薬屋と料理人は幼馴染み   作:ボルメテウスさん

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療養膳監修の客人 七

 火口の熱が、今日はいつもより乾いて感じられた。湿り気のない熱は、皮膚の表面だけを焦らせて、胸の奥までは温めてくれない。療養膳口の奥に設けられた臨時の調理場は、動線が短い。試食の間までの距離も、器が冷める暇を与えないための配置だと高順さんが言っていた。けれど、冷めないように整えたのは器だけじゃない。言い逃れも、先日の押印から冷めないままここまで運ばれてきている。

 

「こちらが本日の流れです。器の規格、蓋の扱い、蒸らし時間、そして――試食開始は同時。これだけは動かしません」

 

 高順さんの声は淡々としていた。淡々としているのに、硬い。水のように静かで、刃物のように切れる声だ。猫姉は壁際で腕を組み、名簿を見て鼻で息を吐く。偏りは是正されたはずだが、御膳房側の連中は納得していないらしい。目つきが「勝負の場」のそれをしていた。

 

 レオンさんは紙束と筆を整え、最初から記録欄を作っていた。火力段階、投入順、泡取り、提供直前の時刻、蒸らし時間、器の温め。手を出さない代わりに、逃げ道を潰す準備だけが先に整っていく。周囲のひそひそ声が、耳の端に刺さった。

 

「口だけの監修だろ」 「若造に何を教えるってんだ」

 

 俺は聞こえないふりをして、包丁箱の封へ視線を落とした。封を切るのは立会いのもとだけ。条件は、もう俺の手首より先に縛りつけられている。

 

 そこへ、御膳房古参筆頭が姿を見せた。背丈は高くないのに、場の空気だけが重くなる。鍋の前に立つと、まるでそこが御膳房の中心になるみたいだった。

 

「先に示す」

 

 古参筆頭が言った。勝手に、ではない。宣言だ。

 

「宮の膳は堂々と置くべきだ。療養膳口の薄味が、後で追いつけるかどうか――見せてもらおう」

 

 高順さんが即座に返す。

 

「提供順は構いません。しかし試食開始は同時。これは裁定です」

 

「承知している。だが香りまで縛れるわけではないだろう?」

 

 古参筆頭は、笑った。笑って、鍋へ向き直る。その背中だけで、答えになっていた。香りで空気を取る。味を口に入れる前に、勝負の基準を濃い方へ寄せる。そういう先手だ。

 

 火が入る。御膳房側の鍋は、立ち上がりから違った。強火。迷いがない。骨と肉をまとめて放り込み、最初から煮立てる。沸騰の音が太い。湯が暴れて、鍋が鳴く。灰汁が浮くのを恐れず、むしろ湯面を大きく揺らして、脂と骨髄を引きずり出す。澄ませる料理じゃない。白濁させる料理だ。

 

 古参筆頭は柄杓で湯を掬い上げ、落とす。上から落として、鍋の中で叩く。攪拌ではない。叩き込みだ。脂が細かく砕け、湯の中へ溶ける。白く濁り始める。乳化が進むと、湯気の匂いが変わった。重い。胃の奥を先に満たす匂いだ。米を炊く甘い匂いじゃない。肉と脂と香味が、舌に貼り付く未来を約束する匂いだった。

 

 生姜が入る。葱が入る。量が違う。こちらに許された最低限とは比べものにならない束が、惜しげもなく鍋へ沈められる。香りが厚くなる。湯気が調理場の境を越えて、試食の間の方へ流れていくのが分かった。まだ食べてもいない試食者が、喉を鳴らす気配がした。香りは言葉より早い。気合いより早い。体が勝手に「うまい」を想像してしまう。

 

 古参筆頭は灰汁を取らないわけではなかった。だが“丁寧にすくって澄ませる”取り方じゃない。湯面に浮いた泡を、鍋肌へ寄せ、押しつけるように落とす。泡が砕けて、白濁がさらに増す。濃さを守りながら雑味だけを押し潰す、そういう手つきだった。匙で持ち上げた汁が、糸を引く。落ちる速度が遅い。視覚で「濃厚」を刻み込む。見ただけで、勝った気になる液体だ。

