帳面の置き場を変える――それは、鍋の火加減を変えるのに似ている。慣れた流れを崩せば、現場は一瞬、混乱する。だが、その混乱の隙間にこそ、人の“癖”が現れる。
猫姉の指示どおり、俺は炊場の奥、湯気の届きにくい乾いた壁際に、小さな木箱を用意した。蓋つきで、口が広すぎず、紙束がちょうど収まるもの。中に布を敷いて、帳面の背が擦れないようにする。料理の道具と同様、紙も丁寧に扱えば、余計な匂いや油が移りにくい。
「これで、湯気は避けられます」
「避けられるね。香りも溜まりにくい。でも、問題は油。油は人が運ぶから」
猫姉は箱の縁を指先でなぞった。触れ方は軽やかだが、視線は異様に細かい。俺が縄を出して蓋を縛ろうとすると、猫姉が口を挟んだ。
「結び方、変えないで。いつも通り、雑に」
「雑……ですか?」
「丁寧に結ぶと、ほどかれても分からない。雑に結べば、ほどいた人の癖が出る。結び目の癖は、口より正直」
言われた通り、俺はいつもの手つきで縛った。きつく締めるが、形を整えすぎない。猫姉は小さく頷き、箱を元の位置に戻した。
「帳面に触れる人は増やさない。書く人は帳面を持っていき、書き終えたら戻す。棚に置きっぱなしは禁止」
「了解です。炊場の皆にも伝えます」
「“伝える”のはいいけど、説明しすぎない。説明は、口を増やす」
猫姉のぶっきらぼうな口調が、妙に頼もしい。俺は帳面を箱に収め、蓋を閉じた。木と紙の匂いだけが漂う、乾いた小さな空間。湯気と香りの海から切り離された、避難所のような場所だった。
その日の仕事は忙しかったが、帳面が“薄くなる”ような変化は起きなかった。少なくとも目に見えるかたちでは。俺は胸の奥で小さく息をつきながらも、気を緩めなかった。もし犯人が紙を仕込んでいるのなら、それを“反応”させる必要がある。反応させる場所を奪われれば、次は取り返しにくる。
夜、炊場の火を落とし、片付けの最後に箱を確認した。縄はそのまま。結び目も変わっていない。安心しかけた瞬間、自分を叱った。後宮での油断は、火の消し忘れと同じくらい致命的だ。
翌朝、まだ空気が冷たい時間に炊場へ入ると、最初に目についたのは、箱の“位置の違和感”だった。箱が、壁から指一本ぶんほど離れている。俺は立ち止まり、床の感触を足の裏で確かめた。石の上に木を引いたような、微かな擦れ跡がある。しかもその跡はまっすぐではなく、最後にわずかに右へ跳ねている。まるで右利きが持ち上げて向きを直したような跡だ。
「……猫姉」
猫姉は、もうそこにいた。どこから現れるのかと思うが、今はその存在がありがたい。猫姉は箱を見るなり、眉をわずかに動かした。
「動いたね」
「縄は……」
俺が言いかけたところで、猫姉が指を一本立てた。声を出すな、という合図。近くに誰かがいるかもしれない。俺は黙ってしゃがみ、結び目を目で追った。それは“同じように見える”。だが、縄のねじれ方が違う。繊維の向きが一度反転している。俺が結ぶ時に出る、あの癖がない。
猫姉は、ため息とも笑いともつかない息を吐いた。
「ほどいて、結び直してる。つまり、蓋は開けられた」
「中身を盗まれたんでしょうか?」
「盗むなら、箱ごと持ち去る。ここにあるということは、盗みが目的じゃない」
猫姉は縄に触れず、蓋の縁を目でなぞった。木の端に、爪で引っかいたような小さな欠けがある。昨日はなかった。
「道具を大切にしない人の開け方。急いでる」
「急いで、開けて、戻した……」
「で、置き場をどうしたいか」
