薬屋と料理人は幼馴染み   作:ボルメテウスさん

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宮廷毒膳事件録 四

 回廊の影で、俺は献立の内容を頭の中でもう一度なぞっていた。

 

 白粥。

 澄んだ鶏湯。

 蒸した卵と、柔らかい豆腐。

 

 派手さはない。

 だが、今の体には、これ以上ない。

 

「……この献立」

 

 俺が口を開くと、猫姉はすぐに頷いた。

 

「通す」

 

 迷いのない返事だった。

 

「本当に?」

 

「うん」

 

 短く、きっぱり。

 

 後宮だ。

 献立一つ変えるだけでも、

 誰かの顔色を窺う必要がある。

 

 それを、猫姉は当然のように引き受ける。

 

「理由、聞かないの?」

 

 半分冗談で言ったつもりだった。

 

 猫姉は、少しだけ目を細める。

 

「聞かれても、

 全部は話さない」

 

 それだけ言って、踵を返した。

 

 俺は、一瞬だけ言葉に詰まる。

 

 ──ああ。

 

 この人は、

 自分が面倒を引き受ける時の顔をしている。

 

「……無理はするなよ」

 

 それだけは、言っておきたかった。

 

 猫姉は、振り返らなかった。

 

「大丈夫」

 

 背中越しに、短く返される。

 

「こういうのは、

 慣れてる」

 

 その言葉が、

 なぜか少し、引っかかった。

 

 でも、深く追及はしない。

 

 俺がやるべきことは、別にある。

 

 ──料理だ。

 

 猫姉が、誰に会いに行くのか。

 どうやって通すのか。

 そこに、どんな駆け引きがあるのか。

 

 考えれば、気が散る。

 

 それに。

 

 もし、その相手が、

 俺にとって厄介な存在なら──

 知らない方がいい。

 

 猫姉は、

 そう判断したんだろう。

 

 だったら、

 信じるだけだ。

 

 俺は、静かに息を整え、厨房へ向かう。

 

 回廊を抜けると、

 いつもの匂いが鼻を打った。

 

 湯の匂い。

 米の匂い。

 火の気配。

 

 料理は、裏切らない。

 

 正しく向き合えば、

 必ず答えを返してくれる。

 

 包丁を手に取る前に、

 ふと、猫姉の言葉を思い出す。

 

 ──通す。

 

 その一言に、

 どれだけのものを背負っているのか。

 

 俺には、全部は分からない。

 

 だからこそ。

 

 俺は、

 自分にできることを、

 完璧にやる。

 

 回復する料理を、

 誰にも文句を言わせない形で。

 

 猫姉が外で戦っているなら、

 俺はここで、

 火と向き合うだけだ。

 

 そう決めて、

 俺は袖をまくった。

 

 厨房に入った瞬間、俺は足を止めた。

 

 ──いる。

 

 食材庫の奥。

 布をかけられ、静かに置かれた籠。

 

 その気配だけで、分かる。

 

「……烏骨鶏か」

 

 思わず、声が漏れた。

 

 布をそっとめくると、

 黒みがかった羽と、独特の皮膚の色が目に入る。

 

 間違いない。

 

 烏骨鶏。

 

 滋養を重んじる後宮だからこそ、

 常備はされている。

 だが──

 

「使われてない」

 

 籠は清潔だが、

 手をつけられた形跡がない。

 

 理由は、分かる。

 

 扱いが難しい。

 火を強めれば、すぐに味が濁る。

 急げば、滋養が逃げる。

 

 ──時間がかかる料理だ。

 

 俺は、しばらく烏骨鶏を見つめた。

 

 猫姉の顔が、脳裏をよぎる。

 

 “通す”と言った時の、あの声。

 

「……なるほど」

 

 小さく、息を吐く。

 

 これは、

 “安全”じゃなく、

 “回復させる”料理を作れという合図だ。

 

 烏骨鶏なら、できる。

 