 

 仕上げに塩が入る。迷いなく、輪郭を立てる塩。旨味を柔らかく支える塩ではなく、舌に「ここが正解だ」と押しつける塩だ。香辛も少し。刺激が、さらに“分かりやすさ”を増す。試食の間の空気がざわめいた。

 

「いい匂いだな」 「これぞ宮の味だ」

 

 声が漏れる。まだ同時開始前だ。味は誰も確かめていない。それでも、会場は先に傾く。古参筆頭はその反応を背中で聞いて、さらに強く煮立てた。湯気が立つ。湯気が重い。重い湯気は、期待を押し上げる。

 

 猫姉が、表情を変えずに鼻先だけで情報を拾っていた。面白がっているのか、警戒しているのか、分からない顔だ。ただ、俺の方へ視線を寄こさず、試食者の方を見ている。その視線が、「勝負は鍋の中だけじゃない」と言っている気がした。

 

 俺は火口の前に立ったまま、必要なことだけを淡々と確認した。米袋の口。椀の位置。湯の張り方。包丁箱の封。ここで大きな所作を見せても意味がない。目立つほど、侮りが笑いに変わる。笑いは空気を作る。空気ができると、料理の味まで変えられてしまう。

 

「……マオ」

 

 レオンさんの声だけが、背中にまっすぐ届いた。

 

「火を急ぐな」

 

「はい」

 

「塩は増やすな」

 

「はい」

 

 それだけだった。派手な指示はない。派手なものは、今は敵の鍋が全部持っている。だからこそ、こちらは静かに“崩れない形”だけを作る。レオンさんの紙の上で、時刻の欄にペン先が触れる気配がした。

 

 御膳房側の器が先に並び始めた。蓋を取る前から香りが漏れる。試食者の目がそちらへ吸い寄せられる。誰かが小さく笑って言った。

 

「療養膳は水みたいなもんだろ」

 

 笑いが起きる。小さな笑いが、場を決める。俺は、反応しない。反応した瞬間に、勝負が“感情の勝負”へ変わるからだ。高順さんが一歩前へ出て、声を落とさず、しかし騒がせずに言う。

 

「私語は控えてください。試食開始は同時です」

 

 その一言で、笑いが止まった。止まったが、空気の傾きは残る。傾いた空気の中で勝つには、傾きを戻すのではなく、傾いたままでも崩れない味を出さなければいけない。猫姉が、試食者の指先を見ていた。器に伸びる指。無意識に茶を探す視線。口元の乾き。まだ食べてもいないのに、すでに“次の一口”を求める体が動いている。

 

 レオンさんが、記録紙の端を指で押さえた。提供直前の欄。蒸らし時間の欄。温度の欄。今日はそこが勝負になる、と言わんばかりに。

 

 御膳房側の器が整う。湯気が最後にもう一度、強く立つ。古参筆頭が、勝ち誇るでもなく、当然のように背筋を伸ばして立った。あの立ち方は、料理が“場の権威”であることを知っている人間の立ち方だ。

 

 こちらの器が揃うまで、あと少し。高順さんは一切急かさず、同時開始のために空気を押さえつける。押さえつけているのは声だけじゃない。勝負の筋そのものだ。

 

 そして、器が揃った。

 

「……両方、揃いました」

 

 高順さんが視線を巡らせ、静かに宣言する。

 

「同時に始めます。匙を取ってください」

 

 試食者が一斉に手を伸ばす。御膳房側の湯気が、最後に勝利宣言のように濃く立ち上がる。猫姉が、誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。

 

「さて。二口目以降が本番だね」

 

 俺は息を吸い、吐かなかった。まだ、味は始まっていない。始まっていないのに、もう戦っている。

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