薬屋と料理人は幼馴染み   作:ボルメテウスさん

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帳簿の墨が消える 五

 箱を乾いた壁際に据えてから、炊場の空気は少しだけ落ち着いた。湯気が帳面にまとわりつかないだけで、紙が道具に戻る気がしたからだ。けれど後宮は、道具が道具のままでいるのを嫌うらしい。翌朝、俺が炊場に入って最初に見たのは、棚の端に鎮座している帳面の背だった。昨日まで箱の中にいたはずのそれが、「ここが本来の席だ」とでも言う顔で、蒸籠の湯気が流れる位置に戻されている。

 

「……追ってきた、ですね」

 

「うん。置き場を追う。いい傾向」

 

 猫姉は欠伸を噛み殺しながら、帳面の背に鼻先を寄せた。ほんの一瞬だけ吸って、すぐに離す。その仕草が妙に確信めいている。

 

「油、濃い。胡麻油じゃない。甘い。髪の油」

 

「整髪油の匂いに近い、ってことですか」

 

「近い。断言はしない。断言すると、外した時に面倒」

 

 猫姉はそう言って、俺の手元を顎で指した。箱の縄だ。結び目は昨日と似ているが、ねじれ方が違う。縄の繊維が一度だけ逆を向いている。俺が結ぶときの癖が消えている。

 

「開けられて、結び直されてる。わざと“綺麗に”」

 

「綺麗に、が怪しいんですね」

 

「うん。綺麗は嘘の化粧。炊場は汚れて正直」

 

 帳面がこのまま棚に居座れば、湯気と香りと油が揃う。紙はまた薄くなり、記録は乱れ、療養膳口は「不備」と呼ばれる。料理の失敗じゃなく、紙の失敗で止められる。それが一番腹立たしい。俺が拳を握りかけたところで、猫姉が先に釘を刺した。

 

「怒るな。怒ると音が出る。音が出ると、犯人が眠る」

 

「……じゃあ、どうします」

 

「印をつける。見えない印。ほどいたら崩れる印。触ったら残る印」

 

 猫姉は袖から小さな紙包みを出した。中身は粉だ。白いのに、炊場の光だとほとんど見えないほど細かい。

 

「これ、何です?」

 

「粉薬の残り。匂いは弱い。手に付くと、布に残る。水で落ちにくい。料理人の粉じゃないから、炊場のせいにもできない」

 

「……猫姉、薬屋って便利ですね」

 

「便利じゃない。面倒を溜めてるだけ」

 

 俺は箱の縄を結び直した。昨日と同じ、俺の雑な癖で。締めすぎず、端の長さもいつも通りに揃えない。猫姉は縄の節の裏側、誰も気づかない位置に粉をほんの少しだけ擦り込んだ。紙束の端にも、爪でわずかな折り癖を入れる。目で見えない。けれど“昨日と同じかどうか”は分かる。料理で言えば、塩をひとつまみ変えた時の舌の差だ。

 

「次は、捕まえるんですか?」

 

「捕まえるより、回収。捕まえると暴れる。暴れると、黒い糸が切れる」

 

「黒い糸……」

 

「指示。紙。名義。癖。全部、糸。一本切れたら、残りを束ねる」

 

 猫姉の言葉に、俺は頷いた。捕まえるより前に、逃げ道を塞ぐ。後宮の戦い方は、料理の勝負と少し似ている。火を強くするより、逃げる熱を塞ぐほうが効く時がある。

 

 夜明け前、炊場の火が入る前の時間に、俺たちは張った。俺は菜を洗うふりで水場に立ち、猫姉は桶の影、視線だけが動く場所に身を置いた。湯気はまだ薄い。香りも立っていない。だからこそ、足音と布擦れがよく聞こえる。

 

「来た」

 

