薬屋と料理人は幼馴染み   作:ボルメテウスさん

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療養膳監修の客人 壱拾

 夜明け前の後宮は、鍋の底みたいに静かだ。火を入れる前の、冷たさが芯に残っている静けさ。療養膳口の炊場で湯を張り、椀を温めながら、俺は昨日の湯気を思い出していた。御膳房の濃い匂いが、まだ鼻の奥に居座っている気がする。勝った負けたを決めるのは、歓声じゃない。椀の底と、体の反応。猫姉の言葉が、昨夜からずっと頭の中で転がっていた。

 

 高順さんの足音が近づく。いつも通りきっちりした歩幅で、迷いがない。

 

「マオ、こちらに来い。今朝の確認に同席してもらう」

 

「はい」

 

「ただし、余計な口は挟まぬこと。主は猫猫だ」

 

「承知しました」

 

 言われなくても分かっている。俺が前に出れば、勝負の主語が料理人になってしまう。今朝は“療養膳”の勝負で、主語は体だ。俺は火を止め、手を拭いてから高順さんについていった。

 

 試食者が集められた部屋は、昨日の試食の間よりもずっと白い。匂いが薄い。香も、茶も、余計なものが置かれていない。意図的だ。条件を揃え、言い訳を減らす部屋。

 

 猫姉はすでにそこにいて、壁にもたれていた。相変わらず、いるだけで面倒が増えそうな顔をしている。けれど、その目は面倒のために動いていない。仕事の目だ。

 

「おはよ。……って言うと変か」

 

「朝は朝ですよ。猫姉」

 

「まあね。じゃ、始める」

 

 レオンさんが筆と紙束を整えている。書く欄が昨日より増えていた。時刻、主訴、口渇、胃の重さ、睡眠、食欲。彼は余計な飾りを一切つけずに、項目だけで人を追い詰める。

 

 壬氏さまは少し遅れて入ってきた。いつもの柔らかな顔のまま、部屋の温度だけを下げるような歩き方をする。

 

「お集まりいただき、感謝する。昨日の勝負は、今朝で決着をつける」

 

 御膳房の古参筆頭も立っていた。背筋が硬い。顔は崩れていないが、昨夜より目が鋭い。あの人はもう分かっているのだろう。ここは料理の場ではなく、逃げられない場だ。

 

 猫姉が前に出た。声は小さいのに、部屋の中心に立つ。

 

「見るのは簡単。口が渇いてるか、胃が重いか、眠れてるか、朝飯が入るか。あと、悪寒。寒気が残ってるなら回復してない。個人差はあるけど、だから複数見る。言い訳は後でどうぞ」

 

 試食者の中に、昨日いちばん声の大きかった男がいる。胸を張っているつもりなのに、唇の端が乾いて白い。本人は気づいていない顔だ。

 

「まず、あなた」

 

 猫姉が指を向けると、男が一歩出た。

 

「昨夜の後、喉は渇いた?」

 

「……別に」

 

「水、何杯飲んだ?」

 

「二、三杯だ」

 

「“別に”の人は、普通一杯で済むよ。胃は?」

 

「……少し、重いだけだ」

 

「朝飯は?」

 

「……今はいい」

 

 猫姉は首を傾けたまま、淡々と次を刺した。

 

「眠りは?」

 

「浅かった」

 

「口渇、胃もたれ、睡眠の質低下。はい、次」

 

 男が「待て」と言いかけたが、言葉が続かなかった。続ければ続けるほど、症状が並ぶだけだからだ。俺は背筋が少し寒くなった。猫姉のやり方は派手じゃない。派手じゃないのに、逃げ道がなくなる。

 

 次に呼ばれたのは、中立の顔をしていた試食者だ。昨日、濃厚を褒めも貶しもせず、ただ匙を止める瞬間があった人。

 

「昨夜の感想、正直に」

 

「濃い方は……最初は良かった。ただ、途中から口が渇いて、茶が欲しくなった。粥の方は、食べてるうちに腹が落ち着いた。夜のうちに、体が温まった気がする」

 

 猫姉は頷き、言葉を足さない。余計な説明より、その一言が重い。

 

 最後に、昨日こちらの椀をよく進めていた人が呼ばれた。顔色が違う。目の焦点が定まっている。

 

「朝、何か食べた?」

 

「少し。入った」

 

「悪寒は?」

 

「昨日より楽です。手先が冷えにくい」

 

「口渇は?」

 

「ない。むしろ、喉が楽」

 

