小広間に通された瞬間、俺は「これは勝負の場じゃない」と自分に言い聞かせました。畳んだ紙と筆、印泥、そして高順さんの落ち着いた立ち姿。ここは刃の速さを競う場所ではなく、言い逃れを潰す場所です。にもかかわらず、空気は御膳房の火口みたいに熱い。御膳房古参筆頭が腕を組んで立っているだけで、場の温度が上がるのが分かりました。
「そろったな」
壬氏さまの声は柔らかいのに、目は笑っていませんでした。
「面子の喧嘩は嫌いだ。割当と運用の妥当性を、結果で決める。口で争えば永遠に終わらない。高順、始めろ」
「はっ」
高順さんが紙を広げた瞬間、御膳房側についてきた段取り役らしい男が、ちらりと俺を見ました。知らない目だ。俺の顔を見ても、ただの療養膳口の若い料理人にしか見えていない。周囲の目線も似たようなものです。「外部監修者」と「御膳房古参筆頭」が並ぶ中で、俺だけが場違いに小さく見える――そう思わせる空気が、わざと作られている気さえしました。
「勝負の目的。療養膳に割当を与える妥当性、および外部監修制度の有効性を、実作をもって確認する」
高順さんが淡々と読み上げると、古参筆頭が鼻で笑いました。
「有効性だと? 外の若造を呼んだ時点で、現場の無能を認めているようなものだろう」
味方料理長が眉を動かしましたが、壬氏さまが軽く指を上げます。
「今のは意見だ。条件を決めろ」
高順さんが次を読んだ時、古参筆頭が待ってましたとばかりに口を挟みました。
「参加者。療養膳口はマオ、監修・記録はその外部監修者……だったか。二人で無双するつもりなら話にならん。手数が違いすぎる」
周囲の御膳房の者たちが小さく頷くのが見えました。彼らにとって、俺は名のある料理人ではない。ただの若造です。その若造が外の屈強な監修者と組む――それだけで、勝負が“ズルく見える”のだと分かりました。
猫姉が欠伸を噛み殺しながら、乾いた声で言いました。
「無双? 鍋が二つになるなら分かるけど」
「黙れ、薬屋。料理のことは分からんだろう」
「分からないから、食べる側の話をする。二人いるなら、二人とも手を出すと思ってるのが短絡」
古参筆頭が睨み、今度は俺に視線を投げてきました。
「そもそも、そいつに監修を付ける意味があるのか? ただの若造に、口だけの指導をして何になる。手を出さない監修など、飾りだ」
場の何人かが、同じ疑問を顔に出しました。俺のことを知らないからこそ、当然の反応だと思います。監修者が手を出さないなら、ただの見物。そう思われても仕方がない。
俺は一歩前に出て、深く頭を下げました。
「……壬氏さま。私が鍋を握ります。ですが、監修が飾りにはなりません。手順を“現場の形”に落とすのが監修の役目です」
古参筆頭が笑います。
「綺麗事だ。口で温まるなら、粥はいらん」
その時、レオンさんが短く口を開きました。
「手順は残る。俺が触れなくても、現場が再現できる形にする。それが監修だ」
言葉は少ないのに、重い。けれど周囲はまだ半信半疑でした。「外の男が喋った」だけでは納得しない。まして俺に対する評価が低いままなら、なおさらです。
壬氏さまが、ゆっくりと頷きました。
「良い。では条件に落とす。高順、監修者の役割と制限を明文化しろ。二人で無双だの、飾りだの、どちらも口だけでは証明できぬ」
「はっ」
高順さんの筆が走る音が、妙に大きく聞こえました。
「監修者レオンは、食材に触れない。鍋を混ぜない。盛り付けをしない。口頭指示と記録のみ。記録は工程、時間、火加減、切り方の要点、供食時の温度まで含む」
御膳房の段取り役が、思わず言いました。
「そこまで記す意味が?」
猫姉が肩をすくめます。