 猫姉が声にならない声で言った。炊場の入口から、女がひとり滑り込む。手つきが静かで、足が迷わない。帳面の箱の前で膝をつき、縄をほどく。ほどき方が、料理人の乱暴さじゃない。糸を傷めないように、順番を守って解いていく。職人の手だ。蓋を開け、帳面を確認し、すぐに閉じる。結び直す手も速い。結び目が整いすぎて、逆に“誰が結んだか”が透ける。

 

 猫姉は止めなかった。俺も動かなかった。ここで捕まえても、指示役は逃げる。女は縄を結び終えると、箱の位置をほんの少し直し、何事もなかったように去った。

 

「今の……針子、ですよね」

 

「たぶん。結びが“針”」

 

「針?」

 

「布の人は、結び目を縫うみたいに作る」

 

 猫姉は淡々と言って、結び目を目で追う。粉の位置が、わずかに崩れている。折り癖も微妙にずれている。触られた。確定だ。けれど、触ったのは“指示役”じゃない。道具を使われた手だ。

 

 数刻もしないうちに、今度は男が入ってきた。躊躇なく棚へ向かい、帳面の置き場を確かめる。棚の端、湯気が当たりやすい位置。そこが「正しい」とでも言うように、箱ではなく棚を見て頷く。その動きが、腹の底に嫌な確信を落とした。こいつは流れを知っている。炊場の人間ではないのに、炊場の呼吸を知っている。

 

 男が箱に手を伸ばした瞬間、猫姉がすっと前へ出た。声は低いのに、氷みたいに通る。

 

「その帳面、置いて」

 

 男が肩を跳ねさせる。逃げようとする足を、俺が水桶を持ち上げるふりで塞いだ。取り押さえない。ただ、動線を消す。後宮では、派手な力は目立つ。目立てば負ける。

 

「何だ、お前ら……」

 

「声、出さないで。面倒増えるから」

 

 猫姉が男の袖口を見た。俺も見た。白い粉が、布目にうっすらと噛んでいる。炊場の粉ならもっと匂いが立つはずなのに、匂いが弱い。粉薬の残り。俺たちが仕込んだ印だ。

 

「……触ったね」

 

「知らん。俺はただ——」

 

「ただ、帳面を棚に戻す。そう指示された。違う?」

 

 男の喉が鳴った。猫姉は責めない。ただ、事実だけを並べる。その並べ方が怖い。

 

「懐、出して」

 

「ふざけるな」

 

「ふざけてない。あなたがふざけてる」

 

 猫姉の言葉が落ちた瞬間、男の手が懐へ動いた。反射だ。隠すべきものがある手の動き。猫姉はその動きを見逃さず、俺の視線で男の指先を追わせた。男が取り出したのは、小さな紙片だった。短い符丁。文字は少ない。けれど、紙質が“ただの切れ端”じゃない。繊維が詰まって、表面が妙に滑る。

 

「これ、どこで受け取った」

 

「……知らねえ。渡された。言われた通りにしただけだ」

 

「言ったのは誰」

 

「知らねえって言ってるだろ!」

 

 男が声を荒げた瞬間、俺は思った。今ここで暴れさせたら終わる。猫姉も同じことを思ったのだろう。猫姉は一歩引いて、男に逃げ道を“あるように見せた”。逃げ道を見せると、人は口を滑らせる。

 

「知らないなら、名義だけでも。帳面を動かせって言う人は、帳面を“自分のもの”だと思ってる」

 

 男の目が泳いだ。そこに、答えが浮かぶ。

 

「……膳組の……」

 

「膳組の誰」

 

 男は口を噤んだ。ここで全部は出ない。出せない。後宮の末端は、喋ると喉が裂けるのを知っている。

 

「いい。今日はここまで。帳面は置いて、帰りな」

 

 猫姉はあっさり言った。男が驚いた顔をする。俺も内心驚いた。けれど猫姉の狙いは捕獲じゃない。回収だ。男が去る足音が消えた後、猫姉は紙片を布で包み、俺に視線を寄こした。

