同時に始まったはずの試食は、最初の一口だけ、御膳房の器が勝ったように見えた。重い湯気、脂の甘い匂い、塩の輪郭、白濁したとろみ。匙を口に運ぶ前から「うまい」と言わせる力がある。歓声が上がり、笑いが漏れ、場の基準が濃い方へ傾くのが分かった。俺の器へ伸びる手は、どこか慎重で、値踏みの手つきだった。
「……薄いな」
誰かが呟いた瞬間、周囲の数人が同じ顔をした。濃厚を先に舐めた舌は、どうしても強い線を求める。薄いのではなく、設計が違う。そう言い返したくなるのを、喉の奥で押し留めた。ここで言葉を足せば、若造の言い訳にしか聞こえない。猫姉は俺を見ず、試食者の口元と指先だけを見ていた。高順さんは、声を荒らげずに場を締め、レオンさんは筆を止めない。俺がやるべきことは、騒がないことと、崩れないことだけだ。
それでも、二口目は必ず来る。食べ物は一口で終わらない。終わらないからこそ、勝負になる。
御膳房側の器から、二口目、三口目と匙が進んだところで、最初の変化は小さく出た。唇を舐める仕草。咳払い。喉の鳴り方が乾く。強い塩気と濃い脂は、舌を満たす代わりに水分を奪う。試食者の一人が、無意識に茶の方へ視線を飛ばし、指先が僅かに動いた。
「途中で茶を挟む者は、記録に残します」
高順さんの声が落ちると、その指が止まった。止まったせいで、乾きが顔に浮き出る。口の端が引きつり、喉仏が上下し、唾液を探すように舌が動く。猫姉はそこで初めて、ほんの少しだけ目を細めた。断罪でも勝ち誇りでもない、観察者の目だ。
俺の器の方は、派手な声が上がらない代わりに、匙が止まりにくい。止まりにくさは音がしない。だから最初は誰も気づかない。けれど、気づかれないまま椀が軽くなるのが一番怖い。食べ進みは嘘をつかない。舌が「薄い」と言っても、手が「もう一口」を選んでしまうなら、その人は結局うまいと思っている。
「……あれ?」
小さな声がした。御膳房側の器を前にした男が、匙を一度止めたまま、湯気を見つめている。匂いが強いはずなのに、顔が少しだけぼんやりしていた。味が重い時、人の反応は極端になる。「うまい」と叫ぶか、「もういい」と逃げるか。その境目に、今その男は立っている。
「さっきほど、分からなくなってきたな」
誰かが笑い混じりに言う。御膳房寄りの笑いだ。笑ってごまかす類の言い方だった。だが、その言葉は、場の空気を逆に揺らした。「分からなくなる」という言い方は、勝っている側が言う台詞じゃない。濃さが正義なら、濃さの上に乗っていればいい。なのに、濃さの中で迷子になっている。
御膳房古参筆頭は、表情を変えずに立っていた。立っているが、視線が試食者の手元に落ちる回数が増えた。彼も分かっているのだ。勝負は歓声では決まらない。最後に残るのは、椀の中身と体の反応だ。
そこで御膳房側の段取り役が、焦ったように声を張った。
「療養膳口の方が進むのは、薄味だからだ。しかも、そちらは冷めている。温い汁なら入りやすいに決まっているだろう」
温度のせいにする。よくある手だ。薄い料理は冷めると弱くなる。逆に「冷めている」と言ってしまえば、味の差を温度の差にすり替えられる。俺は胸の奥が少し熱くなるのを感じた。怒りじゃない。焦りだ。ここで温度の議論に引きずられたら、勝負の軸がずれる。
高順さんが即座に遮った。
「温度が論点になるなら、時刻で示します。供した刻、蓋を開けた刻、蒸らしの秒数、試食開始の刻。記録はあります」
レオンさんが、言葉を足さずに紙を差し出した。御膳房側と療養膳口側、二列の時刻。筆跡が揺れていない。事実だけが整然と並んでいる。段取り役の顔色が変わる。言い返せない。言い返すには、具体的に「どの工程が乱れたか」を言う必要がある。だが、工程を言えば、誰がどこで動線を触ろうとしたかまで疑われる。