「後で『そんなはずはない』って言う人がいるから。記録があると黙る」
古参筆頭が舌打ちしそうな顔をして、今度は別の角度で噛みつきました。
「記録? 指示? それで公平になると? 結局、外の男の知恵が入る。そいつ一人ならまだしも、若造に“頭”を足すのは不公平だ」
壬氏さまが、静かに言いました。
「不公平が嫌なら、御膳房にも補助を付ける。お前が連れてきたその者を段取り役として認める。手数の差はそこで相殺だ」
古参筆頭は不満げでしたが、反論はしませんでした。こちらの条件が一つ固まったからです。俺の方へ向けられていた「若造が得をする」という空気が、少しだけ薄まったのを感じました。
高順さんが続けて読み上げます。
「食材条件。療養膳口側は鶏二等、量は半量。生姜・葱は最低限。御膳房側は標準割当。ただし同一料理として比較可能な範囲に限定」
ここで、御膳房の誰かが小さく笑いました。「半量の二等鶏で、回復と美味さを両立? 無理だろう」――そんな笑いです。俺は胸の奥が熱くなるのを感じて、深呼吸しました。ここで熱くなるのは簡単。でも、勝つための熱じゃない。現場を守るための熱にしなければいけない。
壬氏さまが目を細めて言います。
「猫猫。評価は回復だけでよいか?」
「だめ。まずいと食べない。食べないと回復しない。だから両方」
「“両方”は曖昧だと言われるだろう」
「曖昧だから、残量を見る。食べ進みは嘘をつかない。あと、香りで誤魔化すのもなし。鼻が疲れると、何を食べてもまずくなる」
猫姉の言い方は冷たいのに、的確でした。古参筆頭が一瞬だけ眉を動かします。痛いところを突かれた顔です。
「よかろう」
壬氏さまが裁定しました。
「評価は二つ。回復への寄与と、嗜好だ。回復は食後と翌朝の変化、嗜好は食べ進みと香りの不快の有無、舌の疲れ。高順、書け。——そして重要なのは、勝者が自慢をするためではなく、割当の妥当性を決めるための勝負であることだ」
高順さんが筆を止めずに頷き、紙の端に数字を書き足しました。食後何刻、翌朝の確認、残量の記録、試食者の指定。数字が増えるほど、言い逃れが減っていく。
古参筆頭が、最後に釘を刺すように言いました。
「条件は結構。だが忘れるな。監修が手を出さないなら“飾り”だ。若造が独りで鍋を握って、結果を出せなければ、療養膳口に上物は不要だと証明されるだけだ」
周囲の視線が、俺に集まりました。知らない者たちの目だ。値踏みの目だ。——正体を知られない方が安全だと分かっている。けれど同時に、知られないからこそ、ここで勝つ意味が増す。
俺はもう一度、深く頭を下げました。
「承知しました。……監修の指示は“手順”として残します。私が鍋を握り、現場で再現できる形にします」
レオンさんが短く添えます。
「焦るな。半量でも、香味が少なくても、切り方と火で段階を作れる。記録は俺が取る。逃げ道は消す」
壬氏さまが印泥に指をつけ、最後に言いました。
「署名と押印だ。ここで決めた以上、あとで『意味がない』などと言うな。意味があるかどうかは、条件と結果が示す」
朱が落ちる。紙が封じられる。周囲の御膳房の者たちは、まだ俺を侮っている顔のままでした。——それでいい。勝負は口ではなく、鍋の中で決まる。
小広間を出ると、猫姉が小さく言いました。
「指導が飾りって言われるの、癪だね」
「猫姉もそう思いますか」
「思う。飾りなら、面倒が増えるだけ。……だから、勝って」
猫姉なりの応援でした。俺は背筋を伸ばしました。半量、一本、監修は口と記録だけ。条件が明確になったぶん、逃げ道もない。——でも、逃げ道がない勝負ほど、料理は強くなる。俺はそう信じたいです。