猫姉に連れられて辿り着いたのは、後宮の厨房だった。
門をくぐった瞬間、俺は思わず息を呑む。
広い。
清潔だ。
道具も、火口も、食材の置き方も、すべてが整いすぎている。
――整いすぎて、息苦しい。
「……すごいね」
正直な感想だった。
猫姉は、特に誇る様子もなく言う。
「後宮だからね。
最低限、事故は起こらないようにはなってる」
“最低限”という言い方が引っかかったが、今は流す。
周囲では、数人の料理人たちが既に動いていた。
下拵え、火入れ、器の確認。
どれも無駄がなく、よく訓練されている。
腕がないわけじゃない。
それなのに――
何かが、足りない。
「……猫姉」
小声で呼ぶ。
「ここ、料理の匂いがしない」
猫姉は、少しだけ目を細めた。
「気づいた?」
「うん。
油も、香辛料も、出汁もあるのに……混ざってない」
普通、これだけの人数が動けば、空気が変わる。
だがここは、静かすぎる。
「後宮の厨房はね」
猫姉は、作業の邪魔にならない位置で立ち止まる。
「味を主張しない料理が基本なの」
「主張しない?」
「誰かに良く思われる料理は、
同時に、誰かに悪く思われる可能性があるでしょ」
なるほど、と納得しかけて――
それでも、違和感は消えなかった。
「でもさ」
思わず口に出る。
「それって、“美味しくしない”理由にはならないよね」
一瞬、猫姉がこちらを見る。
少しだけ、驚いたような顔。
「……相変わらずだね」
ため息とも、笑いともつかない声。
「ここでは、
“美味しい”より“安全”が優先される」
安全。
その言葉が、胸に落ちる。
料理人にとって、便利で、
同時に、一番危険な言葉だ。
そこへ、後宮の料理長らしき人物が近づいてきた。
年配で、表情が読みにくい。
「こちらが、外部から招かれた料理人か」
「はい。宴担当です」
猫姉が簡潔に答える。
料理長は、俺を上から下まで一瞥した。
「……若いな」
「よく言われます」
軽く頭を下げる。
「指示には従ってもらう。
勝手なことはするな」
「分かりました」
返事は即答だった。
だが、心の中では、別のことを考えていた。
――この厨房、
“勝手なこと”をしなくても、
何かが起きる。
食材庫をちらりと見る。
肉の処理。
野菜の水切り。
乾物の戻し。
一見、問題はない。
けれど。
「……あれ?」
小さく、声が漏れた。
「どうしたの」
猫姉がすぐ反応する。
「いや、なんでも……」
そう言いかけて、やめた。
なんでも、じゃない。
切り方だ。
肉の繊維に対して、微妙に逆。
火を通せば、硬くなる。
わざとか?
それとも――知らない?
料理長は、気づいていない様子だった。
猫姉と、目が合う。
言葉にはしない。
だが、猫姉も何かを感じ取ったらしい。
「……後で、話そう」
小さく、そう言われた。
俺は、静かに頷く。
宴は、まだ始まっていない。
準備も、半ばだ。
それなのに。
この時、はっきり分かった。
――この宴、
ただの祝い事じゃ、終わらない。
そして俺は、料理人として、
それに関わることになる。
猫姉の隣で、
静かに火を見つめながら、
そう確信していた。
宴の刻が、近づいていた。
後宮の厨房は、先ほどまでの静けさとは別の意味で落ち着きを帯び始めている。
慌ただしさはない。
むしろ、奇妙なほどに整然としていた。
料理人たちは決められた位置に立ち、決められた作業だけを繰り返す。
声は最低限。
指示も短い。
まるで、すでに完成した料理の流れを、なぞっているだけのようだった。
器が運ばれていく。
白磁、青磁、装飾を抑えた高級品。
どれも主張しないが、安っぽさは微塵もない。
――後宮の宴らしい。
俺は、自分に割り当てられた調理台の前で、周囲を観察していた。
火口の数、油の種類、香辛料の配置。
すべてが理屈の上では、完璧だ。
それなのに。
胸の奥に、ずっと引っかかるものがある。
香りが、立たない。
正確には、立たせていない。
油を温める温度。
香辛料を入れる順番。
火を強めるタイミング。
どれも、「間違い」ではない。
だが、「最適」でもない。
猫姉が、少し離れた場所で様子を見ている。
表情は仕事のそれだが、視線は頻繁に厨房全体を巡っていた。
俺と、目が合う。
一瞬だけ、眉が動いた。
――やっぱり、同じことを感じている。
宴に出される料理の一覧が、板に貼られている。
滋養を意識した献立。
脂は控えめ、香りは穏やか、胃に優しい構成。
