薬屋と料理人は幼馴染み   作:ボルメテウスさん

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帳簿の墨が消える 六

 文具係の棚の奥から出てきた端材の紙は、指先に吸いつかない妙な滑りをしていた。炊場で使う包み紙みたいに、湿気を吸ってくれる気配がない。猫姉はそれを小瓶に封じ、蓋を閉める音だけを乾かして残した。あれで「紙がどこから来たか」は繋がった。けれど俺の胸の奥には、まだ骨の引っかかりみたいなものが残っていた。紙は“道具”だ。道具が出てくるなら、それを動かす手がいる。

 

「次は、誰が結び直したか……ですか?」

 

 俺が小声で言うと、猫姉は歩きながら肩をすくめた。

 

「結び直した手は、もう見えてる。問題は、その手が“誰のために”動いたか」

 

「針子が、誰かに頼まれた」

 

「頼まれた、命じられた、脅された。どれでもいい。大事なのは命令の糸」

 

 猫姉は“糸”と言いながら、袖の中の小瓶を指で軽く叩いた。紙片の匂い、縄の結び目、床の擦れ跡。全部が別々の素材なのに、一本の線として繋がり始めているのが分かる。

 

「針子のところに行く」

 

「責めるんですか?」

 

「責めない。責めると固くなる。固くなると折れる。折れると証拠が散る」

 

 猫姉の言い方はいつも通り淡々としているのに、炊場で鍋を扱う時と同じ慎重さがあった。俺は頷き、炊場の空気を背中に残したまま針仕事場へ向かった。

 

 針仕事場は炊場と真逆だった。湯気も香りも薄く、代わりに布の匂いがする。乾いた絹の光、麻のざらつき、糸が擦れる微かな音。そこだけ時間の流れが違うみたいだった。入口の前で、猫姉が俺の腕を軽く引いた。

 

「声は抑える。ここは耳が多い」

 

「はい」

 

 中に入ると、ひとりの女が作業台の前に座っていた。指先が細く、爪が短い。布を押さえる手が迷わない。これが、昨日の結び目を“綺麗に”作った手かもしれない――そう思うと、俺の喉が勝手に熱くなる。猫姉は礼を言うような様子もなく、いきなり本題に入った。

 

「昨日、炊場の帳面箱。縄を結び直した?」

 

 女の手が一瞬だけ止まった。止まった後、針が進む。止めなかったのは、動揺を隠す癖だ。

 

「……何の話です」

 

「結び目。綺麗すぎた。炊場の人間の結びじゃない」

 

 猫姉は懐から布包みを出し、台の端に置いた。中には、俺が結んだ“雑な癖”の結び目を写した縄の切れ端と、昨夜の“整った結び”の形を写し取った紐の印がある。猫姉が作ったものだ。薬屋はこういう時、手が早い。

 

「こっちは料理人の結び。雑で、端が揃わない。こっちは職人の結び。締め方が均一。ねじれが揃う。あなたの手」

 

 女の目が布包みに落ちる。否定の言葉が喉まで出ているのに、出てこない。その沈黙が、答えだった。

 

「証拠なんて……」

 

「証拠は、あなたじゃない。結び目。結び目は嘘つかない」

 

 猫姉は女を責めないまま、逃げ道だけを塞いだ。俺は横で息を整えた。ここで熱くなると、相手が固まる。猫姉のやり方は、鍋の火を強くしない。蓋をして、逃げる蒸気を減らす。

 

「……頼まれただけだよ」

 

 女がぽつりと言った。針が進まない。指が膝の上で固くなる。

 

「頼まれた。誰に」

 

「言えない」

 

「言わなくていい。名前はいらない。私は“命令があった形”が欲しいだけ」

 

 猫姉の声が少し柔らかくなった。柔らかいのに温かくはない。冷たい優しさ、みたいなものだ。

 

「あなたの名前は前に出さない。前に出るのは物だけ。結び目、糸屑、帳面、紙。人の口は折れるけど、物は折れにくい」

 

 女は猫姉をじっと見た。俺も見た。彼女の目は怖がっている。でも、それだけじゃない。助けが欲しい目だ。

 

「……脅されたわけじゃない。借りがある」

 

「借りは、膳組?」

 

 猫姉がさらっと言うと、女の肩がわずかに跳ねた。猫姉は深追いしない。

 

「いい。呼び名だけで十分。膳組の誰かが“流れ”を守りたい。だから帳面を棚に戻したい。そのためにあなたの手を使った」

 

 女は唇を噛み、やっと頷いた。

 

「膳組の……若い補佐。言葉は丁寧だけど、目が笑わない人」

 

 胸の奥の骨が、少しだけ動いた。俺は思わず口を挟む。

 

「でも、結び直しだけじゃ……その人が触った証拠には」

 

「だから来た」

 

 猫姉が俺の言葉を遮るように言った。

 

