が、胸に落ちる。

 

 料理人にとって、便利で、

 同時に、一番危険な言葉だ。

 

 そこへ、後宮の料理長らしき人物が近づいてきた。

 年配で、表情が読みにくい。

 

「こちらが、外部から招かれた料理人か」

 

「はい。宴担当です」

 

 猫姉が簡潔に答える。

 

 料理長は、俺を上から下まで一瞥した。

 

「……若いな」

 

「よく言われます」

 

 軽く頭を下げる。

 

「指示には従ってもらう。

 勝手なことはするな」

 

「分かりました」

 

 返事は即答だった。

 

 だが、心の中では、別のことを考えていた。

 

 ――この厨房、

 “勝手なこと”をしなくても、

 何かが起きる。

 

 食材庫をちらりと見る。

 

 肉の処理。

 野菜の水切り。

 乾物の戻し。

 

 一見、問題はない。

 

 けれど。

 

「……あれ?」

 

 小さく、声が漏れた。

 

「どうしたの」

 

 猫姉がすぐ反応する。

 

「いや、なんでも……」

 

 そう言いかけて、やめた。

 

 なんでも、じゃない。

 

 切り方だ。

 

 肉の繊維に対して、微妙に逆。

 火を通せば、硬くなる。

 

 わざとか?

 それとも――知らない?

 

 料理長は、気づいていない様子だった。

 

 猫姉と、目が合う。

 

 言葉にはしない。

 だが、猫姉も何かを感じ取ったらしい。

 

「……後で、話そう」

 

 小さく、そう言われた。

 

 俺は、静かに頷く。

 

 宴は、まだ始まっていない。

 準備も、半ばだ。

 

 それなのに。

 

 この時、はっきり分かった。

 

 ――この宴、

 ただの祝い事じゃ、終わらない。

 

 そして俺は、料理人として、

 それに関わることになる。

 

 猫姉の隣で、

 静かに火を見つめながら、

 そう確信していた。

 宴の刻が、近づいていた。

 

 後宮の厨房は、先ほどまでの静けさとは別の意味で落ち着きを帯び始めている。

 慌ただしさはない。

 むしろ、奇妙なほどに整然としていた。

 

 料理人たちは決められた位置に立ち、決められた作業だけを繰り返す。

 声は最低限。

 指示も短い。

 

 まるで、すでに完成した料理の流れを、なぞっているだけのようだった。

 

 器が運ばれていく。

 白磁、青磁、装飾を抑えた高級品。

 どれも主張しないが、安っぽさは微塵もない。

 

 ――後宮の宴らしい。

 

 俺は、自分に割り当てられた調理台の前で、周囲を観察していた。

 火口の数、油の種類、香辛料の配置。

 すべてが理屈の上では、完璧だ。

 

 それなのに。

 

 胸の奥に、ずっと引っかかるものがある。

 

 香りが、立たない。

 

 正確には、立たせていない。

 

 油を温める温度。

 香辛料を入れる順番。

 火を強めるタイミング。

 

 どれも、「間違い」ではない。

 だが、「最適」でもない。

 

 猫姉が、少し離れた場所で様子を見ている。

 表情は仕事のそれだが、視線は頻繁に厨房全体を巡っていた。

 

 俺と、目が合う。

 

 一瞬だけ、眉が動いた。

 

 ――やっぱり、同じことを感じている。

 

 宴に出される料理の一覧が、板に貼られている。

 滋養を意識した献立。

 脂は控えめ、香りは穏やか、胃に優しい構成。

 

 表向きには、非の打ちどころがない。

 

 だが、俺はその中の一品に、目を留めた。

 

 主菜の一つ。

 本来なら、火を通す前に繊維を断つ切り方をするはずの肉が、そうなっていない。

 

 切り口が、微妙に流れに逆らっている。

 

 そのまま火を入れれば、硬くなる。

 消化にも時間がかかる。

 

 健康な人間なら、問題にならない。

 だが――

 

「……猫姉」

 

 小声で呼ぶ。

 

 彼女はすぐに近づいてきた。

 

「なに」

 

「この料理、主賓向け?」

 

「そうだけど」

 

 短い返答。

 

「体調、万全じゃないって言ってたよね」

 

 猫姉の視線が、肉の切り口に落ちる。

 

 数秒、無言。

 

「……なるほど」

 

 それだけ言って、表情を変えずに離れていった。

 

 否定もしない。

 だが、無視もしない。

 

 それが、猫姉なりの“受け取った”という合図だと、俺は知っている。

 

 やがて、配膳の準備が始まる。

 

