薬屋と料理人は幼馴染み   作:ボルメテウスさん

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療養膳監修の客人 壱

 朝の空気が、肌を刺すようになってきた。後宮の石畳は夜の冷えを抱え込んだまま、陽が差してもなかなか温まらない。息を吐けば白く曇り、袖口から入る風が骨の芯まで届く。厨房に立って火を扱っている俺でさえそう感じるのだから、薄い衣で水仕事をする下女たちが、どれほど堪えるかは想像に難くなかった。

 

 ここ数日、「寒気が抜けない」「手足がしびれる」「寝てもだるい」と訴える者が増えた。薬でどうこうというより、季節の移り目の冷えが、疲れの溜まった体に入り込んでいる――猫姉が淡々と言うとおりだ。熱があるわけでも、喉が腫れるわけでもない。だが、放っておけば体は簡単に崩れる。後宮は、体を壊した者に優しい場所ではない。働けなくなれば席を失い、居場所を失う。その焦りがさらに体を冷やし、悪循環になる。

 

 結果として、厨房に回ってくる頼みも変わった。粥を増やしてほしい、姜(しょうが)を効かせた湯を用意してほしい、油を控えた温かい汁ものが欲しい。回復食の注文が、波のように押し寄せる。俺が「借りている」療養膳口は、もともと派手な宴のための場所じゃない。滋養を、負担なく、確実に届けるための小さな口だ。それでも、これだけ続けば鍋の数も火口も足りなくなる。

 

 何より厄介なのは、食材が無限にあるわけではないことだった。俺が腕を振るえば済む話ではなく、そもそも材料が払出されなければ始まらない。倉庫の札がなければ、鶏一羽も、葱一本も、姜ひとかけらも厨房に入ってこない。その札を誰が握っているか――それが、この後宮の「力」だと、ここに来てから嫌というほど思い知らされている。

 

 味方側の料理長は、いつもより険しい顔で帳を閉じた。湯気の上がる釜の前でも、表情が温まらない。

 

「この数で回せと言うのか」

 

 料理長の声は低かったが、怒気は隠しきれていない。

 

「鶏も米も、前より減ってる。姜と葱に至っては……必要最低限だとさ。必要最低限で、冷えた体が戻るなら苦労はせん」

 

 俺は返す言葉を探しながら、釜の中の粥の粘度を確かめた。米を増やせないなら、水加減と火で腹持ちを出すしかない。鶏が少ないなら、旨味の出し方を変えるしかない。だが、それでも限界はある。回復食は魔法じゃない。特に、人数が増えれば「量」そのものが必要になる。

 

「……料理長、猫姉のところも忙しそうでした」

 

「ああ」

 

 料理長は短く頷いた。

 

「薬で治すものじゃない、なんて言いやがるがな。そういう時ほど、食がものを言う。分かってる奴が少ないから腹が立つ」

 

 猫姉――猫猫は、相変わらず薬棚の影で淡々と脈を取り、舌を見て、匂いを嗅いでいた。毒が絡む気配はない。だが、こういう時ほど「毒ではない害」が忍び寄る。以前の件で俺たちは、それを痛いほど経験している。食は人を救う。けれど同時に、人を弱らせることもできる。量を絞られた回復食は、救いの形をした置き去りだ。

 

 その日の昼過ぎ、俺と料理長は呼び出された。場所は、厨房から少し離れた控えの間。出入りが少なく、音が響きにくい造りになっている。待っていたのは高順だった。いつもの落ち着いた顔だが、目の奥が忙しない。後ろには控えの者が立ち、紙束を抱えている。

 

「急で悪い」

 

 高順が言った。

 

「壬氏さまからの命だ。療養膳の件で、体制を整える」

 

 程なくして壬氏が姿を現した。白い顔立ちが薄い光を受けると、妙に冷たく見える。その冷たさは、相手を拒むためではなく、余計な熱を抱えないためのものだと、俺はこの後宮で学んだ。

 

「冷えの訴えが増えている」

 

 壬氏は端的に告げた。

 

「薬だけでは追いつかぬ。食で補う必要がある。だが、現場は割当の都合で回らぬと聞いた」

 

 料理長が息を吸い、言い返しかけた。けれど、その前に壬氏が一枚の書状を示した。封の形が見慣れない。高順が補足する。

 

「阿多妃さまからの書状です」

 

 外部にいる阿多妃――その名が出た瞬間、料理長の眉がわずかに動いた。俺も意外だった。後宮の中の揉め事に、外の人間が口を出せる話ではない。だが阿多妃なら、ただの口出しでは済まない。立場も、影響もある。

 

 壬氏は書状を置き、淡々と続けた。

 

「療養膳監修制度を試す。外部の技術者を短期間受け入れ、下処理と衛生、献立の標準を整える。割当の扱いも含め、記録を取らせる」

 

 料理長が、わずかに顔をしかめた。

 

「外の者を、厨房に?」

 

「期間を限る。行動も限る。目付を付ける。記録も提出させる」

 

 壬氏の言い方には、許す余地と同時に、逃げ道のなさがあった。外部者を入れる以上、内部の不正や曖昧な運用が表に出る。それを嫌がる者もいるだろう。壬氏はそれを承知の上で、あえて踏み込もうとしている。

 

「前回の件もある」

 

 壬氏の視線が、わずかに俺の方へ流れた気がした。

 

「食で害が起きるのなら、食で守る仕組みも必要だ。技と運用の両方を整える」

 

 料理長は黙った。反論できる論点がない。怒りがあるとすれば、それは外の者に頼らざるを得ない現状への怒りだ。

 

 俺は胸の内で、別の感情を噛みしめていた。外部の監修者――つまり、腕の立つ料理人が入ってくる。それは現場の助けになるかもしれない。だが同時に、俺の立場を揺らしかねない。ここで俺が特別な料理人だと広く知られるわけにはいかない。料理長もそれを分かっているからこそ、あえて口に出さずにいるのだろう。

 

「受け入れは、壬氏さまの裁定で決まっている」

 

 高順が静かに締めた。

 

「厨房内の者は、余計な詮索をするな。監修者の行動は記録される。お前たちの動きも、同じだ」

 

 それは釘であり、同時に守りでもあった。記録が残るなら、不意の責任転嫁はしにくい。割当の帳も、払出の札も、今までより明るみに出る。

 

 控えの間を出ると、廊下の空気がさらに冷たく感じた。火を扱っている時の熱が、嘘のように抜けていく。俺は息を吐き、白い霧の向こうに自分の手を見た。料理で人を温める。そのために必要なのは腕だけではない。食材の流れ、運用、そして――誰がその流れを握っているか。

 

 監修の客人が来る。外の技術が入る。

 それは救いにもなるし、火種にもなる。

 

 後宮の冬は、ただ寒いだけじゃない。冷えは人の体だけじゃなく、心も固くする。固くなった心は、些細なことでぶつかり合う。俺は、鍋の底に敷き詰められていた干した材料の感触を思い出した。見えないところに仕込まれたものが、後から効いてくる――そんな嫌な学びを、俺たちはすでに得ている。

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