薬屋と料理人は幼馴染み   作:ボルメテウスさん

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帳簿の墨が消える 弐

 勝負が片付いたはずの朝なのに、炊場の空気は落ち着かなかった。帳面が増えたせいで手が増えるどころか、手が縛られた気分になる。料理は湯気と匂いで生きるのに、その湯気と匂いが、今度は紙を殺すかもしれない――そう思うと、鍋の蓋がいつもより重く感じた。

 

「マオ、これ。昨日の控え」

 

 猫姉が、何でもない包みみたいに一枚の紙を差し出した。けれど紙は、触った瞬間に“普通じゃない”と分かる。つるりとして、指が紙の上を滑る。包み紙のざらつきとは違う。匂いも薄いのに、鼻の奥に残る。薬包紙に似た「処理された」気配だ。

 

「帳付けの部屋で見たやつですね。滲んで、薄くなった……」

 

「うん。騒ぐ前に確かめる。墨が悪いのか、紙が悪いのか、環境が悪いのか」

 

「環境、ですか?」

 

「湯気とか、香りとか、油とか。後宮はそういうの好きでしょ」

 

 猫姉の言い方は投げやりなのに、狙いはまっすぐだった。俺は炊場の端にある小さな台を片付け、蒸籠を出した。紙を料理に使うことはある。包む、蒸す、香りを移す、余計な湿気を吸わせる。紙は便利だ。だからこそ、紙は“罠”にもなる。

 

「まず、同じ条件にしましょう。紙を切って、同じ墨で書いて、乾かしてから試す」

 

「偉い。口より手が先に動くのは料理人の良い癖」

 

「猫姉に褒められると、怖いです」

 

「褒めてない。観察してるだけ」

 

 猫姉は紙を細く裂き、爪で端を揃える。俺は控えの端切れと、炊場の包み紙を同じ幅に切った。念のため、紙片に小さく目印を書く。墨は帳付けと同じものは持ち込めないから、炊場の札書きに使う墨を少し借りた。猫姉が筆を取るのは意外と様になる。書き方が手慣れている。薬屋だから当然か。

 

「こっちが問題の紙。こっちは普通紙。乾かす。触るなよ、指の脂で変わる」

 

「はい」

 

 蒸籠の下に湯を張り、火を弱く入れる。湯気が出始めたところで、猫姉が紙片を二枚、箸で挟んで蒸籠の上にかざした。直接濡らさない。湯気だけ当てる。料理の蒸しと同じだ。

 

「……どう?」

 

 俺が聞くと、猫姉は答えず、紙片を横に置いた。目で見て、鼻で嗅いで、指先で触れずに確認している。

 

「問題の紙だけ、線が太った。滲み方が遅い。時間差で来る」

 

 そう言って、猫姉は普通紙のほうを指差した。

 

「こっちは変化が少ない。湿気だけなら、どっちも多少は滲む。でも差が出た。紙の側に“何か”がいる」

 

 俺は喉が鳴るのを感じた。料理で言うなら、素材の下処理が違う。下処理が違えば、火の通りも味の入り方も変わる。紙も同じだ。

 

「次、酸と灰汁。紙の下処理って、酸や灰で変わることありますよね。包み紙でも、匂いの入り方が違うし」

 

「そう。料理人の知恵、使える。酢を少し。灰汁は……薪の灰の上澄みでいい」

 

 俺は酢を小皿に取り、灰壺の上澄みを別の器に取った。猫姉は問題の紙片を二つに分け、片方を酢の蒸気に、片方を灰汁の蒸気に当てた。直接濡らさない。蒸気だけで反応を見たいからだ。

 

 しばらくして、猫姉が紙片を光に透かす。俺も横から覗いた。墨の線が、酢のほうだけ妙に薄い。輪郭が抜けるように、中心が白くなる。

 

「……消える、というより抜ける感じですね」

 

「うん。墨が紙に“留まれてない”。紙の表面が、墨を抱え込むはずのところで抱え込まない。あるいは、抱え込んだ後で放す」

 

 猫姉は灰汁の紙片も確認して、小さく鼻で笑った。

 

「灰汁は大きく変わらない。酸のほうが効く。これ、湿気と酸が揃うと危ない」

 

「酸って、酢だけじゃないですよね。香りの強いものにも酸味の立つやつがある。柑橘の皮とか」

 

「そう。次、香り」

 

