薬屋と料理人は幼馴染み   作:ボルメテウスさん

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帳簿の墨が消える 参

 後宮というのは、人が「もう大丈夫」と思った瞬間に、その油断の隙間へ針を刺してくる場所らしい。監修制度が正式運用になって、炊場の空気は少しだけ軽くなった。帳面が増えて手は重くなったのに、心は妙に軽い。だからこそ危ない。軽さは、見落としを呼ぶ。

 

 猫姉は、そんな軽さを鼻で笑うみたいに、控え用紙の束を指先で弾いた。乾いた音がした。

 

「張るよ」

 

「張る、って……張り込みですか?」

 

「うん。紙が勝手に薄くなる? そんな都合のいい湿気があるなら、置き場が都合よすぎるってこと」

 

「置き場」

 

「定位置。紙が反応する条件、昨日ふたりで作ったでしょ。湯気、香り、油。三つが揃う場所に、帳面を置かせてる。だから“誰が”より先に“どこに”が大事」

 

 猫姉の言葉はいつもぶっきらぼうなのに、芯だけは外さない。俺は頷いて、炊場の中の「帳面の定位置」を思い浮かべた。出入口に近い棚。蒸籠の湯気がふわりと流れる位置。生姜や葱を刻む台の近く。人の出入りが多い場所ほど、紙は触られ、匂いは乗り、油は移る。

 

「二ヶ所見る。炊場の棚と、配膳へ渡す前の控え置き場」

 

「ふたりで?」

 

「ふたりで。大勢だと目立つし、口が増える」

 

 猫姉が袖から小瓶を出した。昨日、紙片を入れて封をしたやつだ。あれを見せられると、冗談みたいな話が一気に現実へ落ちる。

 

「……やるなら、いつです?」

 

「今。今日が一番油断してる」

 

 炊場は朝から忙しい。湯が沸き、包丁が鳴り、香りが立つ。帳面は棚に置かれ、出たり入ったりする。張り込みには最悪の環境で、だからこそ一番情報が落ちている。猫姉は棚の前を一度だけ通り過ぎ、何でもない顔で戻ってきた。視線だけで、棚板の高さ、蒸気の流れ、通る人の利き手まで拾っている気がする。

 

「マオ、あなたは棚の“右側”見て。帳面を持つ手が右利きなら、紙束を差し替えるのも右側から」

 

「左利きなら?」

 

「面倒。けど、痕は出る。油って左右差が出るから」

 

 俺は炊場の端で野菜を刻むふりをした。包丁を握る手に余計な脂がつかないよう気をつけながら、視線は棚の周りに置いた。猫姉は逆側、桶の影に腰を下ろして、紙切れを弄ぶふりをしている。ああいう“何もしないふり”が上手いのが薬屋だ。

 

「緊張してる?」

 

「してません」

 

「嘘。耳が立ってる」

 

「犬じゃないです」

 

「犬のほうが素直だよ」

 

 そう言って猫姉は欠伸を噛み殺した。嘘みたいに気の抜けた顔をしているのに、目だけが棚を追っている。俺はその目に引っ張られて、棚へ近づく人の指先を見るようになった。

 

 最初に来たのは、帳面に慣れていない下働きの若い男だった。棚から帳面を取る時、指が紙の縁を擦った。戻す時、蒸籠の湯気が帳面の背を撫でた。こういうのは、ただの“環境”だ。犯意の匂いはしない。次に来たのは、包丁台の近くで葱を刻んでいた料理人で、帳面の上に肘を乗せかけて猫姉に目だけで止められていた。猫姉の目は、声より効く。

 

「……あれ、やめさせた?」

 

「うん。油が移る」

 

「そんなに簡単に?」

 

「簡単に移る。だから簡単に殺せる」

 

 猫姉の声が一段低くなる。俺も思い出した。昨日の紙片。湯気と香りと油で、墨が“抜ける”みたいに薄くなった。料理の現場は、条件が揃いすぎている。

 

 しばらくして、棚の前にひとりの男が立った。下働きに見える。けれど動きが雑じゃない。帳面を取る前に、一度だけ周囲を見る。視線が素早い。目が合う前に、俺は包丁を滑らせるふりで視線を切った。

 

 男は帳面を抜き取り、棚の上でページを捲らずに、背の部分だけを指で押さえた。まるで“中身を確かめる必要がない”みたいな手つきだった。それから帳面を開いて、控え用紙の束に指を入れる。紙の端を二、三枚だけ摘む。抜かない。抜かないのに、指の動きは確かに“揃えている”。

 

「猫姉」

 

「見てる」

 

 猫姉の声が、いつもより短い。俺の背中に冷たいものが走った。男が紙束を揃え終えた瞬間、帳面が棚に戻される。何も起きていない顔で、その男は蒸籠の湯気が濃いほうへ歩き、そこで足を止めた。蒸籠の上の湯気を、手で払うようにして避けるでもなく、むしろ少しだけ近づいた。