猫姉の視線が炊場の棚に向いた。湯気が流れる、以前の“定位置”。俺も反射的にそちらを見る。棚の一番端。帳面がよく置かれていたその場所に、見覚えのある背表紙が見えた。箱の中にあるべき帳面が、棚に戻されている。まるで、初めからそこが正しい場所だったかのように。
腹の底が冷えた。盗まれていない。壊されてもいない。ただ、戻されている。料理でいえば、火から外した鍋を、黙って再び火に戻されたようなものだ。
「……追ってきた」
「うん。置き場を追ってきた。帳面を“薄く”したいなら、反応する場所に戻すのが一番早い」
猫姉は棚の帳面に近づき、乾いた布を指に巻いてから、そっと背表紙に触れた。俺も息を止める。猫姉が鼻先を寄せ、一瞬だけ匂いを嗅ぐ。
「油。昨日より濃い」
「胡麻油じゃないですよね」
「うん。甘い。髪か、手の脂に近い匂い。炊場の油じゃない。炊場の油はもっと生臭いか、香りが立つ」
猫姉は帳面を棚から抜き、布で包んで俺に持たせた。
「マオ、抱えて。棚には戻さない。今日の帳面は箱に入れ直す。縄はあなたが結ぶ。今度は、“雑に”結んだ上にもう一工夫」
「一工夫?」
「見えない印をつける。ほどけば分かる印。……でも、それは後で。今は痕を拾う」
言われるまま、俺は帳面を抱えた。紙の重みが、いつもより重く感じられる。帳面が“薄くなる”というのは、紙が減ることではない。信頼が失われることだ。そして信頼が失われれば、療養膳の支給は止まる。止まれば、里樹妃のように回復が必要な人の食が再び揺らぐ。鍋の外で人が倒れる。そんな“静かな殺し”が、今、紙の上で始まりかけている。
「猫姉。この箱を動かせる人間って、限られてますよね」
「限られる。でも、“鍵”じゃない。ここは鍵じゃ守れない。守れるのは、癖と痕。結び目、擦れ跡、油の匂い。そして、置き場を戻せるのは、権限じゃなく“慣れ”。ここを台所と思っていない人間は、箱の位置なんて気にしない」
「慣れてる人間……」
「そう。炊場に入っても不自然じゃない人。帳面の流れを知っている人。箱を勝手に動かしても、怒られないと思ってる人」
猫姉の言葉は断定ではない。けれど、指し示す先は見えている。犯人は、紙のことだけを知っているのではない。炊場の呼吸を知っている。だからこそ厄介だ。料理の現場が、毒の装置に変えられてしまう。
俺は棚の前にしゃがみ、床の擦れ跡を指で触れずに目で追った。跡の終点が、右へ跳ねている。帳面が戻された棚の位置は、湯気が最も当たる場所より、わずかに内側。湯気の流れを知っている者の置き方だ。偶然ではない。
「……次は、追わせない」
俺が低く言うと、猫姉が肩をすくめた。
「追わせるんだよ。追わせて、痕を増やす。捕まえるより先に、逃げられない形にする。後宮は、逃げ道を残すと、そこから腐る」
猫姉は箱を元の位置に戻し、布を敷き直した。俺は帳面を収め、縄を結ぶ。昨日と同じ“雑さ”で。結び目の癖を、自分の指に覚えさせる。次に解いた人間の癖が、確実にズレとして現れるように。
炊場に火が入る。湯気が立ち、香りが漂い、いつもどおりの朝が始まる。だが、俺の目には湯気の向こうに別の熱が見えた。誰かが、紙で火を点けようとしている熱だ。
猫姉が小さく呟く。
「“一件落着”の顔してる人が多いほど、こういうのは効く。……性格悪いよね」
「後宮が、ですか」
「人が、だよ」
そう言って猫姉は、何事もなかったかのように炊場の喧騒へと消えた。俺は箱の結び目を一度だけ確認してから、包丁を握り直す。料理で人を助けるために。紙で潰されないために。