 余計なことをしなくても、

 素材が答えを出してくれる。

 

 俺は、静かに袖をまくった。

 

「よし」

 

 鍋を選ぶ。

 厚手で、熱を溜めすぎないもの。

 

 水は、冷たいまま。

 火は、最初から弱く。

 

 ──焦らない。

 

 この料理は、

 待つことそのものが、調理だ。

 

 包丁を取る手が、自然と落ち着く。

 

 ここから先は、

 技でも、駆け引きでもない。

 

 ただ、

 正しい時間を、

 正しい火で、

 正しい相手のために使う。

 

 猫姉が外で道を開いているなら、

 俺はここで、

 回復の道を作る。

 

 烏骨鶏は、

 そのために用意された食材だ。

 俺は、気づいていなかった。

 

 周囲に、人が集まっていることに。

 

 烏骨鶏の湯は、まだ完成していない。

 火は弱く、だが確実に、命の温度を保っている。

 

 灰汁を掬う。

 湯を濁らせない。

 ただ、それだけに集中していた。

 

「……おい」

 

 誰かの声がした。

 

 だが、耳に入らない。

 

 鍋の中では、烏骨鶏の滋養が、静かに、しかし確実に溶け出している。

 急げば壊れる。

 焦れば、逃げる。

 

 ──待つ。

 

 それが、この料理のすべてだ。

 

「なんだ、あれ……」

 

「火が……弱すぎるんじゃないか?」

 

「いや、違う……見ろ、湯の色を……!」

 

 ざわつく声が、次第に大きくなる。

 

 そこで初めて、俺は顔を上げた。

 

「……え?」

 

 視界に入ったのは、

 思っていたよりも多い人影だった。

 

 下拵えの料理人。

 配膳係。

 そして──料理長。

 

「……い、いつの間に……」

 

 正直な声が、漏れた。

 

 料理長は、腕を組み、鍋を見下ろしている。

 その目は、厳しい。

 だが、否定ではない。

 

「外部から来た料理人」

 

 低く、通る声。

 

「お前は、何者だ」

 

 厨房が、静まった。

 

「そして──

 その鍋で、何をするつもりだ」

 

 視線が、すべて俺に集まる。

 

 俺は、包丁を置き、

 ゆっくりと料理長を見た。

 

 言い訳は、しない。

 飾りもしない。

 

「これは──」

 

 自然と、声が出た。

 

「人を、助けるための料理です」

 

 一瞬の沈黙。

 

「……料理で、人を助ける?」

 

 疑問の声が上がる。

 

「大げさだろ」

「薬じゃあるまいし」

「そんなもので、何が変わる」

 

 もっともな反応だ。

 

 だが、俺は目を逸らさなかった。

 

「薬は、治す」

 

 一歩、前に出る。

 

「でも、立て直すのは、食事だ」

 

 自分でも驚くほど、

 言葉に迷いはなかった。

 

「今の体には、

 強い味も、重い脂もいらない」

 

 鍋に視線を落とす。

 

「必要なのは、ゆっくり入って、確実に残るもの」

 

 誰かが、息を呑む。

 

「これは、

 そのための一椀です」

 

 料理長は、何も言わず、俺の目を見ていた。

 

 ──見られている。

 

 腕前じゃない。

 立場でもない。

 

 覚悟を。

 

 数秒。

 いや、もっと長かったかもしれない。

 

 やがて、料理長が口を開いた。

 

「……その目だ」

 

「え?」

 

「その目で言うなら、嘘じゃない」

 

 ざわめきが、広がる。

 

「料理長……?」

「本当に、任せるんですか?」

 

 料理長は、視線を外さずに言った。

 

「料理はな、

 理屈だけで作るものじゃない」

 

 そして、静かに続ける。

 

「誰のために、何のために作るか──

 それが、味になる」

 

 俺の方を、真っ直ぐに見て。

 

「続きをやれ」

 

 その一言で、

 すべてが決まった。

 

 俺は、深く一礼し、再び鍋に向き直る。

 