「あなた、仕事帳ある? いつ、誰の布を直したか。端切れや余り糸、残してるでしょ」

 

 女が嫌そうに眉を寄せる。

 

「そこまで……」

 

「そこまで。帳面の縄を結んだ手は、あなた。じゃあ、あなたを動かした手に繋がる物が必要。口じゃなくて、物」

 

 女はしばらく抵抗した。けれど猫姉の目が一度も逸れない。結局、女は棚の奥から薄い帳面を引っ張り出した。針仕事の控えだ。布の種類、直した箇所、糸の色。細かい字が並ぶ。

 

 猫姉は頁を繰る指の動きが速い。薬屋は薬の帳面もこうやって読むのだろう。数頁めくって、猫姉の指が止まった。

 

「……袖口の補修。薄藍の絹糸。膳組の補佐。昨日」

 

 女が顔を伏せた。

 

「その糸、残ってる?」

 

「余りは……ある」

 

「出して」

 

 女が小箱から糸巻きを出した。薄藍――というより、青灰に近い、冷たい色の絹糸だ。光を吸って、でも端だけが鋭く光る。猫姉は糸を見て、匂いを嗅いだ。次に、俺のほうを見た。

 

「マオ。箱」

 

「……箱、ですか?」

 

「縁の欠け。そこ、何か引っかかってる気がする。昨日からずっと」

 

 言われて思い出した。箱の蓋の縁に、爪でこすったような小さな欠けがあった。あれは開け方が雑だったからだ。欠けたところは、糸屑が引っかかるには都合がいい。

 

「取ってきます」

 

 俺は針仕事場を飛び出したい気持ちを抑え、足音を殺して炊場へ戻った。炊場はもう湯気が立ち始めている。けれど箱は壁際にある。俺は布巾を指に巻き、箱の蓋の縁、欠けの奥を覗き込んだ。光が足りない。俺は灯りを近づけ、息を止める。

 

 あった。

 

 木のささくれに、髪の毛ほど細い糸が一本、引っかかっている。青灰の光。俺は爪で触らず、竹串の先でそっと浮かせ、布の上に落とした。糸は軽いのに、今はやけに重く感じた。俺はその糸を小さく包み、猫姉のところへ戻った。

 

 針仕事場に戻ると、猫姉は糸巻きを指先で押さえたまま、女と向き合っていた。俺が包みを差し出すと、猫姉はそれを開け、糸を光に透かす。糸巻きの端から少し引き出し、撚りを見比べる。次に匂い。ほんの一瞬だけ吸って、頷いた。

 

「同じ」

 

 たった二文字が、空気を変えた。女が目を見開く。

 

「それ……どこから」

 

「帳面箱の欠け。結び直しの時に、袖が擦れた。糸が引っかかった。袖は昨日直したばかり。糸はあなたが使った糸。つまり――」

 

 猫姉は女ではなく、空中の“見えない相手”に向けて言った。

 

「膳組補佐の袖が、箱に触れてる」

 

 俺の背中に、ぞくりとしたものが走った。これだ。口じゃない。人の証言じゃない。物が繋がるやつだ。猫姉は淡々と続ける。

 

「針子が結んだ。紙は膳組名義で出た。指示紙片が動いた。末端の袖に粉が付いた。で、今度は補佐本人の袖の糸屑が箱に残った。逃げ道、減った」

 

 女が震える声で言った。

 

「……私、どうなる」

 

「どうにもならないようにする。あなたの名前は出さない。出すのは糸と帳面と紙。あなたは“いつもの仕事をした”だけ」

 

 猫姉の言葉に、女の肩から力が少し抜けた。俺はその横顔を見て、猫姉が怖いのか優しいのか分からなくなった。たぶん両方だ。後宮では両方でないと生き残れない。

 

 猫姉は小瓶を取り出し、糸屑を中へ落とした。指示紙片、紙の端材、そして糸屑。蓋を閉め、布で巻き、紐で封をする。紐の結びは、俺の“雑な癖”で。猫姉が小さく言った。

 

「これで“物”は揃った。次は並べるだけ」

 

「……次は、膳組補佐を呼ぶんですか」

 

「呼ぶのは私じゃない。呼ばれた場で言う。順番に。ひとつずつ。逃げ道が消える順番で」

 

 猫姉は瓶を袖に収め、いつもの面倒そうな顔に戻った。けれど目だけが冴えている。俺は炊場の湯気を思い出した。湯気は人を助ける。だが、紙と結び目と匂いで、人を潰すこともできる。そんな手口を、俺は料理人として絶対に許したくない。

 

「猫姉。俺、料理で勝てなかった相手にも、紙で負けたくないです」

 

「うん。負けないように働いて。口じゃなくて手で」

 

 猫姉がそう言って立ち上がった。俺も立ち上がり、針仕事場の乾いた空気を背に、炊場の湯気の中へ戻っていった

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