 

 その仕草が、妙に“慣れて”いた。湯気の当たり方を知っている人の距離だ。

 

 男が去ったあと、棚の前はいつも通りの忙しさに戻った。けれど猫姉は動かない。動かないまま、棚の上を見ている。

 

「すぐは触らない。今触ると、あなたの油がつく」

 

「じゃあ、いつ」

 

「次に誰かが帳面を使ったあと。自然な流れで回収」

 

 待つ。料理人は火を見て待つが、今は紙を見て待つ。妙な話だ。けれど待った甲斐はあった。十分もしないうちに別の下働きが帳面を取り、何枚か書き足して棚に戻した。戻す時、指先が紙の縁に触れて軽く擦れた。自然な接触。だからこそ痕が残る。

 

 猫姉が立ち上がり、今度は本当に何でもない顔で棚へ向かった。帳面を一冊抜き取り、紙束の端を“見ただけ”で確認し、俺に顎で合図する。

 

「来て」

 

 炊場の隅、湯気の流れが薄い場所へ移る。猫姉は帳面を開かずに、控えの束の端を鼻先へ寄せた。俺も真似して匂いを嗅ぐ。紙の匂いに混じって、うっすらと油の匂いがある。胡麻油じゃない。香りが甘い。整髪油に近い、べったりしない薄い匂い。

 

「……油、ついてます」

 

「うん。さっきの男の手、油っぽくなかったのにね」

 

「油っぽくない手でも、油は運べる」

 

 俺が言うと、猫姉がほんの少しだけ口角を上げた。褒めてるのか、面倒が増えた喜びなのか分からない笑いだ。

 

「紙束、ズレてる。端が揃ってない。帳面って、普通はこんなに揃えない。揃えてる時点で怪しい」

 

「でも、差し替えた瞬間は見えませんでした」

 

「差し替えは“瞬間”じゃないかも。数枚ずつ抜いて、数枚ずつ足す。束の中を薄く汚染する。そうすると、全部が怪しくなる」

 

 猫姉の言い方に、背筋が冷えた。鍋に毒を一滴ずつ落としていくみたいなやり方だ。気づいた時には、どの椀が安全か分からなくなる。

 

「定位置を変えたらどうです? 湯気が当たらないところに」

 

「変える。けど、変えた“あと”が本番。犯人が置き場を追いかけてくるか、紙束を追いかけてくるかで、狙いが分かる」

 

「追いかけてくるなら……内部の人間」

 

「か、内部に入れる人間」

 

 猫姉は帳面を閉じて、袖の中へ押し込むみたいに抱えた。俺の手が伸びる前に、首を振る。

 

「持たない。あなたの指の脂が混ざる。今ある油の匂いを消したくない」

 

「じゃあ、俺は何を」

 

「次の定位置を作る。湯気が当たらない、香りが溜まらない、油が触れにくい場所。そこに帳面を置く流れを、自然に作って」

 

 言われてみれば、それは料理と同じだった。火力を変えるのも、塩を入れる順番を変えるのも、“自然な流れ”を作らないと味が崩れる。帳面も同じ。置き場を変えるなら、現場が無理なく従える導線が必要だ。

 

「分かりました。棚じゃなくて、壁際の乾いた箱に。蓋をつけて、触れる人を絞る」

 

「いいね。蓋。蓋は、誰が開けたか残る」

 

 猫姉は帳面の背を指先で軽く叩いた。叩き方が、まるで生き物を起こすみたいだった。

 

「今日の成果はこれ。油の匂いが残った。紙束が揃えられていた。湯気の近くへ寄った男がいた。充分」

 

「顔は……見えたけど、名前までは」

 

「今はそれでいい。名前を追うと、口が増える。次は動線。置き場を変えて、追ってきたら尻尾。追ってこなかったら、紙束の中にすでに混ぜられてる」

 

 猫姉が袖から小瓶を取り出し、昨日の紙片と今日の控えの端切れを並べて見比べた。俺には繊維の目までは分からない。けれど猫姉の目は、毒の粒と同じように紙の目を見ている。

 

「……同じ匂い」

 

 ぽつりと言って、猫姉は瓶に端切れを入れた。蓋を閉める音が、妙に乾いて響いた。炊場は湯気だらけなのに、その音だけは湿らない。

 

「マオ、まだ一件落着の顔してる人、多い?」

 

「多いです」

 

「じゃあ、ちょうどいい。油断してるうちに、こっちは仕掛けを外す」

 

 猫姉はそう言って立ち上がり、いつもの面倒そうな歩き方で炊場の喧騒へ溶けた。俺も包丁を握り直す。火はまだ生きている。だから、湯気も匂いも止まらない。止まらないからこそ、誰かがそこに毒を混ぜようとする。鍋じゃなく、紙に。

 

 そして俺は、あの男が湯気に近づいた距離を思い出しながら、次の「定位置」を頭の中で組み立て始めた。

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