事件は、表向きには何事もなかったかのように終わった。
後宮とはそういう場所だ。刃傷沙汰も、毒も、今回のような“料理”による害でさえ、騒ぎ立てずに処理される。大切なのは真実そのものより、波風を立てないこと。そのために、真実は静かに折り畳まれ、然るべき場所へ仕舞われる。
膳組の配膳統括は、数日後に役目を外された。
罪を問われたわけではない。捕らえられたわけでも、表で断罪されたわけでもない。ただ「別の役目が必要になった」という名目で、配膳の中枢から外された。それが後宮なりの処罰であり、線引きだった。
表向きは穏便に。だが、内側では確実に牙を抜かれている。二度と、同じ裁量は与えられない。
里樹妃の体調は、日を追うごとに回復していった。
食事の内容を調整し、舌を休ませ、滋養を穏やかに補う。特別な薬は使っていない。ただ“正しい食事”を続けただけだ。
彼女自身は、何が起きていたのかを詳しく知らない。知らされてもいない。それでいいのだと、壬氏は言った。後宮では、知らないことが守りになる場合も多い。
俺は、その言葉に頷きながらも、どこか胸の奥が重かった。
料理は、人を喜ばせるものだ。そう信じて、ここまでやってきた。だが今回の件で思い知らされたのは、料理が同時に、人を壊す力を持つという事実だった。
乾貸を過剰に使ったあのスープ。
技術として見れば、高度だった。出汁の引き方、火加減、素材の扱い。どれも一流だ。だが、そこには「相手を見る」視点がなかった。
誰のために作るのか。どこで止めるべきか。
それを欠いた料理は、どれほど手が込んでいようと、ただの凶器だ。
事件の後、厨房に立つたびに、俺は鍋の中を覗き込む時間が増えた。
味を確かめるだけじゃない。匂い、色、湯気の立ち方。そこに“相手を思う余地”があるかどうかを、確かめるようになった。
「今回の件、どう思う?」
ある日の夕刻、猫姉が何気ない調子で聞いてきた。
薬棚の整理をしながらの言葉だ。事件について、あえて深く語ろうとはしない。いかにも彼女らしい。
「……正直、怖かったです」
俺はそう答えた。
「料理で、ここまで出来るって分かったから」
猫姉は一瞬だけ手を止め、すぐに作業を再開した。
「後宮では、珍しい話じゃありません」
「でも、それじゃ……」
「だからこそ、線を引く必要があるんです」
淡々とした声だったが、そこにははっきりした意思があった。
「毒じゃなくても、病じゃなくても、害は害です。今回みたいに、表に出にくい分、余計に厄介ですけどね」
俺は、その言葉を噛み締めた。
料理人として、技を磨くことばかり考えてきた。でも、それだけじゃ足りない。技の先にある“責任”から、目を逸らしちゃいけない。
壬氏は、事件の総括として一言だけ告げた。
「後宮では、刃物を使わずとも人は傷つく。料理も、その一つだ」
それ以上は語らなかった。
だが、その言葉は、誰よりも重かった。
事件は終わった。
記録にも残らず、噂にもならず、ただ関係者の記憶の中にだけ沈んでいく。
それでいいのだと、頭では理解している。
それでも俺は、鍋の前に立つたびに思い出す。
味を奪う料理があったこと。
善意を装いながら、人を弱らせることが出来たという事実を。
だからこそ、次に作る料理では、必ず相手を見る。
美味いかどうかだけじゃない。
その人にとって、正しいかどうかを。
後宮は、今日も静かだ。
だがその静けさの下で、また誰かが何かを企んでいるかもしれない。
それでも――料理が正直である限り、必ずどこかに痕跡は残る。
今回の出来事は、それを教えてくれた。
事件が片付いたあとも、俺の頭から離れないものが一つあった。
あの鍋だ。
後宮の厨房は広い。器も多い。
だが、あれほど肉厚で、保温性が高く、底が異様に広い鍋は見たことがない。宴用でもない。日常使いでもない。
ましてや、乾貸を敷き詰める前提のような造り――普通の料理人なら、まず選ばない。
記録を探しても、名前は出てこない。
倉庫にも、器番の帳にも残っていない。
つまり、正規の備品じゃない。
俺は、そのことを壬氏にも高順にも言わなかった。
証拠がない以上、余計な波を立てるだけだ。
だから、猫姉にだけ話した。
薬棚の前。
彼女が薬瓶を並べ替えている背中に、静かに声をかける。
「猫姉、一つだけ……気になることがあります」
「何です?」
手は止めず、声だけ返ってくる。
その距離感が、ありがたかった。
「あのスープに使われてた鍋なんですけど……」
俺は、出来るだけ感情を乗せずに話した。
鍋の形。厚み。熱の回り方。
料理人としての違和感だけを、順に。
「後宮の物じゃありません。少なくとも、俺の知ってる範囲にはない」
猫姉の手が、ほんの一瞬止まった。
「つまり?」
「外から持ち込まれた可能性が高い」
少し間が空いた。
「……証拠は?」
「ありません」
即答した。
「帳簿にも残ってないし、誰が持ち込んだかも分からない。ただ……」
言葉を選ぶ。
「“今回のためだけ”に用意された道具に見えました」
猫姉は、ゆっくりと振り返った。
その目は、感情を探るようなものじゃない。事実を整理する目だ。
「後宮では、そういうこともあります」
「……ですよね」
「証拠がない以上、追いません」
はっきりした口調だった。
「でも、覚えておきます」
それだけ言って、また薬瓶に向き直る。
俺は、それ以上何も言わなかった。
言わなくていい。猫姉は、聞くべきことだけ聞いている。
あの鍋が、どこから来たのか。
誰が用意したのか。
それが今回の犯人一人の判断だったのか、それとも――。
答えは、まだ出ない。
だが、料理人として一つだけ確信できることがある。
あの鍋は、また使われる。
どこかで、同じ匂いを纏って。
その時、俺は必ず気づく。
それだけは、間違いない。