薬屋と料理人は幼馴染み   作:ボルメテウスさん

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帳簿の墨が消える 七

 呼び出しの札を受け取ったとき、胸の奥が少しだけ冷えた。炊場の湯気や火の熱とは違う、後宮特有の冷たさだ。猫姉は「行くよ」とだけ言って、いつもの面倒そうな顔で歩き出した。俺は帳面箱――いや、もう“箱”ではなく、いくつもの糸で縛り上げた証拠の塊になったそれを、布で包んで抱えた。結び目は俺の癖で、雑に。猫姉の言う通り、嘘をつかないものを前に出すために。

 

 通された部屋は小さく、外の気配が薄い。窓は高く、香は弱く焚かれている。机の向こうに壬氏さまが座り、その後ろ半歩に高順さま。静かすぎて、喉の鳴る音まで聞こえそうだった。対面には膳組の若い補佐――丁寧な身なり、整えた髪、笑っているのに目が笑わない男が、落ち着いた顔で座っている。

 

「急に呼び立てて悪いね」壬氏さまが、柔らかい声で切り出した。「配膳と帳面の運用について、少し確認したい」

 

「承知いたしました」補佐は膝の上で指を組み、こちらを見た。「最近は外部の監修も入り、現場も混乱しております。確認は必要でしょう」

 

 “混乱”と言いながら、混乱させた本人が言うのか、と思ったが、俺は口を閉じた。猫姉がいる。猫姉はこういう相手に、言葉でぶつからない。言葉より細い刃で切る。

 

「猫猫」壬氏さまが呼んだ。「話して」

 

「はいはい」猫姉は、机の上に小さな布包みを置いた。次に小瓶。それから紙片。順番が、料理の盛り付けみたいに綺麗だった。「先に言っておきます。私は、あなたに自白を求めるつもりはありません。ここは裁判所じゃないので。運用の穴を塞ぐための確認です」

 

 補佐が薄く笑った。「では、私が呼ばれた理由は?」

 

「あなたが“運用の中心にいるから”」猫姉は笑わない。「まず一つ目。紙」

 

 猫姉は、文具係の払い出し帳の写しを机に滑らせた。高順さまが手を伸ばし、目を走らせる。補佐も覗き込んだが、顔色は変えない。

 

「膳組名義で、控え用紙が追加で三束」猫姉が淡々と言う。「監修制度が始まって、帳面が増えたから必要だった――そう言い訳できますね」

 

「言い訳ではなく事実です」補佐は即答した。「帳面は増えた。配膳に遅れが出れば主の不興を買う。備えは当然」

 

「当然」猫姉は頷いて、次の布包みを開いた。端材の紙だ。指先で弾くと、乾いた音がした。「この紙は、炊場で普通に使う紙より滑る。湿気を弾く。虫が寄りにくい処理がしてある。控えに混ぜると、湯気と油と香りが揃った場所で……墨が抜けるみたいに薄くなる」

 

 補佐の目が、わずかに細くなった。「紙で墨が抜ける? 戯言でしょう。湿気で滲んだのを、都合よく言っているだけでは」

 

「湿気で滲むなら、濃くなる」猫姉が即座に返した。「薄くなるのは別。昨日、再現しました。炊場の条件を使って」

 

 俺は黙って頷いた。あの紙片が薄くなる瞬間は、今でも舌に苦い。料理を作って人を助ける場で、紙が人を潰す。嫌な手口だ。

 

「二つ目。指示」猫姉は机の上の紙片を置いた。短い符丁が書かれた小さな紙だ。「帳面を棚へ戻せ、箱は戻すな。そういう類の指示があった。これが出てきた」

 

 補佐は肩をすくめた。「誰かが作った偽物かもしれません。膳組を貶めたい者は多い」

 

「偽物なら、その偽物に使う紙をどこから持ってくる?」猫姉は視線を外さない。「この紙片の紙質は、さっきの端材と同じ系統。文具係から膳組名義で出た束と合う。偶然で一致しすぎ」

 

 補佐は笑みを崩さず、机の上の紙片には触れないまま言った。「あなたの推測は興味深い。しかし、それが私にどう繋がるのです?」

 

「三つ目。結び目」猫姉が小瓶に指を置いた。「帳面箱の縄は、ほどかれて結び直されてる。しかも綺麗に。炊場の人間の結びじゃない。職人の手。針子の結び方に近い」

 

 補佐の眉がわずかに動いた。「針子? それこそ膳組とは関係ないでしょう。布の者はどこにでもいる」

 

「どこにでもいる」猫姉は肯定しつつ、言葉の刃先を変えた。「でも、誰に呼ばれたかで意味が変わる。針子は、自分の名前を出されたくない。だから私は名前を出しません。代わりに、あなたの“物”を出す」

 

 猫姉がこちらを見た。合図だ。俺は布で包んだ小瓶を机に置いた。中身は、青灰の絹糸屑と、同じ糸の余り。針仕事場で見比べたとき、同じだと分かったもの。壬氏さまの目が、ほんの少しだけ鋭くなる。

 

「四つ目。糸」猫姉が言う。「帳面箱の蓋の欠けに引っかかっていた糸屑。これ」

 

