勝負が終わった翌日から、炊場の空気がほんの少し軽くなった。御膳房の顔色を窺いながら鍋を振る日々は続くにしても、「やれば通る」という実感が、火の熱と一緒に腹の底へ落ちた感じがする。もっとも、その分だけ仕事も増えた。料理の出来を競う前に、紙の束が俺たちの前に積まれたからだ。
「今日から“監修帳”はこの形式で統一します」
高順さんが、いつもの淡々とした声で言った。帳面は原本と控えの二系統、さらに提出用の切り取りが付いている。開いて眺めるだけで胃が重くなる。厨房の連中が顔をしかめ、御膳房の古参が鼻で笑った。
「紙ばかり増えて、味が落ちるぞ」
「味が落ちたかどうかは、舌と体が言います。紙は言い逃れを減らすだけです」
高順さんは一歩も引かない。古参も踏み込まない。正式運用になったばかりで、ここで揉めれば自分の面子が余計に削れるのを分かっているのだろう。場は丸く収まり、表向きは「これで事故が減る」と誰もが頷いていた。少なくとも、その場では。
レオンさんが紙束を受け取り、ざっと目を通してから、必要な欄に細い字で見本を書き入れた。火力段階、投入順、提供温度、蒸らし、残量、体感所見。料理の熱さより冷たい言葉が並ぶ。だが、その冷たさは嫌いじゃない。料理人の情熱は熱で、裁きは冷えで支えるべきだ。
「……猫姉、これ、全部書くんですか」
「書くのが嫌なら、事故起こせば? 大騒ぎになるよ」
「嫌です」
「じゃ、書く。簡単」
猫姉は面倒そうに言い切った。いつもの皮肉だが、妙に正しい。俺は頷き、帳面を抱えて炊場へ戻った。
その日から、記録は回り始めた。最初はぎこちない。筆が止まり、帳付けの下女が「字が汚い」と嘆き、配膳の男が「時間がない」と怒鳴る。だが、忙しさの中でも人は慣れていく。慣れの怖さは、雑さが混じることだ。雑さは、罪の入り口になる。猫姉が言いそうなことを、俺は胸の中で先に言ってみて、少し嫌な気分になった。
昼過ぎ、俺は提出用の切り取りを持って帳付けの机へ向かった。炊場の外は冷える。廊下の石が足の裏から冷たさを吸っていく。帳付けの部屋は、紙と墨と人の汗が混じった匂いがする。そこに、ほんの少しだけ違う匂いが混じっていた。甘くも苦くもない、薄いのに鼻に残る匂い。
「すみません、療養膳口の控えを……」
帳付けの下女が顔を上げる。目の下に隈がある。昨日から帳面に追い回されている顔だ。
「置いといて。今、墨がね……なんか変で」
「変?」
下女が見せた控えの紙は、文字がほんの少し滲んでいた。書いた直後の滲みじゃない。乾いたはずの線が、あとからゆっくり広がったような滲み方だった。
「湿気、ですかね」
「昨日も言われた。でも、昨日より酷い。筆も悪くないのに」
その時、扉がすっと開いて猫姉が入ってきた。呼んでもいないのに、こういう時だけ現れる。顔はいつも通り面倒そうなのに、目だけが仕事の目だ。
「……見せて」
猫姉は下女の手から控えを取り、光に透かした。次に、紙の端を指で撫で、爪先で軽くこすった。最後に、鼻先を近づけて一度だけ吸う。吸い方が“香りを楽しむ”じゃない。“情報を抜く”だ。
「湿気だけじゃないね」
「猫姉、何かわかるんですか」
「まだ。けど、この紙、妙に滑る。あと……虫が寄らない匂いがする」
下女が眉をひそめる。
「虫が寄らないの、良いことじゃ……」
「良い紙は、虫に食われる。特に澱粉の糊を使ってる紙はね。虫が寄らないってことは、虫が嫌がる何かで処理されてるか、そもそも紙の作りが違う」
猫姉は紙を机に置き、滲んだ文字の一部を指でなぞった。なぞっただけで、薄くなった気がした。気のせいじゃない。線が、ほんの少しだけ痩せた。
「今、これ……薄くなった?」
俺が言うと、下女が青ざめた。
「嘘……昨日の分も、確認した方がいいですか」
「騒がない。書き直しもしない」
猫姉が即座に釘を刺した。声は低く、きっぱりしている。