表向きには、非の打ちどころがない。
だが、俺はその中の一品に、目を留めた。
主菜の一つ。
本来なら、火を通す前に繊維を断つ切り方をするはずの肉が、そうなっていない。
切り口が、微妙に流れに逆らっている。
そのまま火を入れれば、硬くなる。
消化にも時間がかかる。
健康な人間なら、問題にならない。
だが――
「……猫姉」
小声で呼ぶ。
彼女はすぐに近づいてきた。
「なに」
「この料理、主賓向け?」
「そうだけど」
短い返答。
「体調、万全じゃないって言ってたよね」
猫姉の視線が、肉の切り口に落ちる。
数秒、無言。
「……なるほど」
それだけ言って、表情を変えずに離れていった。
否定もしない。
だが、無視もしない。
それが、猫姉なりの“受け取った”という合図だと、俺は知っている。
やがて、配膳の準備が始まる。
料理は、順番通りに並べられ、蓋をされ、運ばれていく。
香りが閉じ込められたまま。
宴の場からは、かすかに人の声が聞こえ始めた。
笑い声。
衣擦れの音。
金属が触れ合う気配。
華やかで、穏やかで、
何事も起こらないように見える。
だからこそ。
俺は、背中にじっとりと汗を感じていた。
料理は、正しく作られている。
だが――“向いていない”。
誰に、とはまだ断定できない。
意図があるのかどうかも、分からない。
それでも、料理人としての感覚が告げている。
――この宴は、
食べた後に、何かが起きる。
猫姉が、遠くからこちらを一度だけ見た。
ほんの一瞬。
けれど、確かに意思のある視線だった。
宴は、もうすぐ始まる。
俺は、ゆっくりと息を整える。
ここから先は、
味だけを見ていればいい場所じゃない。
料理が、
誰かの体と立場に、
どう作用するかを見る場だ。
――そういう食卓が、
今、開かれようとしていた。
宴は、静かに始まった。
華やかな席だが、誰も浮かれてはいない。
箸の動きは上品で、酒の量も控えめ。
後宮の宴は、祝いの場というより、観察の場だ。
料理が運ばれるたび、猫姉の視線が動く。
人を見る目だ。
「……前菜、どう?」
配膳の合間、すれ違いざまに小声で聞かれた。
「問題ない。
胃は起こさない」
「起こさない、ね」
その言い方に、含みがある。
二品目が出る。
香りは弱く、油も軽い。
安全そのものの料理だ。
だが、俺は眉をひそめた。
「猫姉」
「なに」
「これ、全部……同じ方向向いてる」
「方向?」
「優しすぎる。
回復期の人間向けじゃない」
猫姉は、主賓の様子を見ながら答える。
「今の体調、表に出てるほど良くない」
「だよね」
主菜が出た。
問題の一皿。
見た目は完璧だ。
だが、俺の目には、切り口がはっきりと映る。
「……やっぱりだ」
「何が」
「この肉、
噛ませる前提で作ってる」
一瞬、猫姉の動きが止まった。
「それ、どういう意味」
「消化に時間がかかる。
体力がある人なら問題ないけど――」
「弱ってると、負担になる」
言葉が、重なる。
主賓が箸を置く。
ほんの一瞬、胸元を押さえた。
誰も気づかない。
だが、猫姉は見逃さない。
「……息、浅くなった」
猫姉が、ほとんど唇を動かさずに言う。
「毒?」
「違う」
即答だった。
「反応が遅すぎる。
それに、脈も乱れてない」
猫姉は、視線だけで状況を追う。
「食後の負担。
でも、薬でどうにかなる感じでもない」
俺は、拳を握った。
「料理だ」
猫姉が、こちらを見る。
「断定できる?」
「できる。
これは“間違い”じゃない」
言葉を選ぶ。
「向いてないだけだ。
でも――」
「向いてないことを、
知ってて出してる」
猫姉が、低く言った。
宴は、そのまま終わった。
表向きは、何事もない。
だが、主賓は席を立つ時、明らかに足取りが重かった。
広間を出たあと、猫姉が小さく息を吐く。
「……厄介」
「だね」
「毒じゃないから、
犯人を炙り出しにくい」
「でも」
俺は、厨房の方を見る。
「触れた人間は、絞れる」
猫姉が、わずかに口角を上げた。
「それを聞きたかった」
一瞬だけ、視線が合う。
昔と同じ。
言葉が少なくても、通じる。
「マオ」
猫姉が、仕事の声で言う。
「これはあんたじゃないと分からない事だね」
俺は、深く頷いた。
「任せて、料理の方は、俺が見る」
後宮の宴は、静かに終わった。
だが、俺たちは知っている。
これは終わりじゃない。
――始まりだ。
食卓の上で、
確かに何かが仕込まれた。
それを暴くために、
俺と猫姉は、同じ方向を見る。