帳面箱の縄を結んだ指が、まだ微かに痺れている。火傷じゃない。後宮の冷たさが、手の内に染みたみたいな痺れだ。膳組の補佐が連れて行かれた翌日から、炊場は少しだけ静かになった。静かになった分、誰もが気づく。あれが“終わり”じゃなく、“隙間が塞がっただけ”だってことに。紙の滑りも、糸屑も、結び目も、片付いたように見えて、空気の底に甘い匂いだけが残っていた。帳面を薄くした仕掛けの背後に、もう一つの手口――匂いで輪郭を崩すやり方が潜んでいる。
猫姉は事件が片付いた直後から、妙に口数が減っていた。いつも面倒そうなのに、さらに面倒が増えた顔で、炊場の隅や廊下の曲がり角で時々立ち止まり、鼻先をほんの少しだけ動かす。香を焚く部屋の近くで、わざと遠回りする癖も出た。俺は料理の匂いには敏い方だが、あの甘さは料理の甘さじゃない。砂糖や蜜の匂いとは別の、油を芯にして長く残る甘さだった。
「猫姉、あれ……まだ気にしてるんですか」
俺が小声で言うと、猫姉は視線も動かさずに答えた。
「気にしてるんじゃない。残ってるだけ。気にしなくても鼻に入る」
「後宮の香って、そういうものじゃ……」
「後宮の香は、見せるための香。これは隠すための匂い」
その言い方が、妙に刺さった。隠すための匂い。味で言えば、濃さで舌を疲れさせて判断力を鈍らせる、あのやり口に似ている。俺が口を開こうとした時、廊下の向こうから足音が来た。高順さまだ。いつも通り落ち着いているのに、歩幅がわずかに急いでいる。
「猫猫、マオ。少し来てくれ」
呼ばれた場所は、先日の会合ほど張り詰めてはいないが、空気が軽いわけでもない部屋だった。壬氏さまは机に肘をつかず、姿勢を正して座っている。机の上には小さな布包みがひとつ。薬種の包み方に見えるが、猫姉の目が一瞬で細くなった。匂いが、そこから漏れている。
「猫猫。帳面の件は片付いた。だが、君が言った“匂いで隠す”の方が気になっている」
「気になるなら、焚くのやめればいいじゃないですか」猫姉は平然と言った。「……そう簡単じゃないのは知ってますけど」
壬氏さまが苦笑する。その苦笑いが、どこか腹立たしいくらい綺麗だった。
「後宮の香は慣習だ。止めれば別の騒ぎになる。だから、止めるのではなく“見抜く”必要がある」
「で、私に嗅げと」
「嗅げ。だが、後宮の中では限界がある」壬氏さまは布包みに指を置いた。「これが例の甘い匂いの“元”に近い。香油か、練香か、あるいは別のものか。君なら輪郭を掴めるだろう」
猫姉は布包みに手を伸ばし、指先だけでつまんだ。鼻先を寄せるのは一瞬。吸い込む量が少ないのに、眉が僅かに動く。猫姉が長く匂いを嗅がない時は、だいたい嫌な予感が当たっている。
「油が芯。甘いけど、砂糖じゃない。香を上から被せる前提の匂い。……後宮の中で嗅いだのと、同じ系統」
「同じ“系統”か」壬氏さまが声を落とした。「出所を追えるか?」
「後宮の中で? 無理」猫姉が即答した。「香の出入りは名目が多すぎる。誰が何を運んでも、誰も疑わない。疑うとしたら、外で型を掴む方が早い」
壬氏さまの視線が、俺に移った。俺は一瞬だけ身構えたが、猫姉が口を挟むより先に言った。
「俺も役に立てます。香りの層の作り方は料理と似てます。強い匂いを“消す”んじゃなくて、“分からなくする”やり方も……旅の途中で見てきました」
「旅」壬氏さまが言葉を拾った。「君は外を知っている。猫猫は匂いに強い。二人で行け」
猫姉が露骨に嫌そうな顔をした。
「外に出すの、面倒じゃないですか」
「面倒だ」壬氏さまはあっさり肯定した。「だが、面倒の方が得だ。名目は用意する。療養膳口の仕入れ――香油と薬種の買い付けだ。高順、段取りを」
「承知しました」高順さまが頭を下げた。「目立たぬ護衛も付けます。姿は薄く、口も出しません」
猫姉は小さく鼻で笑った。
「口を出さない護衛なんて、珍しい」
「私が黙らせますので」高順さまの声音が平坦なのに、なぜか説得力があった。
壬氏さまが俺たちを見て、少しだけ声を柔らかくした。
「後宮の外に出るのは久しぶりか?」
「俺は……ここに来てからは初めてです」俺は正直に答えた。「猫姉は、里が……」
「里って言うな」猫姉が即座に切った。「面倒が増える」
「でも、花街の方が匂いの“作り方”は集まってますよね。香油屋も、練香も」
「知ってる」猫姉は認めるのに、嬉しそうにはしない。「あそこは匂いで飯食ってる。上手い人間が多い分、悪用も多い」
その言葉で、部屋の空気がまた少し冷えた。壬氏さまは布包みを閉じ、机の端へ寄せた。
「行って確かめる。戻ったら報告を。君たちの得た情報は、次の“火種”を潰す鍵になる」
猫姉が肩をすくめる。
「火種って言い方、好きですよね」
「料理人がいるからね」壬氏さまが俺を見て微笑んだ。
その微笑みに、俺はうっかり背筋を伸ばした。猫姉の横顔を見ると、やっぱり面倒そうだ。それでも、目だけが冴えている。俺はそこで、胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じた。後宮の外でなら、匂いは“慣習”じゃない。技術として、材料として、形として掴める。掴めれば、鍋と同じだ。火を見て、蓋をして、順番に整える。
部屋を出る廊下で、猫姉が急に立ち止まった。俺も止まる。猫姉は何かを嗅ぐように鼻先を動かし、低く言った。
「……出る前に、ひとつ」
「何ですか」
「外で話す時、余計なこと言わない。特に、私のこと。昔のこと。面倒」
「分かってます」
「分かってない顔だね」
「猫姉が面倒って言う時は、だいたい“気にしてる”時です」
猫姉が睨んだ。けれど、その睨みは鋭いだけで、冷たくはなかった。
「……出発は明日。荷は最小。匂いの包みは私が持つ。あなたは……手を洗って来い。料理人の手は匂いが多い」
「はい」
俺は返事をして、炊場へ戻る足を速めた。久しぶりの外――里帰り、なんて言葉は猫姉が嫌うだろうが、俺にとっては確かに里の方向だ。懐かしさと、嫌な予感が同じ鍋で煮えている。甘い匂いの正体を掴むために。後宮の外へ行くために。