「……記録が万能だとでも?」
段取り役が吐き捨てるように言うと、猫姉がようやく、淡々と刺した。
「万能じゃないよ。嘘をつきにくいだけ」
その一言で、笑いが止んだ。猫姉は続けない。続けなくても、試食者の喉が続けている。乾いているのは事実だ。
高順さんが下働きに視線をやり、器の回収が始まった。まだ全員が食べ終えたわけではない。けれど、途中経過を可視化するだけで、声の大きさは力を失う。器は正直だ。高順さんの指示で、回収した椀が一列に並べられる。御膳房側の椀は、底に粘度の高い汁が残り、匙の通った跡が途中で止まっていた。白濁が壁に張りついて、重さを視覚で訴える。対して、俺たちの椀は内側が見えるものが増え始めていた。米の粒が僅かに残るだけで、汁が薄く伸びていない。椀が軽くなるのではなく、椀が空になる。
「……残るな」
小さく呟いたのは、さっき「薄い」と言った男だった。言い方が違う。薄いと言った舌が、今は「残らない」と言っている。残らないは褒め言葉だ。療養膳である以上、食べてくれなければ意味がない。美味しさの勝負は、結局“食べ進み”に集約される。
御膳房寄りの試食者が、意地のように濃厚の椀へ匙を入れ直した。だが、二口、三口と進んだところで、また止まった。口を閉じて、喉の奥を押さえるように息を吐く。胃が重い時の呼吸の仕方だ。猫姉がその動きを見逃さない。目線だけで高順さんに合図を送り、高順さんが「私語を控えろ」と短く場を整える。俺は自分の手のひらが汗ばんでいることに、その時初めて気づいた。包丁を握る汗じゃない。勝負の場の汗だ。
壬氏さまが、いつの間にか試食の間の奥に立っていた。目立たないように立っているのに、視線だけが場を支配する。猫姉が一礼し、高順さんが帳面を閉じる。レオンさんは記録紙を重ねて端を揃えた。俺は頭を下げるべきか迷って、一瞬遅れた。壬氏さまはそれを咎めず、椀の列を見た。
「……声ではなく、器が先に答えを出すか」
壬氏さまの言葉に、御膳房側の空気が一段張る。古参筆頭は一歩も動かない。動かないが、背中の筋が少しだけ硬くなった。
「当日の嗜好評価は、ここまでの経過を見る限り、療養膳口が優勢に見える」
その言葉に、ざわめきが起きた。御膳房側が反発しようとしたが、高順さんが紙を掲げるだけで黙る。記録が盾になると、感情の刃は鈍る。
「ただし、勝負の目的は美味さだけではない。回復だ。食後の状態と、翌朝の状態も確認する。高順、記録を続けろ。猫猫、お前は体調の変化を見ろ」
「はいはい。面倒」
猫姉は面倒そうに返事をしたが、目は鋭いままだった。
「レオン。監修記録は保全する。今日の議論の余地を潰しておけ」
「承知」
レオンさんは短く答え、紙束を胸の前で押さえた。俺はそこでようやく息を吐き、唇の内側を噛んだ。逆転は、まだ終わっていない。だが、勝負の空気は確実に動いた。濃厚が作った「正解感」は、椀の残量と舌の疲れに押し返された。ここから先は、体の反応が決める。
御膳房古参筆頭が、初めて俺の方を真っ直ぐ見た。侮りの目ではない。警戒の目だ。俺は視線を外さず、ただ頭を下げた。勝った顔はしない。勝負は続く。勝った顔をした瞬間に、相手は次の手を早める。俺はそれを知っている。
試食者が席を立つ時、何人かが口元を押さえ、何人かが湯気を吸って「もう一口」と言った。濃厚の勝ち方は、一口目で奪う。俺たちの勝ち方は、二口目以降で積み上げる。派手じゃない。だが、派手じゃない方が最後に残る。
俺は鍋の音を思い出しながら、次の確認に意識を移した。食後の悪寒、胃の重さ、口渇、眠り。勝負の答えは、明日さらに明確になる。