 余計な言葉は、いらない。

 

 ここから先は、火と、水と、時間の話だ。

 

 周囲の視線を背中に感じながら、俺は、再び集中する。

 

 この一椀は、見せるための料理じゃない。

 

 救うための料理だ。

 

 その想いだけを、

 鍋に預けて。

 椀が、静かに持ち上げられた。

 

 烏骨鶏の清湯。

 濁りのない、淡く光を含んだ湯。

 

 配膳係の手が、わずかに震えている。

 理由は、分かる。

 

 これは――

 いつもの料理じゃない。

 

 主賓の前に、そっと置かれる。

 

「……これは?」

 

 かすれた声だった。

 

 香りは、ほとんど立たない。

 だが、湯気の奥に、確かな温もりがある。

 

「滋養の湯でございます」

 

 それだけ告げて、下がる。

 

 主賓は、しばらく椀を見つめていた。

 疑いでも、期待でもない。

 

 ただ、体が欲しているかどうかを、

 本能で量っている。

 

 やがて、匙を取る。

 

 一口。

 

 ――その瞬間。

 

 主賓の目が、見開かれた。

 

「……っ!」

 

 音は、小さい。

 だが、確かに“何か”が起きた。

 

 湯が、喉を通る。

 胃に落ちる。

 そして――

 

 広がった。

 

 まるで、冷え切った体の奥に、

 ゆっくりと火が灯るように。

 

 視界が、変わる。

 

 白く霞んでいた世界に、

 色が戻ってくる。

 

 重かった肩が、

 ふっと軽くなる。

 

「……体が……」

 

 主賓は、思わず胸に手を当てた。

 

 次の瞬間――

 

 脳裏に、情景が走る。

 

 澄んだ山の湧き水。

 ゆっくり流れる雲。

 朝日を浴びる大地。

 

 それらが、

 体の中を巡っていく。

 

 滋養が、

 血となり、

 力となり、

 芯へ戻っていく。

 

「……ああ……」

 

 主賓の息が、深くなる。

 

 さっきまでの浅い呼吸とは、違う。

 肺の奥まで、空気が入っている。

 

 周囲が、ざわめく。

 

「顔色が……」

「息が……整っている……」

「まさか……」

 

 主賓は、もう一口、湯を含んだ。

 

 今度は、ゆっくりと。

 

 ――確信したのだ。

 

 これは、

 体を刺激する料理ではない。

 

 体を、取り戻す料理だ。

 

 主賓の背筋が、すっと伸びる。

 

 目に、光が宿る。

 

「……料理で、

 ここまで変わるものか」

 

 その声には、

 もう、弱さはなかった。

 

 医官が、慌てて脈を取る。

 

「……安定しています」

「先程より、明らかに……」

 

 言葉を、失う。

 

 主賓は、静かに椀を置いた。

 

 そして、

 はっきりと言った。

 

「もう一椀、もらおう」

 

 その一言で、

 周囲の空気が、完全に変わった。

 

 疑念が、驚愕に変わる。

 警戒が、静かな敬意に変わる。

 

 誰も、声を荒げない。

 

 ただ、理解した。

 

 ――回復している。

 

 目立たず、

 騒がず、

 だが、確実に。

 

 その頃、厨房の奥で、

 俺は静かに火を落としていた。

 

 湯の色を見て、

 それだけで分かる。

 

 ――届いた。

 

 料理は、

 正しく作れば、

 正しく働く。

 

 それを、

 今、証明できた。

 

 誰かが救われるなら、

 名前も、評価も、いらない。

 

 ただ、

 次の一椀を、

 同じ温度で、

 同じ気持ちで作るだけだ。

 

 火は、まだ消さない。

 

 回復は、

 一度きりじゃない。

 

 ゆっくりと、

 確実に。

 

 ――料理で、

 人は、立ち上がれる。

 

 その事実が、

 後宮の夜に、

 静かに刻まれていた。

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