「書き直しは、改竄と同じ匂いがする。誰かに“書き直させた”って言われたら終わり」
俺は喉の奥が冷たくなるのを感じた。料理で勝ったはずの場所で、紙の上で負けさせられる。そんなのは、鍋の中に砂を入れられるより腹が立つ。
「……猫姉、これって」
「“そういうこと”の可能性が出たってだけ。だから静かに潰す」
猫姉は控えをそっと畳み、下女に向き直った。
「この束、どこから出した?」
「朝、文具箱の上の棚から……いつもと同じ場所です」
「昨日は?」
「昨日も同じ……あ」
下女が言葉を止めた。棚の奥を見たまま、顔色がさらに悪くなる。
「昨日の夕方、帳面が増えて邪魔だからって、一度全部、机の下に移したんです。片付ける時、誰かが手伝って……」
「誰」
「えっと……配膳の……名前、すぐ出ない……」
猫姉の目が細くなった。ここで名前が曖昧になるのは、後宮らしい。曖昧さは、犯人の住処だ。
「いい。名前は後で思い出す。今はその束を触らない。別の束も出さない。机の上の紙は、この一枚だけにして」
猫姉は俺を見た。
「高順さん呼べる?」
「呼びます。すぐに」
俺が踵を返した時、猫姉が小さく付け足した。
「走らないで。走ると、面倒が増える」
「……はい」
走りたいのを堪えて、俺は廊下を速足で戻った。高順さんはちょうど運用文書の束を抱えて歩いていた。俺が頭を下げるより先に、俺の顔を見て状況を察したらしい。目がほんの少しだけ鋭くなる。
「どうした」
「猫姉が、紙が変だと。墨が滲んで……薄くなります」
高順さんの足が止まった。迷いがない人間の止まり方だ。
「案内しろ」
帳付けの部屋に戻ると、猫姉はもう“証拠品”の扱い方になっていた。紙は一枚だけ、机の真ん中に置き、触れる人間を絞っている。下女の手を洗わせ、筆も片付けさせていた。余計な墨が付くと、分からなくなるからだ。
「高順」
「猫猫、説明しろ」
「紙が違う。処理された紙。湿気で墨が動くか、時間で薄くなる。狙いはたぶん、記録の信用を落とす。療養膳口の不備に見せかけるには、ちょうどいい」
猫姉の口調は淡々としているのに、言葉が刺さる。高順さんが紙を見つめ、そしてレオンさんの方を見る。いつの間にか、レオンさんも呼ばれていたらしい。呼んだのは高順さんか、猫姉か。どちらでもいい。必要な人間が揃うことが、後宮では珍しい。
「レオン、昨日の原本はどこだ」
「私が保全。原本は箱に封。控えは部署ごと」
「控えの束を隔離する。今ここにある束は触るな。持ち出すのは私がする」
高順さんは下女に向き直り、穏やかではないが責めてもいない声で言った。
「この部屋に出入りした者の名を、思い出せる限り書け。今すぐだ。曖昧なら曖昧と書け。嘘を書くな」
「は、はい」
猫姉が俺に目線だけ寄こした。
「マオ、あなたは今日の帳面、控えも含めて全部、炊場の箱に入れて。誰にも触らせない。料理人が紙を守るの、変だけど」
「変でも守ります」
俺はそう答えた。変でも、ここで負けるわけにはいかない。料理の勝負を、紙の上でひっくり返されるのは御免だ。
高順さんが、最後に短く言った。
「壬氏さまに報告する。騒ぎは不要だが、警戒は必要だ。猫猫、原因の目星は」
「紙か、墨か、両方。匂いが紙寄り。あと、虫が寄らない。そこから」
猫姉は紙束を見下ろし、口の端だけで笑った。愉快そうではない。面倒が増える笑いだ。
「……ほんと、暇にならないね」
部屋を出た瞬間、帳付けの机の奥で、誰もいないはずの場所から布の擦れる音がした。振り返ると、廊下の先に下働きの背中が見えた。何事もない顔で、帳付けの机の端を拭いている。拭く必要があるほど汚れてもいないのに。
俺が目を凝らすより先に、その背中は角を曲がって消えた。残ったのは、紙と墨の匂いに混じる、薄いのに鼻に残る匂いだけだった。
勝負は終わった。なのに、後宮は終わらせてくれない。鍋の火を落としても、別の火がどこかで点く。猫姉が言う“面倒”は、たぶん、これから本番だ。