 

「次は供給口。紙はどこから来たか」

 

 俺たちは文具係のところへ向かった。朝の忙しさが始まる前で、文具の棚は静かだった。紙束が整然と並び、紐が束ねられ、墨壺が暗い光を吸っている。文具係は俺たちを見るなり、作り笑いを浮かべた。

 

「何か御入り用で?」

 

 猫姉は挨拶を省いて、紙片を台の上に置いた。

 

「この紙。どこ」

 

「ただの紙でしょう。後宮には紙などいくらでも——」

 

「いくらでも、じゃない。これは加工紙。滑る。匂いが薄い。虫が寄らない処理。控え用紙に混ざってた系統」

 

 猫姉が淡々と言い切ると、文具係の笑いが固まった。俺は横から補足する。料理人の言葉で。

 

「包み紙と違います。蒸す時に使う紙は、もっと水を吸います。これは弾く。わざと弾く紙です」

 

 文具係の視線が、紙片から俺の手へ移った。俺は帳面を抱えたまま、結び目の癖が見える位置に持っている。猫姉が追い打ちをかける。

 

「払い出し帳、見せて。膳組名義で増えてるはず」

 

「そんなもの、勝手には——」

 

「勝手に混ぜたのは誰」

 

 文具係の喉が鳴った。猫姉の言い方は荒くない。むしろ静かだ。だからこそ逃げ場がない。しばらくして、文具係は渋々、帳面を引き出した。頁を繰る指先が焦っている。焦る指は、正直だ。

 

「……膳組名義で、追加。確かに、ありますね」

 

「誰が取りに来た」

 

「……若い方が。膳組の補佐の——」

 

 文具係はそこで言葉を噛んだ。名前を出した瞬間、後ろ盾を失う顔だ。猫姉は名前を無理に引きずり出さなかった。代わりに、事実だけを固める。

 

「追加分、何束」

 

「二束……いや、三束」

 

「用途は聞いた?」

 

「帳面が増えたから必要だと……監修の、控えが……」

 

「便利な言い訳」

 

 猫姉が鼻で笑う。俺は腹が煮えたが、声は出さない。今必要なのは怒りじゃない。綱を締めることだ。

 

「その紙、まだ残ってますか」

 

 俺が聞くと、文具係は目を伏せた。

 

「……端材が。捨てるに捨てられず……」

 

 文具係が棚の奥から取り出した端材は、指に吸いつかない、あの妙な滑りの紙だった。猫姉が小瓶を取り出し、端材と指示紙片を一緒に入れる。蓋を閉める音が乾いて鳴った。炊場の湯気より、よほど冷たい音だ。

 

「これで、紙は繋がった。動線も繋がった。結び直しは針子。指示の名義は膳組。供給は文具」

 

「針子は……犯人じゃない?」

 

「針子は“道具”。怒るなら、道具を持つ手に怒れ」

 

 猫姉はそう言って、瓶を袖に隠した。俺は帳面を抱え直し、箱の結び目を思い出す。結び目は嘘をつかない。床の擦れも嘘をつかない。匂いも、紙の滑りも嘘をつかない。嘘をつくのは人だけだ。だから、俺たちは人を責める前に、嘘をつかないものを集める。

 

「猫姉。これ、次はどうします」

 

「逃げ道を塞ぐ。膳組の若い補佐は、まだ“言い逃れ”ができる。だから言い逃れできない形にする。帳面の結び目、紙の端材、払い出しの記録。全部、同じ袋に入れて、同じ順で並べる」

 

「料理の下拵えみたいですね」

 

「下拵え。うん。事件って、下拵えで味が決まる」

 

 猫姉は面倒そうに言って、でも目だけは楽しそうに細くなった。俺はその横顔を見て、妙に安心してしまった。薬屋が“面倒”と言うときは、たいてい勝ち筋が見えている。問題は、その勝ち筋が誰の喉元に届くかだ。

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