 料理は、順番通りに並べられ、蓋をされ、運ばれていく。

 香りが閉じ込められたまま。

 

 宴の場からは、かすかに人の声が聞こえ始めた。

 笑い声。

 衣擦れの音。

 金属が触れ合う気配。

 

 華やかで、穏やかで、

 何事も起こらないように見える。

 

 だからこそ。

 

 俺は、背中にじっとりと汗を感じていた。

 

 料理は、正しく作られている。

 だが――“向いていない”。

 

 誰に、とはまだ断定できない。

 意図があるのかどうかも、分からない。

 

 それでも、料理人としての感覚が告げている。

 

 ――この宴は、

 食べた後に、何かが起きる。

 

 猫姉が、遠くからこちらを一度だけ見た。

 

 ほんの一瞬。

 けれど、確かに意思のある視線だった。

 

 宴は、もうすぐ始まる。

 

 俺は、ゆっくりと息を整える。

 

 ここから先は、

 味だけを見ていればいい場所じゃない。

 

 料理が、

 誰かの体と立場に、

 どう作用するかを見る場だ。

 

 ――そういう食卓が、

 今、開かれようとしていた。

 

 宴は、静かに始まった。

 

 華やかな席だが、誰も浮かれてはいない。

 箸の動きは上品で、酒の量も控えめ。

 後宮の宴は、祝いの場というより、観察の場だ。

 

 料理が運ばれるたび、猫姉の視線が動く。

 

 人を見る目だ。

 

「……前菜、どう?」

 

 配膳の合間、すれ違いざまに小声で聞かれた。

 

「問題ない。

 胃は起こさない」

 

「起こさない、ね」

 

 その言い方に、含みがある。

 

 二品目が出る。

 

 香りは弱く、油も軽い。

 安全そのものの料理だ。

 

 だが、俺は眉をひそめた。

 

「猫姉」

 

「なに」

 

「これ、全部……同じ方向向いてる」

 

「方向?」

 

「優しすぎる。

 回復期の人間向けじゃない」

 

 猫姉は、主賓の様子を見ながら答える。

 

「今の体調、表に出てるほど良くない」

 

「だよね」

 

 主菜が出た。

 

 問題の一皿。

 

 見た目は完璧だ。

 だが、俺の目には、切り口がはっきりと映る。

 

「……やっぱりだ」

 

「何が」

 

「この肉、

 噛ませる前提で作ってる」

 

 一瞬、猫姉の動きが止まった。

 

「それ、どういう意味」

 

「消化に時間がかかる。

 体力がある人なら問題ないけど――」

 

「弱ってると、負担になる」

 

 言葉が、重なる。

 

 主賓が箸を置く。

 

 ほんの一瞬、胸元を押さえた。

 

 誰も気づかない。

 だが、猫姉は見逃さない。

 

「……息、浅くなった」

 

 猫姉が、ほとんど唇を動かさずに言う。

 

「毒?」

 

「違う」

 

 即答だった。

 

「反応が遅すぎる。

 それに、脈も乱れてない」

 

 猫姉は、視線だけで状況を追う。

 

「食後の負担。

 でも、薬でどうにかなる感じでもない」

 

 俺は、拳を握った。

 

「料理だ」

 

 猫姉が、こちらを見る。

 

「断定できる?」

 

「できる。

 これは“間違い”じゃない」

 

 言葉を選ぶ。

 

「向いてないだけだ。

 でも――」

 

「向いてないことを、

 知ってて出してる」

 

 猫姉が、低く言った。

 

 宴は、そのまま終わった。

 

 表向きは、何事もない。

 

 だが、主賓は席を立つ時、明らかに足取りが重かった。

 

 広間を出たあと、猫姉が小さく息を吐く。

 

「……厄介」

 

「だね」

 

「毒じゃないから、

 犯人を炙り出しにくい」

 

「でも」

 

 俺は、厨房の方を見る。

 

「触れた人間は、絞れる」

 

 猫姉が、わずかに口角を上げた。

 

「それを聞きたかった」

 

 一瞬だけ、視線が合う。

 

 昔と同じ。

 言葉が少なくても、通じる。

 

「マオ」

 

 猫姉が、仕事の声で言う。

 

「これはあんたじゃないと分からない事だね」

 

 俺は、深く頷いた。

 

「任せて、料理の方は、俺が見る」

 

 後宮の宴は、静かに終わった。

 

 だが、俺たちは知っている。

 

 これは終わりじゃない。

 ――始まりだ。

 

 食卓の上で、

 確かに何かが仕込まれた。

 

 それを暴くために、

 俺と猫姉は、同じ方向を見る。

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