 猫姉は棚から陳皮の瓶を勝手に取り出した。俺が止める前に、手際よく蓋を開けて香りを立てる。次に、生姜を薄く叩いて香りを飛ばした。炊場の匂いが一段だけ華やぐ。ここで俺は気づく。香りは、料理のためだけじゃない。場を作り、鼻を支配するためにも使える。

 

「油も。整髪油の代わりに胡麻油でいい。ほんの一滴」

 

 猫姉の指示が的確すぎて、逆に怖い。俺は小指の先ほどの胡麻油を皿に落とした。猫姉は問題の紙片の端に、針の先ほどの油をつける。紙に染みるかと思ったが、思ったより弾く。表面が滑るからだ。

 

「蒸気、香り、油。三つ揃えたらどうなるか」

 

 猫姉が紙片を蒸籠の湯気の上にかざし、横から陳皮と生姜の香りを当てる。油のついた端を少しだけ湯気の流れに乗せた。数息の後、猫姉が紙片を引き上げて、墨の線を見た。

 

「……来た」

 

 猫姉の声が少しだけ低くなる。俺も見て分かった。墨の線が、さっきまでの“滲み”じゃない形で薄くなっている。滲んで広がるのではなく、線そのものが削られていくように淡くなる。まるで、書いたものを洗い落としているみたいに。

 

「湯気だけでも動く。酸でも動く。でも、油と香りが混ざると、動き方が変わる。これ、偶然じゃないね」

 

「紙の側を加工して、炊場みたいな湿気の多い場所に置けば……勝手に薄くなる」

 

「置くだけじゃ足りない。油が要るなら、紙に油が触れる導線がいる。整髪油、手の脂、油紙、配膳で触る手……」

 

 猫姉が言いながら、俺の手元をちらりと見た。俺は反射で手を引っ込めた。指の脂。料理人の手は油に触れる。だから記録係が炊場に近ければ近いほど、紙は死にやすい。

 

「……つまり、控えが置かれる場所も、触る人も、全部“条件”なんですね」

 

「そう。紙を差し替えるだけじゃ足りない。紙が反応する環境に置かせる必要がある。湯気が当たって、香りが溜まって、油が触れる場所」

 

 猫姉は紙片を並べて、順番に見比べた。まるで薬の効き目を比べるみたいに、顔が無表情になる。こういう顔の猫姉は、嫌な予感しかしない。

 

「これ、犯人は“墨を消す紙”を持ってる。で、それを“炊場に近い仕組み”に入れた。つまり、帳付けを炊場に寄せる流れを利用した。監修制度が始まったからこそ、帳面が動く。その動きが罠になる」

 

「……制度を攻撃してる」

 

「うん。料理じゃ勝てないから、紙で殺す」

 

 俺は胸の奥が熱くなるのを感じた。怒りより先に、悔しさだ。勝負は椀の底で決まったはずなのに、今度は紙の端で潰される。そんなのは許せない。けれど、猫姉はそこで一歩も感情に寄らない。

 

「マオ。次に見るのは紙じゃない。紙が置かれる“定位置”。湯気の当たり方。香りが溜まる角。油に触れる動線」

 

「分かりました。帳面の置き場、炊場の中と外、全部見直します」

 

「あと、これ」

 

 猫姉は問題の紙片を小瓶に入れ、蓋を閉めた。瓶の口を布で巻き、紐で結ぶ。料理の保存じゃない。証拠の保存だ。

 

「反応が再現できた。これが一番の収穫。誰かが“湿気のせい”って言い張っても、条件を揃えれば同じことが起きる」

 

「猫姉……これ、次は誰に」

 

「まだ二人だけ。騒いだら、手が引かれる。まず現場。動線。置き場。そこが掴めたら、初めて叩く」

 

 猫姉の言い方が、薬屋のそれだった。面倒を嫌うくせに、面倒の核心だけは逃さない。俺は頷き、蒸籠の火を落とした。湯気が薄くなっていくのを見ながら、俺は思った。料理の湯気は人を助ける。けれど、使い方次第で、紙を殺して人を潰す湯気にもなる。

 

「……猫姉。紙で人を殺すなんて、嫌な手ですね」

 

「後宮だよ。鍋に毒が入るとは限らない」

 

 猫姉はそう言い捨てて、瓶を袖に隠すように持った。炊場の匂いの中で、あの薄い匂いだけが、いつまでも鼻に残った。

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