 俺は息を整え、口を開いた。「俺が炊場で回収しました。箱の縁、ここです。欠けたところに引っかかってた。手袋代わりに布を巻いて、竹串で取った。触ってません」

 

 補佐が初めて、ほんのわずかに顔を強張らせた。すぐに整えたが、間に合わなかった。猫姉はその一瞬を見逃さない。

 

「この糸は、針子の仕事帳に記録がある。昨日、あなたの袖口の補修に使った薄藍の絹糸」猫姉は修繕控えの写しを机に置く。「袖口の修繕は、あなたがここにいる証拠にはならない。でも、この糸が“帳面箱”から出てくる理由にはなる」

 

 補佐が息を吐いた。「……それが、どうして私が箱を開けた証拠になる? 針子が箱を扱ったなら、針子の袖が擦れた可能性もある」

 

「針子の袖から、あなたの糸は出ない」猫姉は淡々と言った。「糸は針子の手元に残る。でも箱に残ったのは“あなたの袖の糸”です。針子が結び直したなら、残るのは針子の糸屑や布屑の方が自然。あなたの糸が残るのは、あなたが箱に近づいたから」

 

 補佐は口を開きかけて、閉じた。言い訳の形が見つからない顔だった。壬氏さまが、そこで初めて声を落とした。

 

「補佐。君が“中心にいる”と言ったね。中心にいる者は、紙も人も動かせる」壬氏さまの笑みは薄い。「なぜ、帳面を薄くする必要があった?」

 

 補佐はしばらく沈黙し、それから整えた声で答えた。「必要などありません。私は配膳の流れを守っただけです。帳面が棚に戻るのは自然でしょう」

 

「自然じゃない」俺は思わず言いそうになって、猫姉に袖を軽く引かれた。代わりに猫姉が言う。

 

「棚は、湯気と香りと油が揃う。そこに置けば薄くなる。箱は、それを避けるために作った。箱に入れて運用が落ち着いたのに、誰かが棚へ戻した。戻したのは、運用を“守る人”じゃない。運用を“壊す人”」

 

 補佐の目が猫姉を刺した。「ただの薬屋が、配膳を語るな」

 

「ただの薬屋なので」猫姉は肩をすくめた。「配膳の体面とか知りません。知ってるのは、薄くなった帳面がどれだけ面倒を生むか。療養膳口が止まれば、回復が必要な人の食が揺らぐ。あなたが守ったのは流れじゃない。自分の采配」

 

 部屋の温度が下がった気がした。補佐の口元の笑みが、ようやく崩れた。

 

「外から来た者に現場を弄られるのが、そんなに気に入らないか?」壬氏さまが静かに言った。「監修制度を“帳面不備”で潰せば、元の権限は膳組に戻る。そういう計算は、君の得意分野だろう」

 

 補佐は一瞬だけ唇を噛み、次に肩を落とした。完全な自白ではない。けれど、崩れ方が“否定できない者”のそれだった。

 

「……私は、配膳を守りたいだけです」補佐が低く言う。「療養膳など、上物を使う価値はない。帳面だって、余計な仕事だ。現場は疲弊する」

 

「現場は疲弊する」猫姉が同じ言葉を繰り返した。「だから、紙で現場を刺した?」

 

 補佐は返さない。返せない。壬氏さまが高順さまへ視線を送る。高順さまが一礼し、静かに立った。

 

「補佐殿、膳組の職務から一時外れていただきます。必要な確認が終わるまで、別室へ」

 

 補佐は反論しようとしたが、壬氏さまの一言が止めた。

 

「君の仕事は“流れ”を守ることだったはずだ。なら、今は私の流れに従って」

 

 それで終わった。派手な罵倒も、乱暴な拘束もない。けれど俺は、鍋に蓋をした瞬間のような確かな感触を覚えた。逃げる蒸気が塞がれた。後は、火を落とすだけだ。

 

 補佐が連れて行かれた後、部屋に残ったのは俺と猫姉と、壬氏さまと高順さまだけだった。壬氏さまは机の上の小瓶に目を落とし、少しだけ眉を上げる。

 

「糸屑で来るとは思わなかったよ。猫猫、よく拾ったね」

 

「拾ったのはマオです」猫姉はあっさり言った。「私は面倒を並べただけ」

 

 俺は思わず背筋を伸ばした。壬氏さまの視線がこちらに向く。

 

「君は炊場の人間だ。現場の“違和感”を拾える」壬氏さまが言った。「今回、療養膳口が止まらずに済んだのは大きい。……ただ、君も分かるだろう。後宮での一勝は、次の火種を呼ぶ」

 

「はい」俺は正直に答えた。「でも、守りたい味があります。守りたい帳面があります」

 

 猫姉が小さく鼻で笑った。「帳面を守りたい料理人って、珍しい」

 

「猫姉が守らせるからです」

 

「面倒」

 

 猫姉は面倒そうに言って、でもどこか機嫌が良さそうだった。俺はその横顔を見て、胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じた。終わったわけじゃない。けれど、崩せる壁は崩した。次は、匂いの偽装――香の方へ伸びる不穏の糸が残っている。猫姉も気づいているはずだ。だからこそ、今日の解答編は“終わり”じゃなく、“整える”ための一手だった。

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