 猫姉がふっと鼻で笑った。

 

「分かりやすい」

 

 高順さんが帳面を閉じ、低い声で言った。

 

「なお、昨夜の水分・酒・茶の摂取は確認済みです。自己申告は申告として記録し、結論は症状と整合で判断します」

 

 レオンさんが、昨日の記録紙と今朝の所見を重ねた。紙が重なる音が、妙に大きく聞こえた。

 

「前夜。濃厚側、茶を探す視線、咳払い、匙の停止。翌朝、口渇と睡眠低下。療養側、残量少、食後の安定。翌朝、食欲と悪寒改善。繋がる」

 

 短い言葉が、釘になる。

 

 御膳房古参筆頭が、ようやく口を開いた。

 

「濃厚が悪だと言うつもりか。宮の膳は、一口で満足させねばならん。宴ではなおさらだ。失敗できぬ場で、分かりやすさは武器だ」

 

 壬氏さまが目を細めた。否定ではなく、整理の目だ。

 

「その合理は理解する。だが、療養膳口の目的は宴ではない。回復だ」

 

 猫姉が肩をすくめる。

 

「濃いのが必要な日もあるよ。でも、今回の里樹さまみたいに“舌が疲れてる”なら、濃いのは追い打ち。回復させたいなら、落とすべき」

 

 俺はその名前を聞いて、胸の奥が小さく鳴った。里樹妃。あの子の「おいしいのに、よく分からない」という言葉。あれが、ここに繋がっている。

 

 壬氏さまが、静かに結論を置いた。

 

「当日の嗜好評価は、残量と食べ進みで療養膳口が優勢。翌朝の回復指標でも、療養膳口が優勢。よって、今回の勝負は療養膳口の勝ちとする」

 

 部屋の空気が、わずかに動いた。御膳房側が反論を飲み込む音がした。飲み込ませたのは権威じゃない。紙と症状だ。

 

 壬氏さまは続けた。

 

「そして本日をもって、外部監修制度を試験から正式運用へ移す」

 

 高順さんが一歩前に出て、文書を広げた。読み上げる声は硬質で、内容はさらに硬い。

 

「第一、監修記録の標準化。火力段階、投入順、提供温度、蒸らし、残量、体感所見を必須とする。第二、試食の評価基準は、声量ではなく残量と体感を主とする。第三、療養膳口への最低限の食材割当を保証し、割当での圧迫を禁ずる。第四、監修記録は御膳房・療養膳口双方が閲覧できる形で保全する」

 

 俺は思わず息を止めた。割当保証――つまり、あの単純な権限の嫌がらせに、楔が打たれたということだ。御膳房古参筆頭の眉が、ほんの僅かに動いた。面子より、現実が動いた顔だった。

 

 壬氏さまがレオンさんに視線を向ける。

 

「レオン、貴殿の記録様式を雛形として採用する。今後も監修を続けてもらいたい」

 

「承知」

 

 レオンさんは短く頷いた。嬉しそうではない。だが、誇りがないわけでもない。刃物みたいな人だ。光らせ方を選ぶ。

 

 猫姉は面倒くさそうに欠伸を噛み殺しながら、ぼそっと言った。

 

「事故が減るなら、まあ、いい」

 

 高順さんが咳払いを一つしてから、俺に視線を投げた。壬氏さまも、俺を見た。

 

「マオ。制度は整えた。次は実務で示せ。療養膳口が“役に立つ”と分からせるのだ」

 

「はい。……必ず」

 

 声が少しだけ震えた。怖いからじゃない。背負うものが急に重くなったからだ。勝ったから終わりじゃない。勝った瞬間から仕事が始まる。俺は頭を下げ、顔を上げたとき、猫姉と目が合った。

 

「浮かれるなよ」

 

「浮かれてません」

 

「じゃあいい」

 

 それだけ言って、猫姉は視線を外した。外した先――廊下の方から、微かに香の匂いが漂ってきた。ここには香炉がないのに。甘すぎない、けれど鼻に残る匂い。俺が気づくより先に、猫姉の鼻が僅かに動いた。

 

「……ふうん」

 

 たった一音で、嫌な予感が芽を出した。勝負は終わった。けれど、後宮の“終わり”は、いつも次の始まりと繋がっている。

 

 部屋を出ると、外の空気は冷たい。冷たいのに、昨夜ほどは刺さらない。俺は自分の掌を見た。料理は、人を温める。言葉より確かな形で。だからこそ、ここに居続ける意味がある。

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